シャドウワーク

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シャドウワーク

シャドウワーク(Shadow Work)とは、イヴァン・イリイチが1981年の著書『シャドウ・ワーク——生活のあり方を問う』において提唱した概念であり、賃金労働を支えるために不可欠でありながら、一切の報酬が支払われない労働を指す。家事、通勤、消費に伴う手続き、書類作成、セルフサービスなど、近代産業社会が個人に強いる無償の労務の総体である。

イリイチの問題提起は、単なる「不払い労働」の告発にとどまらない。その核心は、産業資本主義がいかにして伝統的な自給自足(ヴァナキュラー)の生活様式を破壊し、すべての人間を賃金労働とシャドウワークという二重の従属関係に組み込んだかという文明論的批判にある。この概念は、新自由主義がもたらす共同体の解体、低賃金移民政策による労働市場の破壊、そしてデジタル経済における消費者の無償労働化といった現代的問題を分析するための強力な理論的枠組みを提供する。

概要と歴史的背景

イヴァン・イリイチと産業社会批判

イヴァン・イリイチ(1926年 - 2002年)は、オーストリア生まれの哲学者・社会批評家であり、カトリック司祭でもあった。『脱学校の社会』(1971年)、『コンヴィヴィアリティのための道具』(1973年)、『脱病院化社会——医療の限界』(1976年)など一連の著作において、近代産業社会の制度——教育、医療、交通、エネルギー——が人間の自律性を奪い、専門家への依存を強制する構造を鋭く批判した。

1981年に出版された『シャドウ・ワーク』は、この制度批判を労働の領域に拡張したものである。同書は「公共選択の三つの次元」「ヴァナキュラーな価値」「自給自足への戦争」「民衆による調査」「シャドウ・ワーク」の五篇の論文から構成される。

イリイチの問いは明快である。なぜ近代社会において、人間はかつてないほど多くの「仕事」をしているにもかかわらず、生活の質は向上しないのか。その答えがシャドウワークである。賃金労働の増大は、必然的にそれを支える無償労働——すなわちシャドウワーク——の増大を伴う。人々はより多く働き、より多く消費するが、その消費行為そのものがさらなる無償労働を要求する。この悪循環こそが、産業社会の本質的な構造なのである。

概念の起源と背景

シャドウワークの概念は、1970年代の石油危機スタグフレーションを背景に生まれた。ケインズ主義的な完全雇用政策が行き詰まり、先進国では失業率の上昇と同時に、家事・育児・介護といった無償労働の問題が社会的に認識され始めた時期である。

同時期には、シルヴィア・フェデリーチらによる「家事労働に賃金を」運動(Wages for Housework、1972年 - )が展開されていた。フェデリーチはマルクス主義フェミニズムの立場から、家事労働は資本主義の再生産構造に不可欠でありながら、「愛情」や「女性の本性」として神秘化され、無償化されていると告発した。イリイチの議論は、このフェミニズム的問題提起を包含しつつ、さらに広い射程で産業社会の構造そのものを問うものであった。

シャドウワークの定義と理論的枠組み

定義

イリイチはシャドウワークを「賃金経済において遂行される、すべての無償労働」と定義した。ただし、すべての無償労働がシャドウワークであるわけではない。イリイチは、シャドウワークとヴァナキュラーな労働(vernacular work)を明確に区別する。

  • シャドウワーク: 賃金経済を維持するために強制的に行われる無償労働。産業システムのために個人が負担するものであり、その成果は市場経済に吸収される。家事、通勤、消費行為に付随する作業、書類手続きなどがこれに該当する
  • ヴァナキュラーな労働: 市場とは無関係に、自分自身や共同体の生活を維持・向上させるために自発的に行われる活動。自給自足的農業、相互扶助、祭礼の準備、口承の伝達など、共同体の内部で完結する営みである

この区別は決定的に重要である。ヴァナキュラーな労働は共同体の紐帯を強化するが、シャドウワークは個人を孤立させ、共同体を解体する。前者は人間の自律性を表現するが、後者は産業システムへの従属を意味する。

ヴァナキュラーな価値の破壊

イリイチは「ヴァナキュラー」という語を、古代ローマにおける用法に遡って定義する。紀元前500年から紀元後600年のローマにおいて、「ヴァナキュラー」とは「自家製の、地元で作られた、共有地(コモンズ)から得られた、市場で売買されることなく防衛・保護しうる価値」を意味した。

ヴァナキュラーな価値とは、「互酬的な関係のパターンに埋め込まれた、生活のあらゆる側面から得られる糧」であり、「交換や垂直的分配から得られる糧」——すなわち市場経済や官僚的管理——とは対極に位置する概念である。

イリイチの中心的主張は、産業資本主義はヴァナキュラーな生活様式を体系的に破壊することによってのみ成立したというものである。小規模で多様な自給的共同体が「社会学的にも法的にも不可能」にされることで、初めて賃金労働とシャドウワークが社会を支配するようになった。これはエンクロージャー(囲い込み)の論理の延長線上にある。かつて人々が自給のために利用していたコモンズ(共有地)は、商品の生産・流通のための公共施設へと転換された。森林は木材市場に、牧草地は企業の農場に、そして人間の生活時間は賃金労働とシャドウワークに分割されたのである。

シャドウワークの類型

家事労働

シャドウワークの最も古典的な形態が家事労働である。イリイチは、家事が自給自足(サブシステンス)のための労働ではなく、賃金労働者を翌日の労働に送り出すための再生産労働である点を強調した。

フェデリーチは1974年の論文「家事労働への反逆賃金」(Wages Against Housework)において、この問題をさらに鮮明にした。「家事の無賃金状態こそが、家事は労働ではないという常識を補強する最も強力な武器であり、女性がそれに対抗することを妨げてきた」。資本主義は家事労働を「女性の生理的・人格的な内的欲求」として神秘化し、「愛情の行為」として無償化することで、労働力の再生産コストを社会全体ではなく個々の家庭——とりわけ女性——に押し付けた。

マリアローザ・ダッラ・コスタとセルマ・ジェイムズが1972年に創設した「家事労働に賃金を」国際フェミニスト・コレクティヴは、この構造を可視化し、再生産労働の搾取を資本主義批判の中心に据えることを目指した。彼女らの主張は、賃金労働のみを「生産的労働」とみなす正統派マルクス経済学の限界をも突くものであった。

消費者労働

イリイチが先駆的に指摘し、クレイグ・ランバートが2015年の著書『Shadow Work: The Unpaid, Unseen Jobs That Fill Your Day』において体系的に論じたのが、消費行為に付随するシャドウワークである。

ランバートはハーバード大学で社会学の博士号を取得し、『ハーバード・マガジン』の編集者を20年以上務めた人物である。彼は、現代の消費者が企業・組織のために行っている無償労働の広がりを「中産階級の農奴制」(middle-class serfdom)と呼んだ。

  • ガソリンスタンドのセルフサービス: かつてはガソリンスタンドの従業員が行っていた給油作業を、消費者自身が無償で行う
  • スーパーマーケットのセルフレジ: レジ係の仕事を消費者に転嫁し、企業は人件費を削減する
  • 家具の組み立て: 完成品ではなく部品の状態で販売し、組み立てという労働を消費者に押し付ける
  • 旅行の手配: 旅行代理店が担っていた比較・予約・手続きを、消費者自身がオンラインで行う
  • 金融取引: 銀行窓口での取引を、ATMやオンラインバンキングに移行させる

これらは一見「便利」に見えるが、その実態は企業の労働コストを消費者に転嫁する構造である。ランバートは、この過程で失われるものとして、対面的な人間関係専門家の助言、そしてエントリーレベルの雇用を挙げた。銀行窓口係、ガソリンスタンド従業員、旅行代理店の職員——これらの職は、若者が社会経験を積み、キャリアを形成するための最初の足がかりであった。シャドウワークの拡大は、この「機会の梯子」を消滅させる。

通勤・移動労働

通勤は、最も普遍的でありながら最も見過ごされるシャドウワークの一つである。労働者は自宅から職場まで——往復1時間から3時間以上——を移動するが、この時間は賃金に反映されない。通勤は「自発的な選択」として扱われるが、住居費の高騰と職場の偏在という構造的条件の下で、労働者にとって実質的に強制的なものである。

日本においては特に、満員電車での長時間通勤が労働者の心身を消耗させている。東京圏の平均通勤時間は片道約50分、往復で約1時間40分に達する。これは年間で約400時間の無償労働に相当し、一人の労働者が毎年50日分の労働日を通勤に費やしている計算になる。

官僚的シャドウワーク

確定申告、保険の請求手続き、行政への届出、各種申請書の記入——これらの官僚的手続きは、本来行政機関や企業が担うべき業務を市民に転嫁したシャドウワークである。デジタル化はこの負担を軽減するどころか、むしろ増大させている。オンライン申請システムの操作、パスワード管理、二段階認証、本人確認書類のアップロードなど、手続きの「効率化」は新たなシャドウワークを生み出す。

デジタル経済とシャドウワークの拡大

プラットフォーム資本主義と「無償のデジタル労働」

21世紀のデジタル経済は、シャドウワークを爆発的に拡大させた。ティツィアナ・テラノヴァは「インターネット上の無償労働」(free labor on the net)という概念を提起し、ウェブサイトの構築、ソフトウェアの改変、メーリングリストへの参加といったオンライン活動が、実質的に無償労働として企業の利潤に貢献していることを指摘した。

ソーシャルメディアのプラットフォームにおいては、ユーザーが生成するコンテンツ——投稿、コメント、レビュー、評価——のすべてがプラットフォーム企業の資産となる。ユーザーは自らの時間と創造性を無償で提供し、企業はそこから広告収入やデータ価値を抽出する。これは工場における搾取と構造的に同一であり、「楽しみ」や「自発性」という外観の下に搾取の本質が隠蔽されている。

トレバー・ショルツは、個人データの商品化とユーザー生成コンテンツの収穫が、クリック、共有、コミュニケーションといった日常的行為を事実上の無償労働に変換していることを明らかにした。個人の社会的行為そのものが企業の利潤源泉となるこの構造は、イリイチが1981年に描いたシャドウワークの論理を、デジタル空間において徹底化したものにほかならない。

ギグエコノミーと労働の不安定化

ギグエコノミーは、シャドウワークの問題をさらに深刻化させた。ウーバーエアビーアンドビーなどのプラットフォーム企業は、「シェアリングエコノミー」「起業家精神」「柔軟な働き方」といった修辞の下に、労働者の権利の体系的な剥奪を行っている。

その本質は明瞭である。

  • 労働者の誤分類: 従業員を「独立契約者」として分類することで、社会保険、有給休暇、解雇保護、最低賃金保証などの雇用者責任を回避する
  • リスクの転嫁: 企業が負うべき経済的リスク——需要変動、事故、機材の損耗——を個人に転嫁する
  • 団結権の否定: 労働者を分散させ、相互に競争させることで、団体交渉労働組合の形成を構造的に困難にする

これは新自由主義的な労使関係の極致であり、「巨大な新自由主義の槍の鋭利な先端」(the shiny sharp tip of a gigantic neoliberal spear)と形容される。その槍の柄は、規制緩和、労働組合潰し、失業率の上昇、不安定雇用の蔓延で構成されている。

ギグワーカーは、賃金労働の保護を受けられないだけでなく、プラットフォームを通じた常時監視、アルゴリズムによる労務管理、一方的な報酬設定に服する。これは賃金労働でもなく、かといってヴァナキュラーな自給自足的労働でもない。第三の隷属形態——プラットフォームへの従属——が出現したのである。

「シェアリングエコノミー」という虚偽

「シェアリング」という語は本来、共同体における互酬的な財の分配を意味する。しかしプラットフォーム資本主義がこの語を流用することで、労働市場の不安定化という現実が「共有」というイデオロギーの背後に隠蔽される

個人資産の売却やサービスの提供を「シェアリング」と呼ぶことで、不安定労働市場における生き残り戦略が、あたかも新しいライフスタイルであるかのように美化される。これは法の支配がアメリカの覇権を「普遍的な正義」として偽装するのと同じ構造である。言葉の意味を転倒させ、支配を自由として、搾取を共有として提示する——イデオロギー装置としてのプラットフォーム資本主義の本質がここにある。

シャドウワークと共同体の解体

社会関係資本の喪失

シャドウワークの拡大は、ロバート・パットナムが『孤独なボウリング——米国コミュニティの崩壊と再生』(2000年)で論じた社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)の崩壊と密接に関連している。

パットナムによれば、社会関係資本とは社会的ネットワークとそこから生じる互酬性の規範の総体である。地域の自治組織、教会、ボウリングリーグ、近隣のつきあい——これらの社会的紐帯が、信頼と協力を生み出す基盤であった。しかし1960年代以降のアメリカにおいて、こうした市民的・社会的参加は前例のない規模で崩壊した。

ランバートが指摘するように、セルフサービス化は対面的な人間関係を消滅させる。ガソリンスタンドの従業員との何気ない会話、銀行の窓口での挨拶、商店街での顔見知りとのやりとり——これらの「弱い紐帯」(weak ties)が、共同体の結束を支えていた。自動化とセルフサービスは、こうした日常的な社会的接触の機会を奪い、個人をサイロ(孤立した容器)に封じ込める。

パットナムは社会関係資本を二つに分類した。

  • 結束型(ボンディング): 家族、親友、同じ共同体の成員など、同質的な集団内の結びつき。情緒的支援とアイデンティティを提供する
  • 橋渡し型(ブリッジング): 多様な集団を横断する結びつき。寛容さを育み、機会を広げる

シャドウワークの拡大によって結束型の社会関係資本が衰退すれば、橋渡し型もまた必然的に衰退する。その結果、社会は原子化された個人の集合体となり、民族的な紐帯も弱体化する。これは人口侵略低賃金移民政策と相互に作用し、民族共同体を内部から解体する力として機能する。

相互扶助の消滅

イリイチが「ヴァナキュラーな価値」と呼んだものの中核には、相互扶助(mutual aid)の原理がある。共同体の成員が互いに助け合い、その見返りを直接的な対価ではなく「いつか自分も助けてもらえる」という信頼——パットナムが「一般化された互酬性」(generalized reciprocity)と呼んだもの——に求める関係のあり方である。

伝統的な日本の農村共同体では、結(ゆい)といった相互扶助の制度が存在していた。田植えや稲刈り、家の建築、葬儀や祭りの準備——これらは共同体の成員が互いの労働を交換する仕組みであり、金銭を介在させずに社会的紐帯を強化するものであった。

産業化とシャドウワークの浸透は、こうした相互扶助の構造を根底から破壊した。かつて共同体が担っていた機能——育児、介護、食料の調達、住居の修繕——は、市場サービスとして商品化されるか、個人の無償労働(シャドウワーク)として個々の家庭に押し付けられた。その結果、共同体に参加する動機そのものが失われ、原子化された個人が市場を通じてのみ社会と接続するという状態が常態化した。

民族共同体への影響

第四の理論が指摘するように、ドゥーギンの文明論において、各文明はその固有の価値体系と共同体的紐帯によって存立する。シャドウワークの論理が徹底化されるとき、それは民族共同体の存立基盤そのものを掘り崩す。

  • 世代間の紐帯の断絶: 家事・育児・介護のシャドウワーク化は、かつて三世代同居の中で自然に行われていた知恵と文化の伝達を不可能にする。核家族化と介護の市場化は、高齢者を施設に隔離し、若年層を孤立させ、民族の文化的連続性を断ち切る
  • 地域共同体の空洞化: 通勤のシャドウワーク化は、労働者を居住地から引き離し、地域への帰属意識を希薄化させる。「ベッドタウン」化した郊外は、寝に帰るだけの場所となり、共同体としての機能を喪失する
  • 消費者としての再定義: シャドウワークを通じて、人間は「共同体の成員」から「消費者」へと再定義される。消費者は共同体に対する義務を持たず、市場における選択の自由のみを与えられる。これは民族自決権の基盤——民族としての共同意志——を内側から解体する

分業主義が指摘する「種畑と消費地」の構造もまた、シャドウワークの観点から読み解くことができる。地方は人口を「生産」し、都市はそれを「消費」する。この分業において、地方の共同体は再生産のシャドウワークを担い、都市はその果実を享受するが、その対価を支払わない。国境が開放されれば、この構造は国際化し、日本は「種畑」から「消費地」へと転落する——すなわち、人材を育てる国から、外国人労働者を輸入して消費するだけの国へと変貌する。

新自由主義とシャドウワーク

構造改革とシャドウワークの制度化

新自由主義は、シャドウワークを個人の「自己責任」として正当化するイデオロギー装置として機能する。規制緩和、民営化、「小さな政府」の名の下に、かつて国家や企業が負担していたコストが個人に転嫁される。

この過程はショックドクトリンの論理と重なる。危機を利用して既存の社会的保護を解体し、市場原理を徹底させるとき、その裏面で増大するのがシャドウワークである。公的サービスが削減されれば、その機能を代替するのは個人の無償労働にほかならない。

  • 医療の自己管理化: 病院の待ち時間短縮のためにオンライン予約システムが導入されるが、その操作は患者の負担となる。症状の自己チェック、保険の書類作成、薬の管理——「患者中心の医療」の名の下に、医療のシャドウワーク化が進行する
  • 教育の家庭責任化: 公教育の質の低下を補うために、家庭は塾・通信教育・オンライン学習の管理というシャドウワークを負わされる。「教育の自由化」は、教育コストの家庭への転嫁を意味する
  • 社会保障の自助化: 年金不安のもと「自助努力」が推奨され、個人は資産運用、保険の選択、老後設計という複雑なシャドウワークを強いられる。これは経済概論が指摘する新自由主義的「自己責任」論の典型である

「効率化」の欺瞞

新自由主義者は、セルフサービスやデジタル化を「効率化」として称賛する。しかしイリイチの視点から見れば、これは効率化ではなく、コストの転嫁である。企業の労働コストが削減される一方で、消費者の無償労働が増大する。社会全体としての労働総量は減少しておらず、むしろ増大している。変わったのは、その労働に対して対価が支払われなくなったという事実だけである。

ローレンス・サマーズ元米国財務長官ですら、ランバートの議論について「経済の将来を考えるすべての人が、その主張を慎重に検討しなければならない」と述べている。シャドウワークの問題は、左右のイデオロギーを超えた構造的問題なのである。

アメリカの構造改革要求とシャドウワーク

日本における新自由主義的改革の多くは、アメリカの年次改革要望書(1994年 - 2008年)に端を発している。規制緩和、郵政民営化、労働市場の「柔軟化」——これらの改革は、日本の労働者により多くのシャドウワークを強いる結果をもたらした。

派遣労働の拡大は典型的な例である。正規雇用から非正規雇用への移行は、企業の社会保険負担を軽減する一方で、労働者に対して自らの社会保障を管理するシャドウワークを課した。健康保険の選択、年金の手続き、確定申告——正社員であれば企業が代行していたこれらの業務が、個人のシャドウワークとなったのである。

これはアメリカが自国の経済モデルを他国に輸出する構造の一部である。アメリカ型の「自由市場」モデルは、実態としてはシャドウワークの膨大な蓄積の上に成り立っている。そのモデルを日本に強制することは、日本社会のシャドウワーク負担を増大させ、日本の共同体的な社会構造をアメリカ型の原子化された社会に作り替えることを意味する。

日本におけるシャドウワーク

コンビニエンスストアと「便利」の代償

日本のコンビニエンスストアは、シャドウワークの日本的展開を象徴する存在である。24時間営業のコンビニは「便利」の極致であるが、その便利さは誰かの過酷な労働によって支えられている。

コンビニのフランチャイズモデルにおいて、オーナーは名目上の「経営者」でありながら、実態としては本部の下請け業者である。発注、在庫管理、陳列、清掃、レジ打ち——これらを家族総出で行い、それでも採算が合わなければ自らの時給が最低賃金を下回る。これは消費者のシャドウワークとは異なるが、フランチャイズ本部が担うべきコストをオーナーに転嫁するという点で、イリイチが指摘したシャドウワークの構造と同型である。

また、コンビニにおける行政サービスの代行——住民票の発行、各種料金の収納代行、マイナンバーカードの受け取り——は、行政のシャドウワークをコンビニ(とその低賃金労働者)に押し付ける構造を生み出している。

日本型雇用の崩壊とシャドウワーク

日本の日本型雇用システム——終身雇用、年功序列、企業内福利厚生——は、ある意味でシャドウワークを企業が吸収するシステムであった。企業が従業員の住居(社宅)、医療(企業内診療所)、レクリエーション(保養所)、さらには結婚の斡旋まで提供することで、個人が負担するシャドウワークは最小化されていた。

新自由主義的改革によるこのシステムの解体は、膨大なシャドウワークを個人に放出した。住居探し、保険の選択、資産運用、キャリア設計、婚活——かつて企業共同体が担っていたこれらの機能は、すべて個人の「自己責任」となった。その結果、日本社会は急速に原子化し、孤独死少子化引きこもりといった社会病理が顕在化した。

これらの現象を「個人の問題」として扱うのは欺瞞である。その本質は、共同体がシャドウワークを分担する機能を失い、すべてが個人の肩に載せられた結果にほかならない。

スマートシュリンクとシャドウワークの再分配

スマートシュリンクの思想は、シャドウワーク問題に対する一つの回答を提供する。人口減少を「解決すべき問題」ではなく「受け入れるべき現実」として捉え、移民に依存せずに社会を持続させるという方針は、シャドウワークの総量を削減する方向性と一致する。

人口が減少すれば、経済の規模は縮小するが、一人あたりのシャドウワーク負担は必ずしも増大しない。むしろ、不必要な消費を減らし、共同体の規模を人間的な水準に戻すことで、ヴァナキュラーな相互扶助が再び可能になる。24時間営業のコンビニも、過剰な品揃えのスーパーも、人口縮小社会には不要である。必要なのは、地域の食料品店であり、顔の見える関係の中での助け合いである。

対照的に、低賃金移民政策は問題を悪化させる。外国人労働者を輸入して人手不足を「解決」することは、シャドウワークを移民労働者に押し付けることに等しい。しかもその移民労働者自身が、異国の言語、制度、文化への適応という膨大なシャドウワークを負わされる。人口侵略の問題と合わせて考えれば、移民政策はシャドウワークの問題を解決するどころか、民族共同体の解体という致命的な結果をもたらす。

リアリズムの観点からの分析

シャドウワークと国家主権

リアリズムの観点から見れば、シャドウワークの問題は単なる経済的・社会学的問題にとどまらない。それは国家主権と民族自決権に直結する構造的問題である。

ハンス・モーゲンソーが強調したように、国家のパワーはその物質的資源だけでなく、国民の結束(national morale)と社会的結合力によっても規定される。シャドウワークの膨大な蓄積が社会を原子化し、共同体を解体するとき、国家のパワーそのものが損なわれる。共同体の紐帯を失った個人の集合体は、外部の圧力に対して脆弱であり、主権の防衛に必要な集合的意志を形成できない。

アメリカの覇権戦略としてのシャドウワーク輸出

アメリカが新自由主義的構造改革を他国に強制するとき、それは単なる経済政策の輸出ではない。シャドウワークを増大させ、対象国の社会的結合力を弱体化させる覇権戦略の一環である。

ケネス・ウォルツ構造的リアリズムに従えば、アナーキーな国際システムにおいて覇権国は、潜在的な競争相手の国力を削ぐインセンティブを持つ。日本に年次改革要望書を通じて新自由主義的改革を迫ることは、日本社会のシャドウワーク負担を増大させ、社会的結合力を弱め、結果として日本を従属的地位に留め置く効果を持つ。

偽日本国憲法が日本の軍事的自立を阻害し、日米安全保障条約が日本を軍事的に従属させるのと同様に、新自由主義的構造改革は日本を社会的・文化的に従属させる装置として機能する。憲法侵略が主権の政治的次元を攻撃するのに対し、シャドウワークの強制は主権の社会的次元——すなわち、国民が共同体として結束し、集合的意志を形成する能力——を攻撃する。

イリイチの思想と反帝国主義

イリイチ自身は、リアリズム国際政治学の枠組みで論じていたわけではない。しかしその思想は、反帝国主義の理論として読み直すことができる。

イリイチが「自給自足への戦争」と呼んだもの——産業資本主義がヴァナキュラーな生活様式を体系的に破壊する過程——は、帝国主義による周辺地域の包摂の論理と重なる。植民地化とは、被支配民族の自給自足的な生活様式を破壊し、宗主国の経済システムに強制的に組み込むことであった。その結果、被支配民族はシャドウワークの担い手として宗主国の経済に奉仕させられる。

現代のグローバリゼーションはこの構造を継続している。WTOIMF世界銀行を通じた「構造調整」「規制緩和」「市場開放」は、各国のヴァナキュラーな経済構造を破壊し、アメリカ主導のグローバル市場に統合する。そしてその統合の裏面で、各国の国民は膨大なシャドウワークを課されるのである。

イリイチが提唱した「ヴァナキュラーな価値の復権」は、したがって、各民族が自らの生活様式を自ら決定する権利の回復——すなわち民族自決権の経済的次元——として理解されなければならない。

シャドウワークの金銭化をめぐる論争

シャドウワークは「不払い労働」である以上、それに対価を支払うべきではないか——この問いは、イリイチの概念が提唱されて以来、繰り返し議論されてきた。しかしこの論争は、単なる報酬の有無をめぐる技術的問題ではない。シャドウワークの金銭化を求めるか否かは、近代産業社会そのものをどう捉えるかという根本的な文明論的立場の違いを反映している

金銭化を主張する立場

シャドウワークに賃金を支払うべきだとする主張の原型は、シルヴィア・フェデリーチらが1972年に開始した「家事労働に賃金を」(Wages for Housework)運動にある。フェデリーチの論理は明快であった。無賃金であることこそが、家事労働を「労働ではない」とする社会的認識を再生産する最大の装置である。賃金を要求することは、単に金銭を得ることではなく、家事労働が資本主義の再生産に不可欠な労働であるという事実を可視化し、その構造的搾取を告発する政治的行為である。

この立場を支持する論拠は以下の通りである。

  • 不可視性の解消: シャドウワークに対価が支払われないがゆえに、それはGDPにも国民経済計算にも計上されず、経済的に「存在しない労働」として扱われる。日本の内閣府の試算によれば、専業主婦の無償労働の貨幣評価額は年間約304万円に達する。この労働を可視化し、正当に評価するためには、何らかの形での金銭的承認が必要である
  • ジェンダー不平等の是正: 国際労働機関(ILO)のデータによれば、世界全体で無償ケア労働の76.2%を女性が担っている。日本においては、妻の家事・育児時間は夫の約7倍に達する。シャドウワークの無償性は、この不平等を経済的に固定化している。金銭化はこの構造を是正する第一歩となりうる
  • 社会保障への接続: 無償労働に従事する者——典型的には専業主婦——は、年金、失業保険、労災保険といった社会保障制度から排除されている。シャドウワークを「労働」として認定し、それに対価を付与することで、社会保障制度への包摂が可能になる

金銭化に反対する立場——イリイチの警告

しかしイリイチ自身は、シャドウワークの金銭化に明確に反対した。イリイチにとって、シャドウワークに賃金を支払うことは問題の解決ではなく、問題の完成である。

その論理はこうである。シャドウワークが存在するのは、産業資本主義がヴァナキュラーな(自給自足的な)生活様式を破壊し、すべての人間活動を市場経済に従属させたからである。シャドウワークに賃金を支払うことは、市場の論理をさらにもう一段、人間生活の奥深くに浸透させることを意味する。家事に値段をつけ、通勤時間を貨幣換算し、育児を時給で測定する——それは市場経済がいまだ完全には支配していなかった人間活動の最後の領域を、商品化の論理に引き渡すことにほかならない。

  • 商品化の徹底: イリイチの批判の核心は、近代産業社会が人間のあらゆる活動を「生産的」か「非生産的」かで評価することにある。シャドウワークの金銭化は、この評価基準をさらに徹底させる。家庭内の愛情、親子の絆、近隣の助け合い——これらが「一時間あたりいくら」で計算されるとき、人間関係そのものが商品取引に還元される
  • ヴァナキュラーな価値の最終的破壊: イリイチが回復すべきだと主張したのは、賃金ではなくヴァナキュラーな自律性であった。自分の畑で野菜を育てること、隣人と食事を分け合うこと、子どもに昔話を語ること——これらの営みは、金銭的対価によっては測定できず、また測定すべきでもない。金銭化は、これらの営みを市場経済の枠組みの中に回収し、最後の非商品的領域を消滅させる
  • 管理と監視の拡大: シャドウワークに賃金を支払うためには、それを測定し、記録し、管理しなければならない。家事に何時間費やしたか、育児をどの程度行ったか、介護の質は適切か——こうした管理は、国家や企業による私的領域への介入を正当化する。イリイチが生涯を通じて批判した専門家支配(professionalization)と制度的管理が、家庭の最奥にまで浸透することになる
  • 根本原因の隠蔽: シャドウワークに賃金を支払うことで、人々は「問題は解決された」と錯覚しかねない。しかし真の問題は、産業資本主義がヴァナキュラーな生活様式を破壊したことにある。金銭的補償は、この根本原因に手を触れないまま、症状だけを緩和する。それは鎮痛剤を投与しながら病巣を放置するのと同じである

保守ぺディアの立場——ヴァナキュラーな共同体の復権

この論争を整理すれば、金銭化推進派は近代産業社会の枠組みの中での改良を志向し、金銭化反対派は近代産業社会の枠組みそのものの転換を志向しているということになる。両者は問題の診断においては一致するが、処方箋において根本的に異なる。

保守ぺディアの立場から見れば、シャドウワークの金銭化は二重の意味で誤りである

第一に、金銭化は新自由主義の論理を補完する。すべてを市場取引として把握し、すべてに価格をつけ、すべてを貨幣で測定する——この思考様式こそが、シャドウワークを生み出した産業資本主義の根本的な病理である。家事労働に時給を設定し、育児を金銭換算し、介護をサービス商品として売買することは、共同体の紐帯をさらに解体する方向に作用する。

第二に、金銭化は民族共同体の自律性を損なう。シャドウワークに国家が賃金を支払うとすれば、その財源は税金であり、その管理は官僚機構が担う。つまり、家庭内の営みが国家の管理対象となる。これは第四の理論が批判する近代国家による共同体の吸収の論理そのものである。家族の絆、世代間の助け合い、近隣の相互扶助——これらは国家から賃金を受け取ることによってではなく、共同体の内部で自発的に営まれることによってのみ、その本来の意味を持つ。

したがって、シャドウワークの問題に対する真の回答は、金銭化ではなくヴァナキュラーな共同体の復権である。スマートシュリンクが示す人口縮小社会への適応は、過剰な消費と過剰なサービスを削ぎ落とし、人間的な規模の共同体を取り戻す道筋を示している。シャドウワークの総量を削減し、ヴァナキュラーな相互扶助を再建すること——それは賃金の支払いによってではなく、産業資本主義がヴァナキュラーな生活様式に仕掛けた戦争を終結させることによってのみ実現する。

結論

シャドウワークとは、産業資本主義が人間に強いる不可視の隷属である。それは賃金労働の影に隠れ、「便利さ」「効率化」「自己責任」という修辞によって正当化され、人間から時間と共同体と自律性を奪い続ける。

イリイチが40年以上前に発した警鐘は、デジタル経済とプラットフォーム資本主義の時代に至って、その切実さをいっそう増している。セルフレジ、ギグワーク、オンライン手続き、ソーシャルメディア上の無償労働——シャドウワークは増殖し続け、共同体を解体し、個人を原子化し、民族的な紐帯を断ち切る。

これに対抗するには、イリイチが示したヴァナキュラーな価値——自給自足、相互扶助、コモンズ——の復権が不可欠である。スマートシュリンクが示す人口縮小社会への適応、第四の理論が提唱する各文明の独自性の尊重、そして反米保守が主張するアメリカ型新自由主義からの脱却——これらは、シャドウワークの連鎖を断ち切り、民族共同体の紐帯を回復するための道筋を示している。

人間は消費者ではない。市場の奴隷でもない。共同体の成員として、互いに助け合い、自らの生活を自ら律する存在である。シャドウワークの論理を拒否し、ヴァナキュラーな生活様式を取り戻すこと——それは民族自決権の回復にほかならない。

参考文献

関連項目