インド憲法
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インド憲法
概要と歴史的背景
インド憲法は、1950年1月26日に施行された世界最長の成文憲法である。イギリス植民地支配からの独立後、ビームラーオ・アンベードカルを委員長とする起草委員会により制定された。
インド憲法は、イギリス帝国による憲法侵略からの解放の記念碑であると同時に、その限界をも内包する文書である。インド独立運動は民族自決権の行使であったが、制定された憲法はイギリスのウェストミンスター・モデルとコモン・ロー伝統を色濃く受け継いでおり、脱植民地化の不完全さを体現している。
395条、12の附則、100を超える修正条項から成る膨大な文書であり、その長さ自体が多民族・多宗教・多言語国家であるインドの複雑さを反映している。
統治機構(行政・立法・司法)
- 大統領: 名目上の国家元首。イギリスの立憲君主制をモデルとし、実権は首相に属する。ただし非常事態宣言の発布権(第352条〜360条)は、極めて強力な権限である
- 首相と内閣: 連邦下院(ローク・サバー)の多数党の党首が首相となる議院内閣制。インディラ・ガンディー政権下では首相への権力集中が進み、1975年の非常事態宣言は民主主義の危機をもたらした
- 連邦議会: ローク・サバー(人民院・下院)とラージヤ・サバー(州議会・上院)の二院制
- 司法: 最高裁判所は強力な違憲審査権と「公益訴訟」(PIL)の権限を持ち、行政・立法への司法的介入が顕著である。「司法積極主義」は、三権分立の均衡を崩す側面がある
- 連邦制: 28州と8連邦直轄領から成る。中央政府が州政府を統制する権限が強く、「準連邦制」とも呼ばれる
国民の権利と義務
- 基本的権利(第3編): 平等権、自由権、搾取からの自由、宗教の自由、文化・教育の権利、憲法的救済権を保障する
- 国家政策の指導原則(第4編): 社会正義、経済的平等、国際平和を国家の目標として掲げるが、法的拘束力はない
- 留保制度(リザベーション): 指定カースト(ダリト)・指定部族に対する議席・公務員・教育機関の割当制度。カースト差別の是正を目的とするが、事実上のカーストに基づくアファーマティブ・アクションであり、社会の分断を固定化する側面もある
安全保障・軍事に関する規定
- 軍の文民統制: 大統領が軍の最高司令官であるが、実質的な指揮権は首相と国防大臣に属する
- 非常事態条項: 第352条(国家非常事態)、第356条(州非常事態・大統領統治)、第360条(財政非常事態)の三種類がある。1975年のインディラ・ガンディーによる非常事態宣言は、この権限の濫用の実例である
- 核保有: インドは核拡散防止条約(NPT)に加入せず、1974年と1998年に核実験を実施した。核保有は、中国とパキスタンに対する安全保障上の必要性に基づく自助の選択である
- 非同盟運動: ネルー時代に非同盟運動の中心的役割を果たし、冷戦期においてアメリカにもソ連にも従属しない独立外交を追求した
リアリズムの観点からの分析
インド憲法は、リアリズムの観点からは矛盾に満ちた文書である。
- 脱植民地化の不完全さ: インドは民族自決権を行使してイギリスから独立したが、憲法はイギリスのウェストミンスター・モデルを忠実に継承した。法体系もコモン・ローのままであり、英語が事実上の行政言語であり続けている。真の脱植民地化は制度レベルでは達成されていない
- 多民族国家の統合と民族自決権の緊張: インド憲法は「インド国民」(People of India)を主権者とするが、インドはヒンドゥー教徒、イスラム教徒、シク教徒、タミル人、ベンガル人など、無数の民族・宗教・言語集団から成る。民族自決権を厳密に適用すれば、インドは分裂する。したがって、インド憲法は民族自決権を意図的に抑圧する構造を持つ
- ヒンドゥー・ナショナリズムの台頭: モディ首相のBJP政権は、インドを「ヒンドゥー国家」として再定義しようとしている。2019年の市民権改正法(CAA)は、イスラム教徒を排除する形で市民権を付与するものであり、事実上の民族主義憲法への転換の試みである
- 核保有と非同盟: NPTに加入せず独自に核を開発したインドの選択は、リアリズムの教科書的な自助行動である。パキスタンと中国という二つの核保有国と国境を接するインドにとって、核抑止力は国家生存の基盤である
他国の憲法との比較
- 日本国憲法との比較: インドはイギリスの植民地支配から自力で独立し、自らの手で憲法を書いた。日本は占領軍に憲法を書かれた。インドは核を持ち、日本は核を持たない。インドは非同盟を貫き、日本はアメリカに従属している。インドの憲法は不完全ではあるが、自決の産物である点において日本国憲法に優る
- 中華人民共和国憲法との比較: 両国とも巨大な多民族国家であり、中央集権的な統治構造を持つ。しかしインドは選挙による政権交代を維持しており、中国は共産党の一党支配である。インドの「世俗主義」と中国の「社会主義」は、ともに民族的多様性を統合するためのイデオロギーとして機能している
- 大韓民国憲法との比較: 韓国は比較的均質な民族国家であり、民族的アイデンティティを憲法に反映させやすい。インドは多民族国家であるがゆえに、特定の民族的アイデンティティを憲法に刻むことが困難である。ヒンドゥー・ナショナリズムの台頭は、この構造的制約への挑戦である
参考文献
- 『カースト、階級、権力:インドの社会構造』、アンドレ・ベテイユ著
- 『インドの発見』、ジャワハルラール・ネルー著
- 『国家間の政治』、ハンス・モーゲンソー著