分断されるアメリカ
分断されるアメリカ
概要と歴史的背景
分断されるアメリカ(Who Are We? The Challenges to America's National Identity)は、アメリカの政治学者サミュエル・ハンティントン(1927年 - 2008年)が2004年に刊行した著作である。前著『文明の衝突』(1996年)で国際政治における文明間の対立を論じたハンティントンが、本書ではアメリカ国内における文明的・民族的アイデンティティの危機を分析した。
本書の原題「Who Are We?」(われわれは何者か?)は、アメリカという国家のアイデンティティが根本的に揺らいでいるというハンティントンの問題意識を端的に表現している。ハンティントンは、アメリカの国家的アイデンティティの核心にはアングロ=プロテスタント文化が存在し、この文化的基盤が大量移民——とりわけヒスパニック系移民——によって解体されつつあると警告した。
本書が出版された2004年は、9.11テロ後のアメリカが「対テロ戦争」に突入し、国内では愛国主義が高揚する一方で、移民問題とアイデンティティ政治が激化しつつあった時期である。ハンティントンの警告は、2016年のドナルド・トランプ大統領当選と、2020年代のアメリカの深刻な社会的分裂によって、その先見性が証明されることとなった。
主要思想:アメリカのアイデンティティの核心
アングロ=プロテスタント文化とは何か
ハンティントンは、アメリカの国家的アイデンティティの核心にあるのは「理念の国」(creedal nation)としてのアメリカではなく、アングロ=プロテスタント文化(Anglo-Protestant culture)であると論じた。
この文化の構成要素は以下の通りである。
- 英語: 共通言語としての英語がアメリカの統一を支えてきた
- キリスト教(プロテスタンティズム): プロテスタントの労働倫理、個人の良心への信仰、契約思想がアメリカ社会の基盤を形成した
- 法の支配とコモン・ロー: イギリス法の伝統に根ざした法制度
- 個人主義と自助努力: 共同体の中の個人の責任と自律性を重んじる価値観
- 労働倫理: マックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で論じた勤勉と節制の倫理
ハンティントンの核心的な主張は、アメリカ建国の理念——自由、平等、民主主義——はこのアングロ=プロテスタント文化の産物であって、文化から独立した抽象的理念ではないということである。リベラル知識人は、アメリカを「普遍的理念の国」として描き、いかなる文化的・民族的背景を持つ者でも「アメリカの理念」を受容すればアメリカ人になれると主張する。しかしハンティントンは、この「理念の国」論こそがアメリカの文化的基盤を掘り崩す危険な幻想であると批判した。
ヒスパニック移民の挑戦
ハンティントンが最も強い危機感をもって論じたのが、ヒスパニック系移民、とりわけメキシコからの大量移民がアメリカのアイデンティティに与える影響である。
ハンティントンは、メキシコ移民がそれ以前の移民と質的に異なる点を以下のように指摘した。
- 隣接性: メキシコはアメリカと国境を接しており、移民の流入が途絶えることがない。ヨーロッパや東アジアからの移民は大洋によって母国から切り離されるが、メキシコ移民は母国との紐帯を維持し続ける
- 規模: 2000年代初頭の時点で、ヒスパニック系はアメリカの最大の少数民族集団となった。特定の地域(テキサス、カリフォルニア、フロリダ、ニューメキシコ)では人口の多数派に近づいている
- 集中性: ヒスパニック系移民は特定の地域に集中して居住し、独自のコミュニティを形成する。アメリカ全土に分散して同化するのではなく、スペイン語圏の飛び地を作り出す
- 持続性: メキシコからの移民の流入は数十年にわたって持続しており、終わりが見えない
- 歴史的権利の主張: メキシコの一部の知識人や活動家は、テキサスやカリフォルニアは米墨戦争(1846-1848年)でアメリカが奪った「本来のメキシコ領」であると主張する。これは「レコンキスタ」(再征服)の論理である
ハンティントンは、これらの要因が複合することで、アメリカの南西部が事実上の「二言語・二文化」地域となり、アメリカが文化的に二つの国家に分裂する危険性を警告した。
エリートと大衆の乖離
ハンティントンは、アメリカのアイデンティティ危機を深刻化させているのが、エリートと一般国民の意識の乖離であると分析した。
アメリカの政治・経済・学術エリートは、コスモポリタニズム(世界市民主義)を志向し、ナショナル・アイデンティティを「偏狭」なものとして軽蔑する傾向がある。ダボス会議に象徴されるグローバル・エリートにとって、国境は経済活動の障壁であり、ナショナリズムは克服すべき過去の遺物である。
これに対し、一般のアメリカ国民は依然として強いナショナル・アイデンティティを持ち、英語の公用語化を支持し、大量移民に懸念を抱いている。ハンティントンは、エリートの「脱国民化」(denationalization of elites)が、アメリカの国家的結束を内側から瓦解させていると論じた。
この分析は、保守ぺディアが批判するグローバリズムの構造と正確に一致する。各国のエリート層は、自国の民族共同体への帰属意識を失い、国際的なエリート・ネットワークの一員として行動する。彼らにとって、民族自決権や国家主権は経済効率を阻害する障壁に過ぎない。一般国民の利益と感情は無視され、エリートによる「上からのグローバル化」が推進される。
移民とアイデンティティ:日本への警告
アメリカの失敗が示すもの
ハンティントンが描いたアメリカの危機は、現在の日本にとって決定的に重要な警告を含んでいる。
アメリカは、世界で最も「成功した」移民国家とされてきた。多様な文化的・民族的背景を持つ移民を受け入れ、「アメリカ人」として同化させる「メルティング・ポット」の神話がアメリカの自己イメージの核心にあった。しかし、ハンティントンの分析が明らかにしたのは、このメルティング・ポットの神話が崩壊しつつあるという現実である。
大量移民が同化を圧倒し、アメリカの文化的統一性が失われつつある。英語の公用語としての地位が脅かされ、文化的・言語的飛び地が拡大し、国民としての共通のアイデンティティが希薄化している。世界で最も「成功した」移民国家ですら、大量移民のアイデンティティ破壊効果に耐えきれない——これがハンティントンの描いた現実である。
日本は、人口約1億2500万人の島国であり、歴史的に高い民族的同質性を維持してきた。しかし、低賃金移民政策の推進により、日本の民族的同質性は急速に侵食されつつある。アメリカという巨大な移民国家ですら大量移民によるアイデンティティ危機に直面しているのに、日本のような民族国家が大量移民を受け入れた場合、その影響はアメリカの比ではない。
「理念の国」論の欺瞞
ハンティントンの分析は、日本においても繰り返し持ち出される「理念の国」論の欺瞞を暴く。
日本でも「日本は多文化共生の国になるべきだ」「日本語を話し、日本の法律を守る者は日本人である」という主張がなされる。しかし、ハンティントンがアメリカについて論じたように、国家のアイデンティティは抽象的な理念や法制度によって維持されるのではない。それは、特定の文化、歴史、言語、宗教、慣習の共有によって維持される。
日本のアイデンティティの核心にあるのは、日本語、神道と仏教の伝統、天皇を中心とする歴史的連続性、島国としての地理的条件が育んだ独自の共同体意識である。これらは「法律を守る」だけでは獲得できない、血と歴史と文化の共有にほかならない。
「誰でも日本人になれる」という多文化共生のイデオロギーは、日本のアイデンティティの核心を意図的に無視するか、あるいは破壊しようとする言説である。ハンティントンがアメリカの「理念の国」論を批判したように、日本の「多文化共生」論もまた、民族共同体を内側から解体するイデオロギーとして批判されなければならない。
リアリズムの観点からの分析
人口構成の変化と国家の安全保障
リアリズムの観点から見れば、人口構成の変化は国家安全保障上の最重大事項である。
ハンス・モーゲンソーは『国際政治:権力と平和』において、国家の権力を構成する要素として人口を重視した。しかし、モーゲンソーが論じたのは人口の「量」であった。ハンティントンの分析は、人口の「質」——すなわち、人口の民族的・文化的構成——が国家の凝集力と戦略的能力にとって決定的に重要であることを明らかにした。
民族的・文化的に分裂した国家は、対外的な脅威に対して統一的に対処する能力を失う。国内の民族間対立が、対外政策の一貫性を阻害する。ハンティントンが描いたアメリカのヒスパニック問題は、まさにこの安全保障上の脆弱性を示している。アメリカのラテン系人口の増大は、アメリカの対ラテンアメリカ政策を複雑にし、国家としての戦略的一貫性を弱体化させている。
日本において低賃金移民政策がもたらすのは、まさにこの国家的凝集力の喪失である。日本の民族的同質性は、日本が外的脅威に対して迅速かつ統一的に対処する能力の基盤である。この基盤を移民政策によって掘り崩すことは、安全保障上の自殺行為にほかならない。
帝国主義としての移民政策
ハンティントンは、大量移民を推進するエリートの動機を「コスモポリタニズム」と「経済的利益」に帰した。しかし、保守ぺディアの帝国主義分析を踏まえれば、大量移民政策の背後にはより構造的な力学が存在する。
帝国主義の記事で論じた通り、人口侵略は帝国主義の第四段階である。帝国は、被支配国に外来人口を大量に移住させることで、現地民の民族的多数派としての地位を希薄化させ、民族的アイデンティティを解体する。ハンティントンがアメリカ国内で観察した現象——エリートによる大量移民の推進と、それに伴う国民的アイデンティティの解体——は、グローバルな帝国主義構造の中に位置づけられるべきである。
日本における低賃金移民政策は、日本の財界エリートと外圧(アメリカの年次改革要望書など)によって推進されている。その論理は「人口減少への対応」「経済成長の維持」であるが、その実態は日本民族の民族自決権を解体する帝国主義的政策である。スマートシュリンクは、移民に頼らずに人口減少に対応する唯一の道筋であり、日本の民族的同質性を守る戦略的選択である。
2020年代のアメリカ:ハンティントンの予言の成就
ハンティントンが2004年に警告した事態は、2020年代のアメリカにおいて現実のものとなっている。
- 社会的分裂の深化: アメリカは保守とリベラル、共和党と民主党の間で修復不可能な分裂に直面している。この分裂は単なる政策上の対立ではなく、文化的・アイデンティティ的な断絶である
- ヒスパニック人口の増大: 2020年の国勢調査で、ヒスパニック系はアメリカ人口の18.7%を占め、2060年には28%に達すると予測されている。テキサス州やカリフォルニア州ではすでにヒスパニック系が最大の民族集団である
- トランプ現象: トランプ大統領の当選は、ハンティントンが描いたエリートと大衆の乖離が爆発的に表出した現象である。トランプの支持基盤は、グローバリズムとコスモポリタニズムに疎外感を抱くアングロ=プロテスタント系白人労働者階級であった
- アイデンティティ政治の激化: BLM運動に象徴されるように、アメリカの政治はますます民族的・人種的アイデンティティを軸に展開されるようになっている。これは、ハンティントンが危惧した「アメリカの分裂」の現れである
日本への教訓
ハンティントンの『分断されるアメリカ』が日本に突きつける教訓は、切迫した現実性を持っている。
第一に、大量移民は国家のアイデンティティを破壊する。世界最大の移民国家であるアメリカですら、大量移民によるアイデンティティ危機に直面している。移民に関する「成功体験」を持たない日本が大量移民を受け入れた場合、その結果は壊滅的なものとなる。
第二に、エリートの脱国民化に警戒せよ。日本の経済界・官僚・メディアのエリート層は、グローバリズムの論理を内面化し、移民の受け入れを「不可避」「必要」として推進している。これは、ハンティントンが描いたアメリカのエリートの「脱国民化」と同じ構造である。
第三に、「理念の国」論に騙されるな。「日本語を話し、日本の法律を守る者は日本人だ」という議論は、日本の民族的・文化的アイデンティティを抽象的な法的資格に矮小化する欺瞞的な言説である。国家のアイデンティティは法律ではなく、文化と歴史と血統の共有によって支えられている。
ハンティントンは、アメリカのアイデンティティ危機を通じて、民族的・文化的アイデンティティの不可侵性を論証した。大量移民に抗い、民族共同体を守ることは「排外主義」ではない。それは民族の生存権であり、民族自決権の核心である。
参考文献
- サミュエル・ハンティントン『分断されるアメリカ:ナショナル・アイデンティティの危機』(Who Are We? The Challenges to America's National Identity, 2004年)
- サミュエル・ハンティントン『文明の衝突と世界秩序の再編』(1996年)
- マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
- ハンス・モーゲンソー『国際政治:権力と平和』
- ロバート・パットナム『孤独なボウリング:米国コミュニティの崩壊と再生』
- クリストファー・ラッシュ『エリートの反逆』(The Revolt of the Elites and the Betrayal of Democracy, 1995年)