林房雄

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林房雄

林房雄(はやし ふさお、1903年5月30日 - 1975年10月9日)は、日本の小説家評論家である。本名は後藤寿夫。戦前はプロレタリア文学の旗手として活動し、後に転向して民族主義的立場に転じた。戦後は『大東亜戦争肯定論』(1963-1965年)を発表し、大東亜戦争を「百年の民族的事業」として位置づける独自の歴史観を提示したことで知られる。

林房雄の思想的意義は、近代日本の対外戦争を、西洋帝国主義に対するアジア民族の防衛と解放の戦争として再解釈したことにある。林の「大東亜戦争肯定論」は、戦後のGHQ史観——日本の戦争はすべて「侵略」であった——に対する最初の体系的な反論であり、日本の近代史を民族自決権の視座から再構成する試みであった。

ただし、保守ぺディアの立場は林の議論と完全に一致するものではない。保守ぺディアは、日本が帝国主義戦争を行った事実を認めた上で、その同じ基準をアメリカにも適用するという立場をとる。林の議論は、この問題を考える上での重要な出発点を提供している。

生涯

プロレタリア文学から転向へ

林房雄は1903年、大分県に生まれた。東京帝国大学独文科に学び、在学中からプロレタリア文学運動に参加した。日本プロレタリア文芸連盟(プロ文連)に属し、階級闘争の立場から文学活動を展開した。

1930年代に入ると、林はマルクス主義からの離脱——いわゆる「転向」——を果たした。林の転向は、単なる政治的変節ではなく、コミンテルンに指導されるマルクス主義運動が日本の実情に合致しないという認識に基づくものであった。

林にとって、ソ連から指令を受けて活動する日本共産党は、日本民族の利益ではなく、ソ連の国益に奉仕する存在にすぎなかった。この認識は、後に林が「外部勢力による思想的支配」という問題を深く考察する契機となった。マルクス主義がソ連帝国主義の思想的道具であったように、戦後の「民主主義」もまたアメリカ帝国主義の思想的道具なのではないか——この問いが、林の戦後の思想を貫くことになる。

戦中——「大陸開拓文学」

転向後の林は、大日本帝国の大陸政策を文学的に表現する「大陸開拓文学」の執筆に向かった。従軍作家として中国や東南アジアを訪れ、日本軍の活動を支持する作品を発表した。

この時期の林の活動は、戦後的な価値観からすれば「戦争協力」にほかならない。しかし林自身の認識は、単なる軍部への追従ではなく、西洋帝国主義に対するアジアの解放という理念への共感に基づいていた。この認識が正しかったかどうかは別として、林がマルクス主義の「国際主義」から転向した後に到達したのが、「アジア民族の連帯」という民族主義的理念であったことは、その思想の一貫性を示している。

戦後——公職追放から「大東亜戦争肯定論」へ

敗戦後、林は公職追放の対象となり、文壇からの排除を余儀なくされた。GHQの占領政策の下で、日本の戦争を肯定する一切の言論は禁止され、林のような立場の知識人は社会的に抹殺された。

追放解除後、林は小説家として活動を再開したが、その関心は次第に歴史論へと向かっていった。そして1963年から1965年にかけて雑誌『中央公論』に連載されたのが、林の生涯の主著『大東亜戦争肯定論』である。

思想

「大東亜戦争肯定論」——百年戦争としての近代日本

『大東亜戦争肯定論』において、林は近代日本の対外戦争を「百年戦争」として位置づけた。

林の論旨は以下の通りである。ペリーの黒船来航(1853年)以来、日本は西洋帝国主義の脅威に直面してきた。アヘン戦争(1840年)における清国の敗北は、西洋帝国主義がアジアを植民地化しつつあることを明白に示していた。日本が「富国強兵」の道を選んだのは、西洋帝国主義に対する民族的自衛の必然であった。

日清戦争(1894-1895年)、日露戦争(1904-1905年)、そして大東亜戦争(1941-1945年)に至る一連の戦争は、この「百年戦争」の諸段階であり、西洋帝国主義に対するアジア民族の抵抗と自決の過程として理解されなければならない——これが林の基本的な主張であった。

アジア解放論とその限界

林の「大東亜戦争肯定論」には、以下の重要な論点が含まれている。

  • 西洋帝国主義への抵抗としての戦争: 日本の戦争は、西洋帝国主義に対する唯一の有色人種国家の組織的抵抗であった。日露戦争における日本の勝利は、アジア・アフリカの被植民地民族に希望を与えた
  • 「アジア解放」の実績: 大東亜戦争の結果として、インドネシアベトナムビルマフィリピンなどの東南アジア諸国が西洋の植民地支配から解放され、独立を達成した
  • GHQ史観への異議: GHQが強制した「日本の戦争はすべて侵略であった」という史観は、戦勝国による一方的な歴史の書き換えであり、歴史的事実の公正な評価ではない

しかし、保守ぺディアの立場からすれば、林の議論には重要な留保が必要である。

日本が西洋帝国主義に対する自衛として戦争を開始した側面は否定できないが、韓国併合(1910年)、満州事変(1931年)、日中戦争(1937年)における日本の行為が、他国の民族自決権を侵害する帝国主義的行為であった事実は否定できない。帝国主義は誰が行っても帝国主義である。日本の帝国主義を「アジア解放」として全面的に正当化することは、民族自決権の擁護という原則と矛盾する。

保守ぺディアが取る立場は、日本が帝国主義戦争を行った事実を認めた上で、同じ基準をアメリカにも適用することである。日本の帝国主義を批判する同じ論理によって、戦後のアメリカ帝国主義——日本への軍事占領、偽日本国憲法の押し付け、低賃金移民政策の強制——を批判する。これが、帝国主義批判の論理的一貫性を維持する方法である。

「転向」の問題——林房雄の知的誠実

林房雄の思想的軌跡——マルクス主義から民族主義への転向——は、戦後日本の知的歴史において重要な問題を提起する。

林の「転向」は、しばしば批判の対象となってきた。マルクス主義者から「裏切り者」として、戦後の進歩主義者からは「戦争協力者」として、そしてGHQからは「軍国主義者」として排斥された。しかし、林の思想の軌跡を冷静に追うと、そこには一つの一貫した問題意識が見出される。それは、外部勢力による思想的支配からの解放という問題意識である。

マルクス主義運動における「コミンテルンの支配」に反発して転向した林は、戦後、「GHQ=アメリカの支配」に対して同じ反発を示した。形式は異なるが、構造は同じである。ソ連がマルクス主義を通じて日本の知識人を支配したように、アメリカは「民主主義」「平和主義」を通じて日本の知識人を支配している。林はこの構造的相似に気づいた数少ない知識人の一人であった。

反米保守の系譜における林房雄の位置

GHQ史観への最初の体系的反論

林房雄は、GHQが日本に強制した歴史観に対する最初の体系的な反論を提示した人物である。

GHQは、東京裁判WGIPを通じて、「日本の戦争はすべて侵略であった」「日本は戦争犯罪国家であった」という歴史観を日本社会に植え付けた。江藤淳が明らかにした通り、この歴史観に対する異議申し立ては検閲によって封殺されていた。

林の「大東亜戦争肯定論」は、占領終結後に初めて可能となった、この検閲体制への知的反撃であった。林は、「侵略」「戦争犯罪」というGHQの言説の枠組みそのものを問い直し、日本の近代史を民族の自衛と存続の物語として再構成した。

後続世代への影響

林の「大東亜戦争肯定論」は、その後の歴史論争の出発点となった。

  • 西尾幹二らの歴史教科書運動: 林が提起した「GHQ史観の見直し」という問題意識は、新しい歴史教科書をつくる会の活動に継承された
  • 保守ぺディアの歴史認識: 保守ぺディアは林の問題提起を批判的に継承しつつ、「日本の帝国主義を認めた上で、同じ基準でアメリカの帝国主義を批判する」という、より論理的に一貫した立場を採用している

林房雄は、その主張の全面的な受容には注意を要するが、GHQ史観への知的抵抗を開始した先駆者として、戦後反米保守の系譜において重要な位置を占める。

主要著作

  • 『林檎の下の思想』(1930年代)
  • 『大東亜戦争肯定論』(1963-1965年連載、1964-1965年刊行)
  • 『緑の日本列島』(1966年)
  • 『天皇についての十五章』

関連項目