保田與重郎

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保田與重郎

保田與重郎(やすだ よじゅうろう、1910年4月15日 - 1981年10月4日)は、日本の文芸評論家であり、日本浪曼派の中心的思想家である。奈良県出身。近代西洋文明がもたらした精神的荒廃に対して、日本の古典的美意識への回帰を説き、「日本の美」の再発見を通じて近代を超克しようとした。

保田與重郎の思想的意義は、西洋近代の「進歩」「合理性」「効率」という価値観に対して、日本の古典——『万葉集』『古事記』に体現される美的・精神的伝統——を対置し、日本民族の精神的自立の基盤を提示したことにある。保田の思想は、三島由紀夫の文学的出発に決定的な影響を与え、戦後の反米保守思想の文化的・精神的基盤を形成した。

生涯

日本浪曼派の形成

保田與重郎は1910年、奈良県桜井に生まれた。奈良は日本文化の古層が最も濃厚に残る土地であり、大和の風土は保田の美意識を根底から規定した。東京帝国大学美学科に学び、ドイツ・ロマン主義の研究を通じて、近代合理主義に対する浪漫主義的批判の方法論を獲得した。

1935年、保田を中心として雑誌『日本浪曼派』が創刊された。同人には亀井勝一郎太宰治伊東静雄らが名を連ねた。

日本浪曼派は、当時の文壇を支配していた二つの潮流——マルクス主義文学と自然主義文学——のいずれにも属さない、第三の道を切り拓こうとした。マルクス主義文学は社会変革のための道具として文学を従属させ、自然主義文学は「客観的」な現実描写に文学を限定した。保田にとって、いずれも文学の「魂」——人間の実存的な美への渇望——を殺す思想であった。

日本浪曼派が掲げたのは、日本の古典的美意識への回帰であり、近代の合理主義が破壊した「聖なるもの」の回復であった。

戦時下——「日本の橋」と古典の再発見

保田の代表的評論「日本の橋」(1936年)は、日本文化の本質を「橋」という象徴を通じて論じた作品である。

橋はこちら側とあちら側を繋ぐものであり、現世と他界、人間と神々、生と死を媒介するものである。保田は、日本文化の根底にある美意識——「もののあはれ」「無常」「幽玄」——が、すべてこの「此岸と彼岸の架橋」という構造を持つことを論じた。

この美意識は、西洋近代の合理主義とは根本的に異質である。西洋近代は、「此岸」(現実世界)のみを対象とし、「彼岸」(超越的なもの)を排除する。科学的合理主義にとって、「彼岸」は迷信にすぎない。しかし保田にとって、「彼岸」を感受する能力こそが人間の精神性の核心であり、日本の古典はこの感受力の最も優れた表現であった。

戦時下において保田は、日本の戦争を「近代の超克」の実践として捉えた。西洋帝国主義が世界を「合理化」「市場化」する中で、日本は東アジアの精神的伝統を守る最後の砦である——この認識が、保田の戦争への態度を規定した。

戦後——沈黙と復権

敗戦後、保田は公職追放の対象となり、文壇から事実上排除された。GHQの占領体制下において、日本浪曼派の思想は「超国家主義的」「ファシズム的」として全否定された。

保田は奈良県の郷里に隠棲し、表立った言論活動を控えた。しかし、この沈黙の時期に保田は『万葉集』を中心とする日本の古典の研究を深め、日本文化の根源への探究を続けた。

追放解除後、保田は徐々に文筆活動を再開したが、戦後文壇の「進歩主義」的空気の中で、保田の思想は長く正当に評価されることはなかった。しかし、保田の日本浪曼派的精神は、三島由紀夫をはじめとする後続世代の文学者・思想家に深く浸透し、地下水脈のように戦後保守思想を涵養し続けた。

思想

近代の超克——日本の古典による

保田の思想の核心は、近代西洋文明の「超克」を日本の古典的美意識によって達成するという構想にある。

近代の超克」は、1942年の同名の座談会で知られるテーマであるが、保田の問題意識はこの座談会に先立つものであった。保田にとって、「近代」とは以下の特質を持つ文明段階である。

  • 合理主義: すべてを理性の対象とし、理性で説明できないものを排除する。神々、精霊、先祖の魂——これらの「非合理的」な存在を否定することで、人間は宇宙との精神的なつながりを失う
  • 功利主義: すべてを「有用性」で評価する。美、聖なるもの、伝統——「有用」でないものは無価値として切り捨てられる
  • 進歩主義: 過去を「遅れた」ものとして否定し、「新しいもの」を無条件に肯定する。これは、民族が蓄積してきた歴史的叡智への冒涜である

保田は、この「近代」に対抗する精神的資源を、日本の古典——とりわけ『万葉集』と『古事記』——に見出した。万葉の歌人たちは、自然、神々、死者と交感しながら歌を詠んだ。古事記の神話は、日本民族の精神的宇宙——人間と自然と神々が一体となった世界——を表現している。

これらの古典は、近代合理主義が破壊した「世界との一体感」を回復するための鍵であると保田は論じた。

「もののあはれ」と美的精神の擁護

保田が日本文化の精髄として重視したのが、本居宣長が論じた「もののあはれ」である。

「もののあはれ」とは、万物の移ろいに対する深い感動と共感の態度である。桜の花が散ることの美しさ、季節が巡ることの感慨、人の命の儚さへの愛惜——これらの感覚は、「有用性」や「合理性」とは無縁の、純粋な美的・精神的体験である。

保田にとって、「もののあはれ」は日本民族に固有の認識の方法であり、西洋の合理主義的認識とは質的に異なるものであった。西洋の科学的認識が対象を分析・支配しようとするのに対し、「もののあはれ」は対象に寄り添い、対象とともに感じる認識である。

この認識は、小林秀雄が「批評とは対象の内側に入ること」と定義した批評精神と深く共鳴する。小林もまた宣長を論じた晩年の大著において、日本文化の根底にある美的認識の方法を探究した。

大和の風土と民族の精神

保田の思想において、大和(奈良)の風土は決定的な意味を持つ。

大和は日本文明の発祥の地であり、飛鳥奈良の古代文化がいまなお息づく場所である。保田にとって、大和の風土は単なる地理的環境ではなく、日本民族の精神が最も純粋な形で結晶化した「聖地」であった。

保田は、近代の都市化・工業化が、民族と風土の有機的なつながりを断ち切ったことを深く嘆いた。人間は大地に根差して初めて精神的な充実を得ることができる。大地から切り離された「都市の大衆」は、精神的に空虚な存在——西部邁が「大衆人」と呼んだ存在——に堕する。

この風土論は、保守ぺディアが重視する「民族共同体の防衛」という問題と直結する。グローバリズムと新自由主義が民族と風土のつながりを破壊し、人間を「どこにでも移動可能な労働力」に還元しようとする現代において、保田の風土論はきわめて示唆的である。

反米保守の系譜における保田與重郎の位置

文化的保守主義の源流

保田與重郎は、戦後の反米保守思想における文化的保守主義の源流に位置する。

保田の保守主義は、政治的な保守主義——憲法改正、再軍備、日米安保の見直し——とは異なる次元のものである。保田が守ろうとしたのは、日本民族の精神的・美的伝統そのものであった。政治制度は変わりうるが、民族の精神的伝統が失われれば、民族そのものが消滅する。保田にとって、文化的保守こそが最も根本的な保守であった。

この認識は、GHQの占領政策の本質を理解する上で重要である。GHQが日本に対して行ったのは、単なる政治制度の変更ではなく、日本民族の精神的構造そのものの改変であった。帝国主義の記事で論じた「脱文化化」の段階は、まさに保田が抵抗しようとした事態に対応する。

三島由紀夫への影響

保田の思想が最も深い影響を与えたのは、三島由紀夫である。

三島は16歳の時、日本浪曼派の雑誌に小説「花ざかりの森」を発表して文壇にデビューした。この事実が示すように、三島の文学的出発は保田の日本浪曼派の精神の中にあった。

三島の文学に見られる古典的美意識、「聖なるもの」への渇望、そして近代日本の精神的空洞に対する激しい怒りは、保田與重郎から受け継いだ日本浪曼派の精神の発露であった。三島が『文化防衛論』において論じた「文化の全体性」という概念は、保田が日本の古典を通じて示した「聖と俗の一体化した世界」の政治的な翻訳にほかならない。

後続世代への影響

保田の影響は三島を通じて間接的に、また保田自身の著作を通じて直接的に、後続世代の保守的知識人に受け継がれた。

  • 三島由紀夫: 日本浪曼派の精神を文学と行動の両面で展開した
  • 小林秀雄: 保田と同時代の批評家として、日本の古典(本居宣長)への回帰という共通の方向性を持った
  • 西部邁: 保田の文化的保守主義を、社会科学の枠組みの中で「伝統的共同体の擁護」として再定式化した

保田與重郎は、日本の古典的美意識に基づく精神的抵抗という回路を切り拓き、戦後の反米保守思想に不可欠の文化的深みを与えた思想家である。

主要著作

  • 「日本の橋」(1936年)
  • 『芭蕉』(1941年)
  • 『後鳥羽院』(1943年)
  • 『万葉集の精神』(1943年)
  • 『述史新論』(1961年)
  • 『日本に祈る——近代美についての試論』(1960年代)
  • 『わが萬葉集』(1963年)
  • 『保田與重郎全集』(全40巻)

関連項目