原始共産制と共同体の試み

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原始共産制と共同体の試み

原始共産制(primitive communism)とは、私有財産制度が成立する以前の人類社会において、生産手段が共同所有され、労働の成果が共同体の成員に平等に分配されていたとされる社会形態を指す。カール・マルクスフリードリヒ・エンゲルスがこの概念を体系化し、ルイス・ヘンリー・モーガンの人類学的研究に依拠して、すべての人類社会がこの段階を経たと主張した。

この概念は単なる歴史学的仮説にとどまらない。産業資本主義がシャドウワークを通じて人間から共同体と自律性を奪い続ける現代において、原始共産制の記憶は「人間はかつて、市場を介さずに共に生きることができた」という根源的な事実を突きつける。世界各地で試みられてきた共同体的生産・分配の実験——ロシアのミール、イスラエルのキブツ、メキシコのエヒード、アンデスのアイユ、タンザニアのウジャマー、日本の入会地——は、この原始的な共同性を近代社会の中で回復しようとする試みであった。

しかしこれらの試みの多くは、帝国主義、新自由主義、グローバリゼーションの圧力の下で破壊されるか、変質を余儀なくされた。その歴史は、ヴァナキュラーな共同体がいかにして市場経済と国家権力によって包囲され、解体されてきたかという過程の記録であると同時に、共同体的な生のあり方が人間にとって自然であり、繰り返し回帰されるものであることの証左でもある。

原始共産制の概念

マルクスとエンゲルスの理論

原始共産制の概念は、マルクスとエンゲルスの史的唯物論における最初の社会形態として位置づけられる。エンゲルスは1884年の著作『家族・私有財産・国家の起源』において、モーガンの民族学的研究を援用しながら、人類の最初期の社会形態を体系的に描写した。

エンゲルスによれば、原始共産制社会には以下の特徴がある。

  • 生産手段の共同所有: 土地、森林、水源、狩猟場、漁場はすべて共同体の共有財産であり、特定の個人や家族が排他的に占有することはなかった
  • 労働の共同遂行: 狩猟、採集、農耕、家屋の建設は共同体の成員が協力して行い、個人が孤立して労働するということがなかった
  • 分配の平等性: 労働の成果は共同体の成員に対して、その必要に応じて分配された。余剰は蓄積されず、したがって階級分化の基盤が存在しなかった
  • 国家の不在: 階級が存在しないがゆえに、一つの階級が他の階級を抑圧するための装置としての国家も存在しなかった。社会的な規範は慣習と長老の権威によって維持された

マルクスはこの原始共産制を、無条件に美化したわけではない。『経済学批判要綱』(Grundrisse、1857-58年)において、マルクスは原始共産制を「人間の能力がまだ発展していない、未成熟な段階」として位置づけつつも、個人が共同体から切り離されていないという点において、資本主義よりも人間的な社会形態であったと評価した。

モーガンの民族学的研究

マルクスとエンゲルスが依拠したルイス・ヘンリー・モーガン(1818年 - 1881年)は、アメリカの民族学者であり、イロコイ連邦(北米先住民の六部族による連合体)のフィールドワークに基づいて、1877年に主著『古代社会——未開から文明への発展における研究』を出版した。

モーガンはイロコイ族の社会を詳細に記録し、以下の事実を明らかにした。

  • イロコイ族は母系制社会であり、血縁関係は母親を通じて辿られた。家屋(ロングハウス)は女性の所有であり、男性が婚出する
  • 土地は部族の共有財産であり、各氏族(クラン)が使用権を持つが、売却や譲渡はできなかった
  • 部族の意思決定は合議制によって行われ、首長は選出され、かつ罷免されうる存在であった
  • 富の蓄積と個人への集中は社会的に抑制され、ポトラッチ(贈与の祭典)のような再分配機構が存在した

モーガンの研究は、19世紀の西洋人が「未開」と見なしていた社会が、実は高度に組織された共同体的秩序を有していたことを示した。エンゲルスはこの研究に深く感銘を受け、モーガンの発見を「唯物史観の独立した追認」と評した。

クロポトキンの相互扶助論

原始共産制の概念を、マルクス主義とは異なる角度から補強したのが、ロシアのアナキスト・地理学者ピョートル・クロポトキン(1842年 - 1921年)である。

クロポトキンは1902年の主著『相互扶助論——進化の一要素』において、チャールズ・ダーウィンの進化論をハーバート・スペンサーらが「適者生存」の名の下に歪曲した社会ダーウィニズムに対抗し、自然界においても人間社会においても、「競争」ではなく「相互扶助」こそが種の存続と繁栄の主要な要因であると論証した。

クロポトキンはシベリアでの実地調査に基づき、動物界における相互扶助の実例——アリの共同労働、ミツバチの巣の共同防衛、シカの群れの相互警戒——を詳細に記録した上で、人間社会における相互扶助の歴史を辿った。

  • 未開社会: 氏族(クラン)を基盤とする共同体が、食料の共同採集、共同防衛、共同の儀礼を通じて結束していた
  • 中世の自由都市: ヨーロッパの中世都市は、ギルドを中心とする職人の自治共同体であり、相互扶助の原理に基づいて運営されていた
  • 近代の協同組合運動: 産業革命後も、ロッチデール先駆者協同組合(1844年)に始まる協同組合運動は、労働者が相互扶助によって資本主義の搾取に対抗する試みであった

クロポトキンの主張の核心は、国家も市場もない社会において、人間は自発的に協力し合う能力を持っているという点にある。社会ダーウィニズムが「人間の本性は競争的であり、国家と市場がなければ社会は崩壊する」と主張するのに対し、クロポトキンは膨大な実証的証拠をもって反論した。この議論は、イヴァン・イリイチのヴァナキュラーな価値の概念と深く共鳴する。

ロシアのミール(農村共同体)

ミールの構造と機能

ミール(мир)は、帝政ロシアの農奴制の下で存続していた農村共同体であり、「オプシチナ」(община、共同体)とも呼ばれた。「ミール」という語はロシア語で「世界」「平和」「共同体」の三つの意味を同時に持つ——共同体こそが農民にとっての全世界であり、平和の基盤であった。

ミールの核心的制度は土地の定期的再分配であった。共同体が所有する農地は、各世帯の家族構成(特に労働力の数)に応じて定期的に再配分された。これにより、特定の家族への土地集中を防ぎ、すべての世帯が自給のための耕作地を確保できる仕組みが維持されていた。

ミールの運営はスホート(сход、集会)と呼ばれる全戸参加の集会によって行われた。スホートでは以下の事項が決定された。

  • 土地の再配分: 各世帯への耕地の割り当ては、スホートでの合議によって決定された。世帯の人数増減、労働力の変化に応じて、数年ごとに再配分が行われた
  • 農作業の調整: 播種、刈り入れ、牧草地の利用、休耕地の管理など、農業生産の基本的なスケジュールは共同体として決定された
  • 共同地の管理: 森林、牧草地、水源など共有資源の利用規則を定め、過剰利用を防止した
  • 紛争の調停: 世帯間の争いは村の長老(スタロスタ)を中心にスホートで解決された
  • 租税の連帯責任: 各世帯が負うべき租税は、スホートが世帯ごとの支払い能力を考慮して配分し、支払い不能な世帯の分は共同体全体で負担した

この制度の下では、シャドウワークの問題は構造的に最小化されていた。生産と消費が共同体の内部で完結し、市場への依存が限定的であったため、「賃金労働を支えるための無償労働」というシャドウワークの本質的定義に該当する活動が生じる余地が小さかったのである。

思想的論争——スラヴ派とマルクス

ミールをめぐっては、19世紀ロシアにおいて激烈な思想的論争が展開された。

スラヴ派(スラヴォフィル)——アレクセイ・ホミャコーフイワン・キレエフスキーら——は、ミールをロシア文明の本質的表現とみなした。彼らによれば、ミールに体現されるソボールノスチ(соборность、「集いの精神」)——個人が共同体の中で自由と一体性を同時に実現する原理——こそが、西洋の個人主義的・法的秩序とは根本的に異なるロシアの精神的伝統であった。

西欧派は逆に、ミールをロシアの後進性の象徴とみなし、西欧型の個人的土地所有への転換を主張した。

マルクス自身は、晩年にミールに対して深い関心を示した。1881年のヴェラ・ザスーリッチへの手紙(公表されたのは1924年)において、マルクスはロシアのミールが資本主義段階を経ずに直接社会主義に移行しうる可能性を認めた。これは「すべての社会は必ず封建制→資本主義→社会主義という段階を経る」という単線的な歴史発展論の修正を意味するものであり、マルクスの思想の中でも最も論争的な部分の一つである。

マルクスは書いた——「もしロシア革命が西洋のプロレタリア革命のための合図となり、両者が互いに補い合うならば、現在のロシアの土地の共同所有は、共産主義的発展の出発点となりうる」

ストルイピン改革と共同体の破壊

しかし歴史はマルクスの期待とは異なる方向に進んだ。ピョートル・ストルイピン首相(在任1906-1911年)は、1906年から一連の農地改革を実施し、ミールの共同所有制度を解体して個人的土地所有への転換を推進した。

ストルイピンの狙いは明確であった。共同体的な農村を解体し、「強固な個人農」(krepost'khozyain)の階層を創出することで、革命運動の温床となっていた農村共同体を弱体化させることであった。具体的には以下の措置が講じられた。

  • 農民個人がミールからの脱退を申請し、割り当てられた土地を私有地として登記する権利を認めた
  • 従来の分散耕作地(ストリップ)を統合し、一区画の独立農場(フートル)として整理することを奨励した
  • 農民銀行を通じた土地購入の融資制度を整備した

ストルイピン改革の結果、1906年から1916年までに約260万世帯がミールからの脱退を申請した。これはロシア農民世帯の約24%に相当する。しかし、改革は農村を安定させるどころか分断と敵意を生み出した。土地を確保できた富農(クラーク)と、土地を失い貧困に陥った農民との間に階級的対立が激化したのである。

1917年のロシア革命後、ボリシェヴィキ政権は土地の国有化を宣言し、ストルイピン改革を逆転させた。しかし皮肉にも、スターリン集団農場化(コルホーズ、1929年 - )は、ミールの共同体的精神を回復するものではなく、国家権力による農村の強制的再編成であった。クラーク追放、強制的穀物徴発、そしてウクライナの大飢饉(ホロドモール、1932-33年)——集団化は、ミールが維持していた農村の自律性と相互扶助を完全に破壊し、農民を国家の管理下に置いた。

ミールの歴史が教えるのは、共同体の解体は常に上からの権力——ツァーリ政府であれ、ソヴィエト政府であれ——によって遂行されたという事実である。農民自身は共同体的な土地制度を望み続けたが、近代化を志向する国家権力がそれを許さなかった。

イスラエルのキブツ

キブツの理念と構造

キブツ(קיבוץ、ヘブライ語で「集団」「集合」の意)は、20世紀初頭のパレスチナにおいてシオニスト入植者が建設した集団的農業共同体であり、近代世界において原始共産制の原理を最も忠実に、かつ最も長期にわたって実践した社会実験である。

最初のキブツであるデガニアは、1910年にガリラヤ湖南岸に設立された。東欧から移住したユダヤ人青年たち——第二次アリヤー(1904-1914年)の移民——が、ロシアのナロードニキ運動やマルクス主義の影響の下に、私有財産の廃絶と完全な平等を理念として共同生活を開始した。

古典的キブツ(1910年代 - 1980年代)の原則は以下の通りであった。

  • 生産手段の完全な共有: 土地、農機具、工場、住居のすべてがキブツの共有財産であり、個人の私有財産は原則として認められなかった。衣服さえ共同の洗濯所から配布される場合があった
  • 「各人はその能力に応じて働き、各人はその必要に応じて受け取る」: マルクスが『ゴータ綱領批判』(1875年)で描いた共産主義の原則が、キブツにおいて文字通り実践された。賃金は存在せず、食事、住居、医療、教育、衣服はすべてキブツから提供された
  • 民主的自治: キブツの最高意思決定機関は全成員が参加する総会(アセファ)であり、予算、労働配分、新規成員の受け入れなどの重要事項はすべて総会で決定された
  • 集団的育児: 子どもは「子どもの家」(ベイト・イェラディム)で集団的に養育され、親元ではなくキブツの共同体全体の責任として育てられた。これは家事労働・育児のシャドウワーク化を構造的に排除する仕組みであった
  • 共同食堂: 食事は共同食堂(ハダル・オヘル)で全成員が一緒にとり、調理と配膳は輪番制で行われた。家庭内の食事の準備というシャドウワークが存在しなかった
  • 労働の輪番制: 農業、工場労働、炊事、清掃、洗濯、育児などの労働は輪番制で分担され、特定の人間(特に女性)に家事労働が集中することを防いだ

キブツの成果と限界

キブツはその最盛期(1950年代 - 1970年代)において、イスラエルの人口のわずか3-7%を占めるにすぎなかったが、農業生産の約40%、工業生産の約10%を担い、イスラエル国防軍(IDF)の将校団に不釣り合いに多くの人材を輩出した。キブツ出身者はイスラエルの政治・軍事エリートを構成し、初代首相ダヴィド・ベン=グリオンをはじめとする建国の指導者たちの多くがキブツに関わりを持っていた。

キブツの成果は、市場と国家の外部で共同体的生産が可能であること、そしてその共同体が高い生産性と社会的結束力を同時に達成しうることを実証した点にある。パットナムが論じた社会関係資本——信頼、互酬性、市民的参加——が、キブツにおいては制度的に担保されていた。

しかし、キブツは同時に深刻な限界と矛盾も抱えていた。

  • パレスチナ問題との不可分性: キブツの建設はパレスチナ人の土地の収奪と表裏一体であった。キブツが実現した「平等な共同体」は、パレスチナ人を排除した上でのユダヤ人だけの平等であり、民族自決権の観点からは、一つの民族の自決権の実現が他の民族の自決権の侵害によって達成されるという根本的矛盾を内包していた。この点は、キブツの理念をいかに評価する場合にも看過してはならない
  • 閉鎖性と同質性: キブツは成員の選別を行い、共同体に適応できない者は受け入れられなかった。また、入植初期のキブツは意識的にアシュケナジム(東欧系ユダヤ人)を中心に構成され、後から移住したミズラヒム(中東系ユダヤ人)との間に社会的・文化的な格差が生じた
  • 個人の自由との緊張: 共同体の決定に従わなければならない圧力、プライバシーの欠如、個人的な嗜好の抑圧——これらは「共同体主義の暗部」として、キブツ内部でも繰り返し問題視された。特に集団育児制度は、1980年代以降、子どもの心理的発達への悪影響が指摘され、廃止されていった

新自由主義によるキブツの変質

1977年のリクード政権誕生以降、イスラエル経済の新自由主義化が進行し、キブツは深刻な経済的危機に見舞われた。1980年代の高インフレ、政府補助金の削減、グローバルな農産物市場での競争激化によって多くのキブツが債務危機に陥った。

1990年代以降、大半のキブツは「民営化」(privatization)を余儀なくされた。具体的には以下の変化が進行した。

  • 共同食堂の閉鎖と各家庭での食事への移行
  • 集団育児の廃止と核家族中心の子育てへの転換
  • 賃金格差の導入——成員の労働内容と能力に応じた差別的報酬の容認
  • キブツ外での就業の許可
  • 住居の個人所有化

2020年代現在、イスラエルには約270のキブツが存在するが、そのうち古典的な共産主義的原則を維持しているのはごくわずかである。大多数は「更新キブツ」(kibbutz mithadesh)として、市場経済に適応した混合的な形態に移行した。

キブツの変質は、新自由主義が共同体的な社会形態をいかにして内部から解体するかの典型的事例である。外部からの軍事的破壊ではなく、市場原理の浸透、個人主義的価値観の拡大、そして国家政策の転換によって、共同体は緩やかに、しかし確実に変質する。キブツで起きたことは、規模は異なるが、日本の地域共同体が新自由主義的改革によって解体されていく過程と構造的に同型である。

メキシコのエヒード

メキシコ革命とエヒード制度の成立

エヒード(ejido)は、メキシコ革命(1910-1920年)を経て確立された共同体的土地所有制度であり、先住民と農民の土地権を保護するための制度的枠組みであった。

メキシコ革命以前、ポルフィリオ・ディアス独裁政権(1876-1911年)の下で大規模な土地集中が進行していた。19世紀後半の自由主義改革(レフォルマ)法——特に1856年のレルド法——は、共同体的土地所有を「後進的」とみなし、先住民共同体の共有地を強制的に解体して私有化した。その結果、革命前夜のメキシコでは、農村人口の97%が土地を持たず、国土の大部分がアシエンダ(大農園)の地主に集中していた。

エミリアーノ・サパタ率いるモレロス州の農民軍は、「土地と自由」(Tierra y Libertad)をスローガンに掲げ、先住民から奪われた共有地の返還を要求した。サパタのアヤラ綱領(1911年)は、「村落がその権利証書に基づいて所有する土地、山林、水源を、それらを占有している地主や大農園主から取り戻す」ことを宣言した。

1917年のメキシコ革命憲法第27条は、この農民の要求を制度化した。

  • 土地・水源・天然資源の原始的所有権は国家に帰属する: 私有財産権は国家が付与するものであり、国家は公共の利益のために土地の用途を制限する権利を持つ
  • エヒードの設立: 農民共同体に対し、耕作・居住のための土地を共同体として供与する。この土地は売却、譲渡、抵当に供することができない
  • 大農園の解体: 過大な土地所有を制限し、超過分を農民に分配する

エヒードの運営と共同体的原理

エヒード制度の下で、土地は三つの範疇に分類された。

  • 居住区(zona urbana): 共同体の成員が住居を構える区域
  • 共同利用地(tierras de uso común): 牧草地、森林、水源など、共同体全体で利用する土地。コモンズの原理に基づき管理された
  • 分割耕作地(tierras parceladas): 個々の成員(エヒダタリオ)に割り当てられた耕作地。ただし、所有権はエヒードに帰属し、エヒダタリオは使用権のみを持つ

エヒードの意思決定は総会(asamblea general)によって行われた。総会はすべてのエヒダタリオが参加する民主的機関であり、土地の分配、共同事業、紛争解決などの事項を決定した。日常的な管理は、総会で選出されるコミサリオ・エヒダル(ejidal commissariat)が担った。

ラサロ・カルデナス大統領(在任1934-1940年)の治世に、エヒードの制度的発展は頂点に達した。カルデナスは大規模な農地改革を実施し、約1,800万ヘクタールの土地を農民に分配した。さらに、ラ・ラグーナ地方やユカタン半島の麻プランテーションにおいて、集団的エヒード(ejido colectivo)——個人への分割ではなく、共同体として生産・管理を行う形態——を推進した。

NAFTAとエヒードの解体

エヒード制度は、1992年の憲法改正によって根本的に変質させられた。カルロス・サリナス大統領は、北米自由貿易協定(NAFTA、1994年発効)への加盟準備として、革命以来の農地制度を解体する方向に舵を切った。

改正された第27条は以下を認めた。

  • エヒード成員に対する個人的土地権原の付与
  • エヒード用地の売却、賃貸、抵当の許可
  • エヒードの法人化(商業的経営体への転換)の許可

この「改革」の本質は、革命が勝ち取ったコモンズを、再び市場に開放することにほかならなかった。メキシコの農民は、安価なアメリカ産トウモロコシとの競争に晒され、土地を売却して都市のスラムに流入するか、アメリカへの不法移民となるかの二者択一を迫られた。

1994年1月1日——NAFTAの発効日に合わせて——サパティスタ民族解放軍(EZLN)がチアパス州で武装蜂起したのは偶然ではない。副司令官マルコスは宣言した——「今日、我々はもう、たくさんだ、と言う。我々は500年にわたる搾取の相続者であり、人間として認められないことに飽きた」。サパティスタの闘争は、エヒード——すなわち先住民のコモンズ——をNAFTAの論理から防衛する闘いであった。

エヒードの歴史は、シャドウワークの観点から重要な教訓を含んでいる。エヒードが機能していた時代、メキシコの農民は共同体の内部で自給自足的な生活を営み、市場への依存は限定的であった。NAFTAによるエヒードの解体は、農民を市場経済に強制的に統合し、膨大なシャドウワーク——都市での住居探し、不慣れな官僚手続き、異国での言語・文化への適応——を課すことになった。ここでもまた、コモンズの破壊がシャドウワークの増大を直接的に引き起こすというイリイチの命題が確認される。

アンデスのアイユ(ボリビア・ペルー)

アイユの構造——インカ帝国以前からの共同体

アイユ(ayllu)は、ケチュア語圏およびアイマラ語圏——現在のボリビアペルーエクアドルの高地——に存在する先住民の共同体的社会組織であり、インカ帝国以前から少なくとも数千年の歴史を有する。アイユは、世界で最も長期にわたって存続している共同体的組織の一つであり、スペイン植民地支配、共和国時代の土地改革、そして新自由主義的グローバリゼーションを経てなお、アンデス高地の社会構造の基盤であり続けている。

アイユの基本的特徴は以下の通りである。

  • 血縁と地縁の複合体: アイユは共通の祖先(しばしば神話的祖先)を共有する血縁集団であると同時に、特定の領域を共同で管理する地縁集団でもある。両者は不可分であり、土地と人間は一体として把握される
  • 垂直統御(verticalidad): アンデス地域の独自の地理的条件——海岸地帯から高地4,000メートル超に至る急激な高度差——を活かし、一つのアイユが複数の異なる標高帯に耕作地を保有する。低地でトウモロコシ、中腹でジャガイモ、高地でリャマの放牧を行うことで、一つの共同体内で食料の多様性と自給自足を達成する。この「垂直統御」の概念は、人類学者ジョン・ムッラが1972年に体系化した
  • アイニ(ayni): 互酬的労働交換の原理。「あなたが私を助ければ、私もあなたを助ける」という対称的な相互扶助であり、田植え、収穫、家屋の建設などの際に実践される。アイニは貨幣を介さない労働の交換であり、シャドウワークの対極に位置する
  • ミンカ(mink'a): 共同体全体の利益のために行われる集団労働。灌漑水路の建設、道路の整備、祭礼の準備など、共同体のインフラ維持のために全成員が参加する義務的労働である
  • 土地の共同管理: 耕作地は定期的に再分配され(ロシアのミールと類似)、牧草地・水源・森林は共同体の共有資源として管理される

インカ帝国(タワンティンスウユ、15世紀 - 1533年)は、アイユを帝国行政の基礎単位として編入した。インカの支配者はアイユの共同体的構造を破壊せず、むしろそれを利用して、ミタ(mit'a、輪番の賦役労働)を通じた公共事業——道路、架橋、段々畑(アンデネス)、穀物倉庫——を実現した。インカの経済は貨幣を持たず、ミタとアイニの原理に基づく互酬経済として運営されていた。

植民地支配とアイユの存続

1533年のフランシスコ・ピサロによるインカ帝国征服以降、スペイン植民地支配はアイユの破壊を企図した。エンコミエンダ制(先住民の労働力を入植者に「委託」する制度)、ポトシ銀山のミタ(過酷な強制労働)、レドゥクシオン(先住民を集住させる政策)——これらの植民地政策は、先住民共同体を解体し、その労働力を植民地経済に組み込むことを目的としていた。

しかし、アイユは完全には破壊されなかった。アンデスの山岳地帯の地理的な隔絶性と、先住民の強固な文化的アイデンティティが、アイユの存続を可能にした。スペイン支配下でも、先住民は植民地の要求に従いながら(租税の支払い、ミタへの参加)、同時にアイユの内部では従来の共同体的原理を維持し続けた。

19世紀の独立後も、ボリビアとペルーの寡頭支配層は先住民の共有地の解体を企図したが、1952年のボリビア革命と、ペルーのベラスコ将軍による農地改革(1969年)が、アイユの土地権を部分的に保護した。

エボ・モラレスと「良き生き方」

2006年、エボ・モラレスがボリビア初の先住民出身大統領に就任し、アイユの原理を国家レベルで制度化する試みが開始された。2009年に制定された新憲法は、ボリビアを「多民族国家」(Estado Plurinacional)と定義し、先住民の自治権、共同体的土地所有、伝統的司法制度を憲法上の権利として承認した。

新憲法の最も注目すべき概念がスマク・カウサイ(Sumak Kawsay、ケチュア語)あるいはスマ・カマーニャ(Suma Qamaña、アイマラ語)——「良き生き方」(Buen Vivir)——である。これは、西洋的な「発展」(development)や「成長」(growth)の概念を根本的に拒否し、人間と自然、人間と共同体の調和を社会の目標とする理念である。

「良き生き方」の思想は、スマートシュリンクの理念と深い親和性を持つ。両者ともに、経済成長を自己目的化する西洋近代の発展主義を否定し、人間的な規模の共同体における質的に豊かな生活を志向する。アイユが数千年にわたって実践してきた互酬経済、垂直統御、アイニの原理は、「成長なき繁栄」の具体的な先例を提供するものである。

しかし2019年、モラレスは軍事クーデターによって大統領の座を追われた。その背景には、ボリビアのリチウム資源をめぐる国際的な権力闘争があった。ボリビアは世界最大のリチウム埋蔵量を持ち、モラレスがリチウムの国有化と自国での加工を推進していたことが、多国籍企業と西側諸国の利害と衝突したのである。先住民的共同体の原理を国家レベルで制度化しようとする試みは、グローバル資本主義の論理によって暴力的に阻止された

タンザニアのウジャマー

ニエレレの社会主義構想

ウジャマー(Ujamaa、スワヒリ語で「家族的紐帯」「兄弟愛」の意)は、タンザニア初代大統領ジュリウス・ニエレレ(在任1961-1985年)が提唱した「アフリカ社会主義」の理念と実践である。

ニエレレは1962年の論文「ウジャマー——アフリカ社会主義の基礎」において、アフリカの伝統的社会には階級分化以前の共同体的平等が存在しており、ヨーロッパ型の階級闘争を経ずとも、この伝統を近代的に発展させることで社会主義を実現できると主張した。

ニエレレの議論の核心は、マルクスへの批判的対話にあった。ニエレレは書いた——「ヨーロッパの社会主義は資本主義への反動として生まれた。しかしアフリカにおいて、我々は資本主義に毒される前の社会を基盤に社会主義を建設できる」。これはマルクスがザスーリッチへの手紙でロシアのミールについて示唆した可能性——資本主義を経由しない社会主義への直接移行——のアフリカ版であった。

1967年のアルーシャ宣言は、ウジャマー社会主義の政策綱領を明示した。

  • 自力更生(self-reliance): 外国資本と外国援助への依存を最小化し、国内資源の動員によって発展を実現する
  • 主要産業の国有化: 銀行、鉱山、大規模農園を国有化し、その利潤を国民全体の利益に充てる
  • 指導者の倫理綱領: 政府と党の指導者は、民間企業の所有、複数の給与所得、贅沢な生活を禁じられた

ウジャマー村落化の実践と蹉跌

ウジャマーの最も野心的な——そして最も論争的な——実践が、1973年から1976年にかけて推進されたウジャマー村落化(villagization)政策であった。分散して居住していた農村人口を、公共サービス(学校、診療所、水道)の提供が可能な集合村落に移住させるこの政策は、当初は自発的参加を原則としていたが、進捗の遅さに苛立ったニエレレの指示によって、1973年以降は半強制的な移住へと転換された。

1973年から1976年までに、約1,100万人(当時の農村人口の約80%)が約8,000のウジャマー村落に移住させられた。これは20世紀アフリカにおいて最大規模の人口再配置であった。

ウジャマー村落化の結果は複雑であった。

  • 肯定的成果: 教育の普及(識字率は1961年の10%から1985年の85%に上昇)、医療へのアクセスの改善、清潔な水の供給、コミュニティの組織化
  • 否定的帰結: 強制移住による社会的混乱、既存の農業知識・土地利用パターンの破壊、集団農場の生産性低迷、食料不足と飢饉の発生(特に1974-75年)、官僚的管理の肥大化

ウジャマーの蹉跌が突きつけるのは、「上からの共同体化」の根本的矛盾である。ニエレレは真摯にアフリカの伝統的共同体を復興しようとしたが、その手段として国家権力による強制的移住を用いたとき、ヴァナキュラーな共同体の本質——自発性、自律性、有機的に発展する内部秩序——が破壊された。これはスターリンの集団農場化と同型の問題である。共同体は上から「建設」されるものではなく、下から「生成」されるものでなければならない

ニエレレ自身は、後年この問題を率直に認めた。1977年のインタビューで彼は述べている——「我々は人々を説得する前に急ぎすぎた。自発性のない社会主義は社会主義ではない」

ウジャマーの遺産と構造調整

1985年のニエレレの退任後、タンザニアはIMF世界銀行構造調整プログラムを受け入れ、ウジャマー社会主義の制度は急速に解体された。国有企業の民営化、価格統制の撤廃、社会支出の削減——これはメキシコにおけるNAFTA後のエヒード解体と並行する過程であった。

ウジャマーの遺産について、フランツ・ファノンの言葉を借りれば、これは「収奪された者たちの収奪」——植民地支配によって伝統的共同体を破壊された民族が、その共同体を再建しようとした試みを、今度は新植民地主義的な国際金融機関によって再び解体される——という二重の悲劇である。

中国の人民公社

人民公社の構想と実態

人民公社(人民公社、1958年 - 1983年)は、毛沢東大躍進政策の一環として推進した農村の集団化組織であり、原始共産制の原理を国家規模で一挙に実現しようとした、人類史上最大の社会実験であった。

人民公社の構想は、農業生産の集団化にとどまらず、農村における国家・社会・経済の一体的管理を企図するものであった。

  • 「政社合一」: 行政組織と経済組織の統合。人民公社は農業生産組織であると同時に、基層行政単位でもあった
  • 共同食堂: キブツと同様に、家庭での食事を廃止し、共同食堂での集団的食事を推進した。「家庭の厨房を解放する」というスローガンの下、女性を家事労働から「解放」し、農業生産に動員することが目的であった
  • 保育所・幼稚園の設置: 育児の社会化を推進し、女性労働力を農業に動員した
  • 「五つの共同化」: 食事、住居、労働、教育、医療のすべてを共同化する構想

しかし人民公社の実態は、その理想とは著しく乖離していた。1958年から1962年の大躍進期に発生した大飢饉では、推定1,500万人から5,500万人(研究者によって推計が異なる)が飢餓によって死亡した。

大飢饉の原因は複合的であったが、核心的な問題は以下にあった。

  • 農業知識の無視: 「深耕密植」(深く耕し密に植える)などの疑似科学的農法が強制され、伝統的な農業知識が否定された。ルイセンコ主義の影響を受けた非科学的な指導が、農業生産を壊滅させた
  • 過剰な穀物徴発: 地方幹部は生産高を大幅に水増し報告し、それに基づいて過大な穀物徴発が行われた。農民の手元には種子すら残らない状態が生じた
  • 共同食堂の失敗: 共同食堂は当初「好きなだけ食べられる」として歓迎されたが、食料の浪費を招き、備蓄が底をつくと深刻な食料不足に陥った

人民公社の教訓

人民公社の悲劇は、国家権力による共同体の強制的創出がいかに破壊的な結果をもたらすかを最も極端な形で示している。

キブツとの対比が示唆的である。キブツは小規模(数十人から数百人)であり、成員の自発的参加に基づき、民主的な意思決定を行った。人民公社は巨大(数千人から数万人)であり、国家の命令によって設立され、党の指令に基づいて運営された。両者はともに「共同所有、共同労働、共同分配」を掲げたが、規模と自発性において決定的に異なっていた。

イリイチの理論的枠組みで言えば、人民公社は「ヴァナキュラーな共同体」の回復ではなく、「反ヴァナキュラーな制度」の極致であった。人民公社は農民の自律的な判断——何をいつ植えるか、どの程度収穫するか、家族でどのように食事するか——を完全に否定し、国家と党の指令に置き換えた。その結果、農民は共同体の自由な成員ではなく、国家の管理下に置かれたシャドウワーカーとなった。

1978年以降の改革開放政策により、人民公社は解体され、生産責任制(家庭聯産承包責任制)が導入された。個々の農家が生産の責任と利益を持つこの制度は、農業生産の劇的な回復をもたらしたが、同時に農村共同体の急速な解体と、都市への大規模な人口流出を引き起こした。国家主導の集団化の失敗は、市場主導の原子化へと振り子を逆方向に振らせたのである。

スペインのモンドラゴン協同組合

ホセ・マリア・アリスメンディアリエタの構想

モンドラゴン協同組合(Mondragon Corporación Cooperativa)は、スペイン・バスク地方の都市モンドラゴン(アラサーテ)に本拠を置く世界最大規模の協同組合グループであり、市場経済の中で共同体的原理を実践するという、他の事例とは異なるアプローチを採用した点で特筆に値する。

モンドラゴンの起源は、カトリック司祭ホセ・マリア・アリスメンディアリエタ(1915-1976年)の活動にある。スペイン内戦で共和国側に従軍し、フランコ独裁政権下のバスク地方で布教活動を行ったアリスメンディアリエタは、カトリック社会教説——特にレールム・ノヴァールム(1891年)以来の労働者の権利と共同善の教え——に基づき、労働者自身が所有し、管理する協同組合企業の設立を構想した。

1956年、アリスメンディアリエタの指導の下、5人の元生徒がULGOR(後のファゴール・エレクトロドメスティコス)という石油ストーブ製造の協同組合を設立した。これがモンドラゴン協同組合グループの起源である。

モンドラゴンの原則と構造

モンドラゴン協同組合は、以下の十原則に基づいて運営される。

  • 自由な加入: 組合員資格に人種、性別、宗教、政治的信条による差別を設けない
  • 民主的組織: 「一人一票」の原則に基づき、最高意思決定機関である総会で経営方針を決定する。出資額の多寡にかかわらず、すべての組合員が平等な投票権を持つ
  • 労働主権: 労働を資本に優越するものと位置づける。利潤は労働の成果であり、資本の成果ではない
  • 資本の手段的・従属的性格: 資本は共同体の目的を達成するための手段であり、それ自体が目的ではない
  • 参加的経営: 組合員は単なる労働者ではなく、経営の意思決定に参加する権利と義務を持つ
  • 報酬の連帯: 組合員の報酬格差は、最低報酬と最高報酬の比率を1対6以内(近年は1対8に緩和)に制限する。2020年代の一般的な大企業におけるCEOと一般社員の報酬比率(300対1以上)と比較すれば、その差は歴然である
  • 協同組合間の協力: モンドラゴン内の協同組合は相互に協力し、競争ではなく連帯の原則に基づいて関係を構築する
  • 社会変革: 協同組合運動を通じて、より公正な社会秩序の実現を目指す
  • 普遍的連帯: バスク地方にとどまらず、世界の協同組合運動との連帯を追求する
  • 教育: 教育を協同組合の発展と社会変革の基盤と位置づける。モンドラゴンは独自の大学(モンドラゴン大学)を運営する

2020年代現在、モンドラゴン協同組合グループは約80の協同組合から構成され、約8万人の組合員・従業員を擁し、年間売上高は約120億ユーロに達する。製造業(家電、工作機械、自動車部品)、金融業(ラボラル・クチャ信用協同組合)、小売業(エロスキ)、教育(モンドラゴン大学)など、多岐にわたる事業分野をカバーする。

モンドラゴンの意義と限界

モンドラゴンの最大の意義は、共同体的原理がグローバルな市場経済の中で競争力を持ちうることを実証した点にある。キブツ、エヒード、ウジャマーが市場経済との接触によって変質・解体されたのに対し、モンドラゴンは市場経済の内部で半世紀以上にわたって存続し、成長を続けてきた。

しかし、モンドラゴンもまたグローバリゼーションの圧力から自由ではない。

  • 国際化と原則の希薄化: モンドラゴンの製造業協同組合は、コスト競争力を維持するために海外に子会社を設立しているが、これらの子会社は協同組合ではなく通常の株式会社形態をとっている。海外子会社の従業員は組合員ではなく、賃金労働者である。これは共同体の外部に搾取を外部化するという矛盾を生んでいる
  • ファゴールの倒産: 2013年、モンドラゴン最大の製造業協同組合であったファゴール・エレクトロドメスティコスが倒産した。グローバルな家電市場での価格競争に敗れたことが直接の原因であるが、これは一国の協同組合がグローバル資本と競争する限界を示す事例でもある
  • 民族的基盤との結びつき: モンドラゴンの成功の重要な要因として、バスク人の強固な民族的アイデンティティと相互扶助の伝統が挙げられる。フランコ独裁下での弾圧を共有する経験が、協同組合員の連帯を強化した。このことは、共同体的経済組織は民族的・文化的な紐帯なしには成立しがたいことを示唆している

日本の入会地と結(ゆい)

日本のコモンズ——入会地

日本における共同体的土地所有の伝統は、入会地(いりあいち)に最も明確に表れている。入会地とは、一定の地域住民が共同で利用する山林・原野・漁場などの共有地であり、民法第263条および第294条に「入会権」として法的に規定されている。

入会地は、ヨーロッパのコモンズ、ロシアのミールの共有地、アンデスのアイユの共同管理地と同型の制度であり、共同体の成員が市場を介さずに自然資源を利用し、生活を維持するための仕組みであった。

入会地の利用は以下のような形態をとった。

  • 山林入会: 薪炭の採取、建築用木材の伐採、山菜・キノコの採集、落ち葉の堆肥利用。これらの資源は共同体の成員に無償で——あるいは最小限の負担で——提供された
  • 牧野入会: 牛馬の放牧のための草地の共同利用
  • 漁場入会: 沿海地域における漁場の共同管理。特定の漁場を特定の集落が管理し、乱獲を防止するルールを設けた
  • 水利入会: 灌漑用水の共同管理と配分。水利権の調整は農村共同体の最も重要な機能の一つであった

入会地の管理は、寄合(よりあい)と呼ばれる村の集会で決定された。入会地の利用規則、資源の採取量の制限、違反者への制裁——これらはすべて寄合での合議によって定められた。この自治的な資源管理は、エリノア・オストロムが2009年のノーベル経済学賞受賞講演で論じた「コモンズの自治」の典型例である。オストロムは、「コモンズの悲劇」(ハーディン、1968年)——共有資源は必然的に過剰利用される——という通説に対して、共同体が自律的にルールを定め、監視し、制裁を加えることで、コモンズは持続的に管理されうることを実証した。日本の入会地は、オストロムの理論を数百年にわたって実践してきた制度なのである。

結(ゆい)と講(こう)

入会地と並んで、日本の農村共同体を支えたもう一つの制度が(ゆい)と(こう)である。

結は、アンデスのアイニと同型の互酬的労働交換であり、田植え、稲刈り、屋根の葺き替え、道普請(みちぶしん)など、個人では遂行困難な大規模作業を、近隣の農家が互いに助け合って行う慣行であった。結の本質は、労働が貨幣を介さずに交換される点にある。Aの田植えにBが手伝いに来れば、Bの田植えにはAが手伝いに行く。この交換は厳密な時間計算に基づくものではなく、「お互い様」という緩やかな互酬性の感覚に支えられていた。

講は、特定の目的のために共同体の成員が資金や労力を出し合う組織である。

  • 頼母子講(たのもしこう)/ 無尽(むじん): 成員が定期的に一定額を出し合い、輪番で一人がまとまった金額を受け取る相互金融の仕組み。銀行やサラ金に頼らずに、共同体の内部で資金を融通する制度であった
  • 伊勢講: 伊勢神宮への参拝旅行(お伊勢参り)のための積み立て組織。全員が毎年参拝することは経済的に困難であるため、くじ引きで代表者を選び、共同の積み立て金で旅費を賄った
  • 念仏講: 仏教的な信仰実践を共同で行う組織。葬儀の互助も担った

これらの制度は、シャドウワークの概念が照射する問題——すなわち、市場経済が人間のあらゆる活動を商品化し、共同体の紐帯を切断する——の対極に位置するものであった。結においては、労働は売買されるのではなく交換され、その交換は信頼と互酬性によって支えられていた。講においては、金融は銀行の利潤追求のためではなく、共同体の成員の相互扶助のために機能していた。

近代化と共同体の解体

明治維新以降の近代化は、日本の伝統的共同体を段階的に解体した。

  • 地租改正(1873年): 土地の私有化と金納化。入会地の多くは「官有地」として国家に収用されるか、「民有地」として特定の個人や法人の所有に帰された。ロシアのストルイピン改革、メキシコの自由主義改革と同型の「コモンズの囲い込み」であった
  • 町村合併(明治の大合併、1889年): 約71,000の自然村を約15,000の行政村に統合。行政的な効率化のために、有機的に発展してきた共同体の単位が人為的に再編された
  • 産業化と都市化: 若年労働力の都市への流出により、農村共同体の担い手が減少。結や講の実施が困難になった
  • 高度経済成長(1955-1973年): 農村から都市への大規模な人口移動。集団就職に象徴されるこの過程は、三世代同居の解体、核家族化の進行、地域共同体の空洞化をもたらした

しかし、入会地と結の精神は完全には消滅していない。2011年の東日本大震災後、被災地で見られた住民同士の自発的な助け合い——避難所の自主運営、物資の共同管理、瓦礫撤去の共同作業——は、結の原理が日本社会の深層に存続していることを示した。同様に、2020年のコロナ禍においても、地域の「子ども食堂」や高齢者への買い物代行ネットワークといった自発的な相互扶助が各地で生まれた。

これらは、イリイチが「ヴァナキュラーな価値」と呼んだもの——市場を介さない、共同体の内部での自発的な助け合い——が、産業化と新自由主義による数十年の圧迫を受けてなお、人間の社会的本性として回帰するものであることを証明している。

共同体の成功と失敗を分かつ条件

比較分析——何が成否を決めたか

本稿で検討した世界各地の共同体的実験を比較すると、その成否を分かつ条件が浮かび上がる。以下の表は、各事例の構造的特徴を整理したものである。

事例 規模 自発性 指導者の性格 民族的基盤 存続期間 結末
ロシアのミール 村落単位(数十〜数百世帯) 慣習的(自然発生的) なし(長老による緩やかな統治) ロシア人共同体 数百年 国家権力により解体
イスラエルのキブツ 小規模(数十〜数百人) 自発的参加 知識人による設立 ユダヤ人(アシュケナジム中心) 約100年 新自由主義により変質
メキシコのエヒード 村落単位 革命的闘争の帰結 革命的指導者(サパタ) 先住民共同体 約75年 NAFTAにより解体
アンデスのアイユ 氏族・村落単位 慣習的(数千年) なし(伝統的権威) ケチュア・アイマラ 数千年 存続(圧迫下)
タンザニアのウジャマー 国家規模(強制移住) 半強制的 カリスマ的指導者(ニエレレ) 多民族国家 約20年 構造調整により解体
中国の人民公社 巨大(数千〜数万人) 完全に強制的 独裁者(毛沢東) 漢民族中心 約25年 大飢饉の末に解体
モンドラゴン協同組合 企業単位(数十〜数千人) 自発的参加 教養ある司祭(アリスメンディアリエタ) バスク人 約70年(存続中) 存続(一部変質)
日本の入会地・結 村落単位 慣習的 なし(寄合による合議) 日本人共同体 数百年 近代化により衰退

この比較から、共同体の持続的成功に必要な条件が五つ抽出される。

第一に、規模の適切さである。 成功した共同体はすべて小規模——村落、氏族、企業——を単位としている。人民公社(数万人)やウジャマー村落化(数百万人)のような巨大な規模では、成員間の対面的関係が不可能になり、官僚的管理が不可避となる。ロビン・ダンバーの研究が示すように、人間が安定した社会的関係を維持できる上限は約150人(ダンバー数)であり、これを超える共同体は必然的に制度的・官僚的な仕組みに依存する。古典的キブツの成功は、この「人間的規模」の範囲内で運営されていたことと無関係ではない。

第二に、自発性の原則である。 強制的に創設された共同体——人民公社、ウジャマーの強制移住——は例外なく失敗している。ミール、アイユ、入会地のように慣習的に発展した共同体、あるいはキブツ、モンドラゴンのように自発的参加に基づく共同体のみが持続的に機能した。これはイリイチの主張——ヴァナキュラーな共同体は「建設」されるのではなく「生成」される——と正確に一致する。

第三に、民族的・文化的基盤の存在である。 モンドラゴンはバスク人の民族的紐帯に、キブツはユダヤ人の共同体的伝統に、エヒードは先住民の共同体に、アイユはケチュア・アイマラの文化に、それぞれ根差していた。共同体的経済は、文化的真空の中では成立しない。 共有された言語、慣習、歴史、そして「我々は同じ民族である」という意識が、相互扶助と連帯の基盤を提供する。第四の理論が強調するように、経済は文明から切り離されてはならない。

第四に、外部の帝国主義的圧力への耐性である。 ほぼすべての事例において、共同体の解体は外部からの圧力——ストルイピン改革、NAFTA、IMFの構造調整、スペイン植民地支配——によって引き起こされている。共同体が内部的に失敗したのではなく、より強大な外部の力によって破壊されたのである。唯一の例外はアイユであるが、これはアンデス高地の地理的隔絶性という特殊条件によるところが大きい。

第五に、市場経済との関係の定め方である。 市場経済を完全に拒否した共同体(人民公社)も、市場経済に完全に飲み込まれた共同体(新自由主義化後のキブツ)も、持続には至らなかった。モンドラゴンのように、市場経済の中で活動しつつ、共同体の内部では市場原理とは異なる原則を維持するという二重構造が、最も持続可能な形態であることが示唆される。

指導者の教養と共同体の命運

共同体の成否において、その創設者あるいは指導者の知的・道徳的資質が果たした役割は看過できない。世界各地の事例を検討すると、成功した共同体には例外なく、深い教養と道徳的誠実さを備えた指導者が存在していたことが確認される。

アリスメンディアリエタの場合。 モンドラゴン協同組合の創設者アリスメンディアリエタは、カトリック社会教説の深い理解に加えて、マルクス主義経済学、協同組合理論、教育学に精通していた。スペイン内戦での従軍経験は、理論だけでなく人間の苦しみに対する共感を彼に与えた。アリスメンディアリエタの決定的な洞察は、共同体の存続には教育が不可欠であるという認識であった。彼がまず設立したのは工場ではなく、職業学校(1943年)であった。共同体の成員が技術的・知的に自立していなければ、共同体は市場経済の中で生き残れない。しかし同時に、教育は単なる技術訓練ではなく、協同の精神、連帯の倫理、共同善への献身を涵養するものでなければならない。アリスメンディアリエタはこの二つを統合した。

ニエレレの場合。 タンザニアのニエレレは、エディンバラ大学で学んだ知識人であり、プラトンの『国家』とカエサルの『ガリア戦記』をスワヒリ語に翻訳するほどの教養の持ち主であった。ニエレレの構想の出発点には、アフリカの伝統的社会に対する真摯な理解があった。しかし彼の失敗は、理想の実現を急ぐあまり、国家権力という手段に依存した点にある。ニエレレは独裁者ではなかった——彼はアフリカで最も腐敗の少ない指導者の一人であり、退任後は質素な生活を送った——が、知識人としての確信が、「啓蒙された指導者が民衆を正しい方向に導く」というパターナリズムに傾いた。教養は共同体を構想する力を与えるが、教養だけでは共同体を自発的に「生成」させることはできない。

毛沢東の場合。 毛沢東は博覧強記の読書家であり、中国の古典的歴史書に深く通じていた。しかし毛の「教養」は、人民を動員するための道具として機能した。マルクス主義の理論は、農民の生活実態に即した分析のためではなく、政治的支配を正当化するイデオロギーとして用いられた。大躍進の悲劇は、指導者の教養が共感と謙虚さを欠くとき、それがいかに破壊的な結果をもたらすかを示している。毛は自らの読書と思索から構築した壮大な理論的体系を、現実よりも優先させた。農民の声を聞かず、現場の報告を疑わず、理論が現実と乖離してもなお理論を修正しなかった。教養なき権力が暴力であるように、共感なき教養もまた暴力となりうる。

マルコス副司令官の場合。 サパティスタ民族解放軍の広報担当であったマルコス副司令官(後にガレアーノ副司令官と改名)は、メキシコ国立自治大学の哲学教員であったとされる。彼の声明文はマルクスとセルバンテスと先住民の口承伝統を自在に織り交ぜ、文学的修辞によってグローバルな支持を獲得した。しかしサパティスタ運動の決定的な特徴は、指導者が自らを消すことを原則とした点にある。マルコスは繰り返し述べた——「我々はスポークスマンであり、指導者ではない。決定を下すのは共同体である」。2014年、マルコスは象徴的な「死」を宣言し、公的な場から退いた。指導者の教養が最も正しく機能するのは、共同体の自治を可能にした後で、指導者自身が退場するときである。

これらの事例から導き出される命題はこうである。共同体の指導者に求められるのは、知的教養と道徳的共感の統合、そして自らの権力を制限する謙虚さである。 教養のみあって共感がなければ毛沢東になる。共感のみあって教養がなければ、共同体は市場経済の中で生き残れない。教養と共感の双方を備えつつ、なおかつ権力への執着を持たないこと——アリスメンディアリエタとマルコスが体現したこの資質が、共同体の長期的成功の隠れた必要条件である。

リアリズムの観点からの分析

共同体の破壊と覇権国の戦略

リアリズムの観点から見れば、各地の共同体が破壊されてきた歴史は、覇権国が自国の経済秩序を世界に強制する過程にほかならない。

ケネス・ウォルツ構造的リアリズムに従えば、アナーキーな国際システムにおいて覇権国は、潜在的な代替秩序の芽を摘むインセンティブを持つ。共同体的経済は、市場経済とは異なる秩序原理を提示する。それが成功すれば、「市場経済とグローバリゼーションこそが唯一の合理的な経済秩序である」というアメリカ主導のイデオロギーに対する反証となる。

メキシコのエヒードがNAFTAによって解体され、ボリビアのモラレスがクーデターで追放され、タンザニアのウジャマーがIMFの構造調整で解体された——これらの事例において、アメリカおよびその同盟国際機関(IMF、世界銀行、WTO)が共同体の破壊に直接的または間接的に関与していることは偶然ではない。

ハンス・モーゲンソーが『国際政治』で論じたように、帝国主義の本質は領土の征服だけでなく、被支配国の社会的・経済的構造を支配国の利益に適合するように改変することにある。共同体的経済の破壊は、領土を直接支配しない形態の帝国主義——すなわち文化的帝国主義および経済的帝国主義——の核心的手法である。

「コモンズの囲い込み」の世界史

本稿で検討した事例を通史的に見れば、それはイギリスのエンクロージャー(16世紀 - 19世紀)に始まる「コモンズの囲い込み」の世界史の一部をなしている。

  • 16-19世紀イギリス: コモンズ(共有地)の囲い込みにより、農民を土地から追放し、工場労働者に転換
  • 19世紀ロシア: ストルイピン改革によるミールの解体
  • 19世紀メキシコ: 自由主義改革による先住民共有地の私有化
  • 19世紀日本: 地租改正による入会地の収用
  • 20世紀タンザニア/中国: 国家権力による農村共同体の強制再編(失敗)
  • 20世紀末-21世紀: NAFTA、IMF構造調整、新自由主義的改革による世界各地の共同体的制度の解体

カール・ポランニーは『大転換』(1944年)において、この過程を「社会の自己防衛」と「市場の自己調整」の間の二重運動として分析した。市場経済は社会を商品化しようとするが、社会はそれに対する防衛運動を起こす。共同体的経済の試みは、すべてこの「社会の自己防衛」の表現であった。

民族自決権と共同体的経済

第四の理論が提唱するように、各文明は固有の経済秩序を持つ権利がある。アンデスのアイユ、ロシアのミール、日本の入会地——これらは西洋型の市場経済とは異なる経済秩序の実例であり、各文明が自らの経済的生活様式を自ら決定する権利——民族自決権の経済的次元——の表現であった。

アメリカ主導のグローバリゼーションは、この多様性を認めない。「自由市場」「規制緩和」「私有化」という単一の処方箋をすべての文明に強制し、各文明固有の共同体的経済を「非効率」「後進的」として否定する。しかしモンドラゴンが示すように、共同体的経済は「効率」においても市場経済に劣るわけではない。問題は効率ではなく、誰の利益のための「効率」なのかという問いである。

結論

原始共産制の記憶と、それを回復しようとする世界各地の試みは、人類の歴史を貫く一つの真実を示している。人間は本来、共同体の中で互いに助け合い、資源を分かち合い、共に生きる存在である。 私有財産、市場経済、賃金労働——これらは人類史の大部分において存在しなかった。それらは特定の歴史的条件の下で生まれた制度であり、人間の「本性」ではない。

しかし同時に、本稿が検討した事例は、共同体の回復が容易ではないことも示している。国家権力による「上からの共同体化」は例外なく失敗し、市場経済の圧力は自発的な共同体をも内部から浸食する。共同体の持続には、適切な規模、自発性、民族的・文化的基盤、教養と共感を兼ね備えた指導者、そして外部の帝国主義的圧力への耐性が必要である。

スマートシュリンクが提唱する人口縮小社会への適応は、共同体の回復にとって追い風となりうる。経済の規模が縮小し、「成長」の強迫から解放されるとき、人間的な規模の共同体が再び可能になる。第四の理論が唱える各文明の独自性の尊重は、西洋型市場経済の一元的支配を拒否し、各民族が自らの経済秩序を選択する権利を擁護する。

アイユが数千年にわたって存続し、モンドラゴンが半世紀以上にわたって成長を続け、東日本大震災後の被災地で結の精神が自発的に蘇ったこと——これらは、共同体的な生のあり方が人間にとって自然であり、いかなる圧迫の下でも消滅しないことの証拠である。

産業資本主義と新自由主義が押し付けるシャドウワークの連鎖を断ち切り、ヴァナキュラーな相互扶助を取り戻すこと。それは過去への回帰ではなく、人類が数千年にわたって実践してきた共同体的な生の知恵を、現代の条件の下で再発明することである。各民族が自らの共同体のあり方を自ら決定する権利——それが民族自決権の最も根源的な意味にほかならない。

参考文献

関連項目