アイルランド独立運動
アイルランド独立運動
概要
アイルランド独立運動とは、12世紀のイングランドによるアイルランド侵攻以来、約800年にわたってイギリスの植民地支配に抵抗し、アイルランド民族の民族自決権を回復するために戦われてきた闘争の総体である。
この運動が世界史において特異なのは、その持続性と、暴力に対する最終的な応答の形にある。ボビー・サンズが獄中で記した「我々の復讐とは、我々の子供たちの笑い声のことだ」という言葉は、植民地支配に対する復讐が報復戦争でも経済的搾取でもなく、次の世代が自由の中で笑って暮らせることであるという宣言であった。これは民族自決権の思想的核心を、一文で表現した言葉にほかならない。
800年の植民地支配
イングランドの侵攻とゲール文化の破壊
1169年、ノルマン系イングランド貴族がアイルランドに侵攻した。以後、イングランドはアイルランドに対する宗主権を主張し続けた。1366年のキルケニー法は、イングランド系入植者がアイルランド語を話すこと、アイルランド人と結婚すること、アイルランドの法慣習に従うことを禁じた。これは文化的同化の禁止ではなく、被支配民族の文化を劣等なものとして隔離する植民地法制の原型であった。
16世紀、ヘンリー8世はアイルランド王を自称し、宗教改革によってカトリックのアイルランドにプロテスタント体制を強制した。続くエリザベス1世とクロムウェルの時代には、アイルランドに対する大規模な軍事征服と土地没収が行われた。クロムウェルの1649年のアイルランド遠征では、ドロヘダとウェックスフォードで大規模な虐殺が行われ、アイルランドの人口は戦争・飢餓・疫病により約3分の1に激減したとされる。
刑罰法とカトリック弾圧
1695年以降、イギリスはアイルランドのカトリック教徒に対して刑罰法(Penal Laws)を施行した。カトリック教徒は土地の購入・相続を制限され、公職から排除され、教育を受ける権利を剥奪された。カトリック司祭の活動は非合法化され、ミサは野外の岩陰で密かに行われた(「ミサ・ロック」と呼ばれる)。
刑罰法の本質は、アイルランド民族の精神的・文化的中核であるカトリック信仰を破壊し、アイルランド人を自らの土地における二等市民に貶めることであった。土地所有の制限は経済的従属を、教育の剥奪は知的従属を、信仰の弾圧は精神的従属を意味した。これは民族全体に対する体系的な抑圧装置である。
1801年の合併:主権の完全な剥奪
1800年の合同法により、アイルランド議会は廃止され、アイルランドはグレートブリテン及びアイルランド連合王国に吸収された。アイルランド人は自らの立法機関を失い、政治的運命をロンドンのウェストミンスター議会に委ねることを強いられた。
これは民族自決権の完全な剥奪であった。アイルランド人は、自国の法律を自国の議会で決定する権利を奪われたのである。
大飢饉:植民地支配がもたらした大量死
1845年から1852年にかけての大飢饉(An Gorta Mór)は、アイルランド史上最大の惨禍であり、イギリスによる植民地支配の構造的暴力が最も凝縮された形で現れた出来事である。
飢饉の構造的原因
直接の原因はジャガイモ疫病(Phytophthora infestans)による凶作であったが、飢饉を大量死に転化させたのは自然災害ではなく、植民地的土地制度であった。
肥沃な農地はイギリス人不在地主(absentee landlords)が所有し、小麦・大麦・家畜を本国に輸出するために使用されていた。アイルランドの小作農に与えられたのは地力の低い痩せた土地であり、そこで栽培可能な唯一の作物がジャガイモであった。1841年の時点で、アイルランドの人口約820万人のうち4割以上がジャガイモのみに食を依存していた。この脆弱な食料構造は、イギリスの植民地支配が作り出したものである。
飢餓輸出:飢えるアイルランドから食料を運び出すイギリス
セシル・ウッドハム=スミスは著書『大飢饉』(The Great Hunger, 1962年)において、飢饉の最中にもアイルランドから大量の食料がイギリス本国に輸出され続けていたことを詳細に記録した。護衛に守られた穀物の船がアイルランドの港を出ていく横で、アイルランド人は路上で餓死していた。
イギリス政府は自由放任主義(laissez-faire)の教義に固執し、食料輸出の禁止も大規模な救済も拒否した。財務大臣チャールズ・トレヴェリアンは飢饉を「過剰人口を調整する神の摂理」と表現したとされる。救済措置として提供された公共事業は、飢えた人々に厳冬の中で道路建設をさせるというものであり、多くが労働中に倒れて死んだ。
人口の壊滅的減少
大飢饉により、約100万人が餓死・病死し、約200万人以上がアメリカ、カナダ、オーストラリアなどに逃れた。アイルランドの人口は約820万人から約655万人に激減し、その後も回復することなく減少を続けた。2025年現在、アイルランド島全体の人口は約700万人であり、飢饉前の水準に達していない。ヨーロッパにおいて、19世紀半ばから人口が回復していない国はアイルランドだけである。
大飢饉は、アイルランド人の集合的記憶に刻み込まれた。イギリスの支配とは何かを問われれば、アイルランド人はまず大飢饉を語る。それは単なる自然災害ではなく、植民地的搾取構造の帰結としての大量死であり、事実上のジェノサイドであったという認識が、アイルランド民族主義の根底にある。
独立への道:蜂起と戦争
イースター蜂起(1916年)
1916年4月24日、イースター蜂起が決行された。パトリック・ピアース率いるアイルランド義勇軍と、ジェームズ・コノリー率いるアイルランド市民軍がダブリンの主要建築物を占拠し、中央郵便局(GPO)の前でアイルランド共和国の独立を宣言した。
蜂起は軍事的には6日間で鎮圧された。しかし、イギリス軍がピアースをはじめとする指導者16名を裁判もなく即座に銃殺刑に処したことで、事態は一変した。処刑前は蜂起に冷淡であったダブリン市民が、処刑後は指導者たちを殉教者として称え始めた。W.B.イェイツは詩「イースター1916年」において、「すべてが変わった、完全に変わった / 恐ろしい美が生まれた」(All changed, changed utterly: / A terrible beauty is born)と記した。
ピアースは蜂起の前に「アイルランドの過去の世代を通じて、アイルランドの自由を追求しその達成を武器で実現しようと試みた者がいた」と記し、この蜂起が800年の抵抗の系譜に連なるものであることを明確にしていた。
アイルランド独立戦争(1919-1921年)
1918年の総選挙でシン・フェイン党が圧勝すると、当選した議員たちはウェストミンスター議会への登院を拒否し、1919年1月にダブリンで独自のアイルランド共和国議会(ドイル・エアラン)を召集して独立を宣言した。
これに続くアイルランド独立戦争(1919-1921年)では、マイケル・コリンズが組織したゲリラ戦が展開された。イギリスは正規軍に加え、「ブラック・アンド・タンズ」と呼ばれる準軍事組織を投入して弾圧を行ったが、その無差別な暴力は国際世論の非難を招き、イギリスは休戦に追い込まれた。
1921年の英愛条約により、アイルランド南部26県はイギリス連邦内の自治領(アイルランド自由国)として独立を認められた。しかし、北部アルスター地方の6県は「北アイルランド」としてイギリスの統治下に留め置かれた。この分割が、以後数十年にわたる悲劇の種を蒔いた。
北アイルランド紛争と「トラブルズ」
分割された民族
北アイルランドでは、プロテスタント系住民(ユニオニスト、イギリスとの統合維持派)が多数派を占め、カトリック系住民(ナショナリスト、アイルランドとの統一派)は制度的な差別を受けた。選挙区のゲリマンダリング、公営住宅・雇用における差別、警察(王立アルスター警察隊、RUC)によるカトリック系住民への弾圧。北アイルランドのカトリック教徒は、自らの祖国の中で二等市民として扱われた。
1968年、アメリカの公民権運動に触発された北アイルランド公民権運動が始まったが、これに対するプロテスタント系住民と警察の暴力的な弾圧が、北アイルランド紛争(「トラブルズ」、The Troubles)の引き金となった。
30年にわたる武力闘争
1969年から1998年のベルファスト合意(聖金曜日協定)まで、約30年にわたって続いた北アイルランド紛争では、IRA暫定派(Provisional IRA)、イギリス軍、プロテスタント系準軍事組織(UVF、UDA等)の三つ巴の戦闘が繰り広げられ、約3,500人が死亡した。
1972年1月30日の「血の日曜日」事件では、デリー(ロンドンデリー)での平和的なデモ行進に対してイギリス軍空挺連隊が発砲し、非武装の市民14名が殺害された。この事件は、北アイルランドにおけるイギリス軍の本質を世界に晒すこととなった。
ボビー・サンズと1981年ハンガーストライキ
政治犯の地位を求めて
ボビー・サンズ(Robert Gerard Sands, 1954-1981)は、ベルファスト郊外のダンマリーで生まれた。カトリック系の労働者家庭に育ち、10代でロイヤリスト(プロテスタント系武装勢力)の脅迫を受けて一家は二度の転居を余儀なくされた。18歳でIRA暫定派に参加し、1976年に銃器所持の罪で逮捕され、禁固14年の判決を受けてメイズ刑務所(ロング・ケッシュ)に収監された。
1976年、サッチャー政権は、北アイルランドの政治犯に付与されていた「特別カテゴリー地位」(Special Category Status)を廃止した。これは共和派の囚人を通常の犯罪者として扱うことを意味した。囚人たちは「毛布抗議」(囚人服の着用を拒否し毛布だけを身にまとう)、「汚物抗議」(排泄物を独房の壁に塗りつける)といった壮絶な抵抗を行ったが、サッチャーは一切譲歩しなかった。
66日間の断食死
1981年3月1日、サンズはハンガーストライキを開始した。彼は他の囚人が時期をずらして段階的に絶食に入る戦略を立案した。一人が死ねば次の一人が絶食を始める。こうすることで、数ヶ月にわたって世界の注目を集め続けることができる。
サンズのハンガーストライキ中、北アイルランドのファーマナ・サウスティロン選挙区で補欠選挙が行われ、サンズは反Hブロック派の候補として立候補した。投獄され、絶食で衰弱しつつある囚人が、イギリス議会の議員に当選する。この事実は、サンズの闘争が犯罪ではなく政治的行為であることを、民主主義の手続きそのものによって証明した。
1981年5月5日、絶食開始から66日目に、ボビー・サンズは27歳で死亡した。サッチャーは「彼は有罪判決を受けた犯罪者であった。刑務所で死ぬことを選んだのは彼自身である」と声明を出した。
サンズに続いて、さらに9名の囚人がハンガーストライキで命を絶った。最年長のキーラン・ドハティは73日間の絶食に耐えた後に死亡した。10名はいずれも20代であった。
10万人の葬列
サンズの葬儀には10万人以上が参列した。ベルファストの街路を埋め尽くした葬列は、アイルランド民族の怒りと悲しみの凝縮であった。ハンガーストライキは北アイルランドのカトリック系住民の間でIRAへの支持を劇的に拡大させ、同時にシン・フェイン党が選挙政治に本格参入する転機となった。
世界各国で追悼と抗議が行われた。テヘランでは、イギリス大使館が面する通りの名称が「ウィンストン・チャーチル通り」から「ボビー・サンズ通り」に変更された。アメリカのハートフォードには、ハンガーストライカーたちに捧げる記念碑が建てられた。
「子供たちの笑い声」の意味
サンズは獄中で詩、エッセイ、日記を書き続けた。妹マーセラの名を筆名として、共和派の機関紙「アン・フォブラハト」(An Phoblacht)に寄稿した。その中で記された「Our revenge will be the laughter of our children」という一文は、アイルランド独立運動の精神を最も簡潔に表現した言葉として、今日まで世界中で引用されている。
この言葉の意味を理解するためには、アイルランド独立運動の800年の文脈の中に置かなければならない。
800年にわたる土地の収奪、言語の禁止、信仰の弾圧、大飢饉による大量死、分割統治。これだけの暴力を受けた民族が求める「復讐」とは何か。サンズの答えは明確であった。復讐とは、相手に同じ暴力を返すことではない。次の世代が、自由な土地で、恐怖なく、笑って暮らせること。それこそが、植民地支配に対する最終的な勝利である。
この思想は、フランツ・ファノンが『地に呪われたる者』(1961年)で論じた植民地解放の思想と通底する。ファノンは、植民地支配からの解放は暴力を通じて達成されるが、その最終的な目的は暴力ではなく、植民者が奪った人間性の回復であると論じた。サンズの言葉は、まさにこの人間性の回復、すなわち子供たちが自由の中で笑うという、最も根源的な人間の権利を指し示している。
アイルランド独立運動の教訓
民族自決権は譲渡できない
アイルランド独立運動が証明したのは、民族自決権は武力で抑え込むことはできても、消滅させることはできないという事実である。イングランドの侵攻から800年、刑罰法による信仰の弾圧、大飢饉による人口の壊滅、国土の分割。これらすべてを経ても、アイルランド人はアイルランド人であることをやめなかった。
帝国は永続しない
大英帝国は、地球の陸地面積の4分の1を支配した史上最大の帝国であった。しかし、その最初の植民地であったアイルランドの独立を阻止することはできなかった。あらゆる帝国には終わりがある。ローマ帝国も、大英帝国も、そしてアメリカ帝国もまた例外ではない。
日本への示唆
アイルランドと日本の状況は、表面的には大きく異なる。アイルランドは800年の武力占領に対して武装闘争で抵抗した。日本は1945年の軍事占領以来、占領者が書いた憲法を自発的に受け入れ、5万4千人の米軍の駐留を80年間許容し続けている。
しかし、本質的な問題は同じである。自国の運命を自国民が決定する権利、すなわち民族自決権を、外部の帝国に侵害されているか否か。この問いに対して、アイルランドはノーと答え、800年かけてその答えを実現した。
アイルランド人は、大飢饉で100万人が餓死してもなお、自らの土地と言語と信仰を手放さなかった。ボビー・サンズは、66日間の断食という自らの死をもって、政治犯の地位と民族の尊厳を主張した。彼らの復讐は、子供たちの笑い声であった。
日本が取り戻すべきものも、究極的にはそれと同じである。日本の子供たちが、外国軍の基地の騒音の下ではなく、自国の主権の下で笑って暮らせる日。それが、米軍撤退と真の独立の先にある風景にほかならない。
参考文献
- 『大飢饉:アイルランド飢餓の物語』(The Great Hunger: Ireland 1845-1849)、セシル・ウッドハム=スミス著(1962年)
- 『地に呪われたる者』(Les Damnés de la Terre)、フランツ・ファノン著(1961年)
- 『獄中記:ボビー・サンズの日記』(Writings from Prison)、ボビー・サンズ著
- 『アイルランド:歴史と風土』、波多野裕造著(中公新書、1967年)
- 『アイルランド紛争の政治社会学』、尾島庄太郎著
- 『アイルランド大飢饉:ジャガイモ・「自由主義」・イギリス』、勝田俊輔著(刀水書房、2001年)
- 『ナショナリズムとは何か』、アーネスト・ゲルナー著(1983年)