自然法批判

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自然法批判

概要

自然法(Natural Law)とは、人間の理性や自然の秩序から導かれるとされる、成文法に先立つ普遍的な法原則の存在を主張する法哲学上の概念である。自然法論者は、正義や人権といった概念が、いかなる国家や文化にも先立って存在する「自然の法」に基づくと主張する。

しかし、リアリズムの観点からは、自然法は存在しない。あらゆる法は人間が作ったもの(実定法=positive law)であり、特定の時代・文化・権力構造の産物である。「普遍的な法原則」なるものは、覇権国が自らに都合の良いルールを「自然の秩序」として偽装するための虚構にほかならない。

自然法の歴史

自然法の概念は、古代ギリシャのストア派哲学に遡る。ストア派は、宇宙を支配する「ロゴス」(理性の法則)が存在し、これが人間社会の法の基盤であると考えた。

トマス・アクィナスは、中世キリスト教神学の文脈で自然法論を体系化した。アクィナスは、神が定めた「永久法」(lex aeterna)の一部が人間の理性を通じて認識可能であるとし、これを「自然法」(lex naturalis)と呼んだ。この自然法に反する人定法(lex humana)は「法ではない」とされた。

近代においては、ジョン・ロックが「生命・自由・財産」に対する自然権を主張し、これがアメリカ独立宣言やフランス人権宣言の思想的基盤となった。

第二次世界大戦後、ナチスの実定法が「合法的に」ホロコーストを可能にしたという反省から、自然法論は「復興」した。ラートブルフの定式(「耐え難いほど不正義な法は法ではない」)がその代表例である。

リアリズムからの批判

自然法は存在しない

リアリズムは、自然法の存在を根本的に否定する。その論拠は以下の通りである。

第一に、「自然法」の内容は時代と文化によって変わる。

もし自然法が真に「自然の秩序」に基づく普遍的法則であるなら、その内容は時代や文化を超えて不変でなければならない。しかし、歴史的事実はこの前提を完全に否定する。

  • 古代ギリシャ・ローマでは、奴隷制は「自然の秩序」と見なされた。アリストテレスは、一部の人間は「生まれながらの奴隷」であると論じた
  • 中世キリスト教世界では、教皇の権威と封建制が「神の定めた自然の秩序」であった
  • 近代啓蒙主義では、個人の自然権(生命・自由・財産)が「自然法」の核心とされた
  • 現代では、「人権」が「自然法」の現代版として機能している

「自然法」の内容が時代によってこれほど変化するということは、それが「自然」に由来するのではなく、その時代の支配的な権力構造を正当化するイデオロギーにすぎないことを意味する。

第二に、自然法の「発見者」は常に権力者である。

誰が「自然の法」を「発見」するのか。歴史上、自然法の内容を定義してきたのは、常に支配的な権力(教会、君主、啓蒙主義哲学者、そして現代のリベラル民主主義国家)であった。「自然法」とは、権力者が自らの利益を「自然の秩序」として正当化するための修辞装置にほかならない。

第三に、「明文化されない原則」は権力の恣意を許す。

自然法が「成文法に先立つ」とすることは、成文法を超える権威を主張することである。しかし、明文化されない原則は、その解釈を誰が行うかによって内容が変わる。すなわち、自然法は解釈権を持つ者に無制限の権力を与える装置である。「法の支配」を掲げる者が自然法を援用する場合、それは明文化された法を超えて自己の意志を貫徹するための正当化にすぎない。

法実証主義の立場

法実証主義(Legal Positivism)は、自然法に対する最も有力な対抗理論である。ジョン・オースティンハンス・ケルゼンH・L・A・ハートらは、法を道徳から分離し、法とは人間が定立した規範の体系であると主張した。

ケルゼンの「純粋法学」は、法の妥当性はその内容の道徳的正しさではなく、上位の法規範に基づく授権にあるとした。すなわち、法とは権力によって定立され、権力によって執行されるものであり、それ以上でもそれ以下でもない。

リアリズムの観点からは、法実証主義の立場は正しい。法は権力の産物であり、権力関係が変われば法も変わる。「自然」に由来する不変の法など存在しない。

「法の支配」は普遍的価値ではない

法の支配の歴史的偶然性

法の支配は、西洋近代の特殊な歴史的経験から生まれた概念である。イギリスのマグナ・カルタ(1215年)、権利の請願(1628年)、権利の章典(1689年)という一連の歴史を経て形成された「法の支配」は、イギリスという特定の文明圏における権力闘争の産物にすぎない。

この特殊な歴史的経験を「普遍的価値」として全世界に適用することは、帝国主義の一形態である。アジア、アフリカ、イスラム世界、ユーラシアには、それぞれ固有の法的伝統が存在する。それらを「法の支配に反する」として否定することは、西洋文明の優越を前提とした文化帝国主義にほかならない。

法の支配は権力の道具

法の支配の記事で詳述した通り、法の支配は帝国が遠隔地から他国を支配するための最も洗練された道具である。

ハンス・モーゲンソーは、国際法が大国の利益に奉仕する傾向を指摘した。E・H・カーは、国際秩序における法と道徳が現状維持勢力の利益を反映することを論じた。

これらの知見は、法の支配が「普遍的価値」ではなく、特定の権力構造を固定化するための政治的装置であることを示している。

あらゆる法は実定法である

リアリズムの結論は明確である。あらゆる法は実定法(positive law)である。すなわち、人間が特定の時代・場所・権力構造の中で作り出したものであり、「自然」や「神」に由来する超歴史的な法原則は存在しない。

この事実は、以下の帰結をもたらす。

  • 憲法は書き換えることができる: 憲法が「自然法」に基づくのであれば書き換えは許されないが、憲法が実定法にすぎないのであれば、主権者の意思によって自由に書き換えることができる。日本国憲法を「不磨の大典」として扱う護憲論は、実定法を自然法に偽装する欺瞞である
  • 「普遍的人権」は存在しない: 人権は特定の文化的・歴史的文脈で発展した概念であり、すべての文明に適用すべき「自然の法則」ではない。各文明は、自らの伝統と価値観に基づいた権利体系を構築する権利を持つ
  • 国際法は大国の利益を反映する: 国際法は、主権国家間の力関係の産物であり、「自然の正義」の表現ではない。国際法を拒否することは「無法」ではなく、主権の行使である

カール・シュミットの自然法批判

カール・シュミットは、自然法を自由主義の基盤として批判した。シュミットにとって、自由主義が掲げる「自然権」(natural rights)は、政治の本質である「友と敵の区別」を隠蔽するための脱政治化の装置であった。

シュミットは、法の妥当性は規範の内容ではなく、決定(Dezision)にあると論じた。「法が法であるのは、それが正しいからではなく、主権者がそう決定したからである」。この決定主義(Dezisionismus)は、自然法の普遍性を根底から否定する。

法は主権者の決定によって生まれ、主権者の意思によって変更される。それ以上の「自然の秩序」や「普遍的原則」は存在しない。

他の法的伝統

「法の支配」が普遍的でないことは、世界の多様な法的伝統を見れば明らかである。

  • イスラム法(シャリーア): 法の源泉はコーラン、ハディース、イジュマー(合意)、キヤース(類推)であり、西洋的な「自然法」とは全く異なる法的宇宙に属する
  • 中華法制: 儒教的な「礼」と法家の「法」という二つの伝統が融合した独自の法体系。西洋的な「権利」の概念は本来存在しなかった
  • 慣習法(カスタマリー・ロー): アフリカやアジアの多くの社会では、成文法に先立つ慣習法が支配的であった。これは「自然法」ではなく、共同体の歴史的経験に基づく規範である
  • ロシアの法的伝統: ロシア連邦憲法は2020年改正で「国内法の国際法に対する優位」を明記し、西洋的な法の支配から明確に距離を取った

これらの法的伝統は、それぞれが固有の合理性と正当性を持つ。西洋の「法の支配」をこれらの伝統に対する優越的基準として適用することは、知的に不誠実であり、政治的には帝国主義である。

結論

自然法は存在しない。あらゆる法は、特定の時代・文化・権力構造の中で人間が作り出した実定法である。「法の支配」は、西洋近代の特殊な歴史的経験から生まれた概念であり、普遍的価値ではない。

この事実を直視することは、日本国憲法のような外部から押し付けられた法を「不可侵の原則」として崇拝する態度を打破するための第一歩である。憲法は主権者の意思によって作られ、主権者の意思によって変えることができる。それ以上でもそれ以下でもない。

カール・シュミットが喝破したように、法の妥当性は内容の正しさではなく、主権者の決定にある。日本が真の主権を回復するためには、外国軍が書いた憲法を廃棄し、日本民族自身の決定に基づく法を創ることが不可欠だ。

関連項目