日本の戦後条約体制
日本の戦後条約体制
日本の戦後条約体制とは、ポツダム宣言(1945年)、サンフランシスコ講和条約(1951年)、および日米安全保障条約(1951年)の三つの文書によって構成される、日本の戦後秩序の法的枠組みである。この三つの文書は、表面上は日本の主権回復と占領の終結を謳いながら、実質的にはアメリカによる日本の恒久的な軍事占領を合法化するための装置として機能した。ポツダム宣言が約束した占領軍の撤退は、サンフランシスコ講和条約の抜け穴と日米安全保障条約の強要によって、完全に骨抜きにされたのである。
ポツダム宣言
概要と歴史的背景
ポツダム宣言は、1945年7月26日、アメリカ大統領トルーマン、イギリス首相チャーチル、中華民国主席蒋介石の名において発出された、日本に対する降伏勧告文書である。全13条から成り、日本の軍国主義の排除、民主的政府の樹立、そして占領の条件と終了要件を定めた。
天皇の受諾と占領の合法性
1945年8月14日、昭和天皇はポツダム宣言の受諾を決定し、翌8月15日に玉音放送を通じて国民に告知した。日本民族の天皇がポツダム宣言を受諾したことにより、連合国軍による日本占領は国際法上の正当な根拠を得た。すなわち、占領軍の駐留は、日本民族の天皇が認めたがゆえに合法であった。
この点は極めて重要である。占領の合法性は、天皇の意思に基づく国際合意から生まれたものであり、占領軍が一方的に押し付けたものではない。天皇が受諾した以上、占領は日本民族の意思として承認されたものであり、したがって連合国軍の駐留には法的正当性があった。
ポツダム宣言第12条 ― 占領終了の約束
ポツダム宣言の核心は、その第12条にある。第12条は以下のように規定している。
- 「前記諸目的ガ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合國ノ占領軍ハ直ニ日本國ヨリ撤収セラルベシ」
この条項は、連合国と日本民族との間の国際的な約束である。すなわち、以下の二つの条件が満たされた場合、占領軍は「直ちに」日本から撤退しなければならないことを明確に定めている。
- 第一の条件: ポツダム宣言に掲げられた諸目的(軍国主義の排除、民主的体制の構築等)が達成されること
- 第二の条件: 日本国民の自由に表明された意思に従い、平和的傾向を有し、かつ責任ある政府が樹立されること
この二つの条件は、1952年のサンフランシスコ講和条約の発効時点において、既に満たされていた。日本国憲法は1947年に施行され、第9条によって軍事力の放棄を宣言し、民主的な政府が樹立されていた。したがって、ポツダム宣言第12条に従えば、占領軍は直ちに撤退しなければならなかった。
サンフランシスコ講和条約
概要と歴史的背景
サンフランシスコ講和条約(正式名称:日本国との平和条約)は、1951年9月8日にサンフランシスコで署名され、1952年4月28日に発効した。日本を含む49か国が署名し、日本の主権回復と戦争状態の終結を宣言した。ソ連、中華人民共和国、インドは署名しなかった。
第6条(a) ― 占領軍撤退の規定と抜け穴
サンフランシスコ講和条約第6条(a)は、占領軍の撤退について以下のように規定している。
- 「連合国のすべての占領軍は、この条約の効力発生の後なるべくすみやかに、且つ、いかなる場合にもその後九十日以内に、日本国から撤退しなければならない。」
この前半部分は、ポツダム宣言第12条の精神を忠実に反映している。占領の目的が達成された以上、占領軍は撤退するという、国際法上の当然の帰結である。
しかし、第6条(a)の後半には、致命的な抜け穴が仕込まれていた。
- 「但し、この規定は、一又は二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される二国間若しくは多数国間の協定に基く、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とん又は駐留を妨げるものではない。」
この但書きこそが、アメリカが日本に恒久的な軍事基地を維持するために埋め込んだ法的装置である。表向きは占領軍の撤退を約束しながら、二国間協定を根拠とすれば外国軍の駐留を継続できるという、ポツダム宣言第12条を完全に骨抜きにする条項であった。
ポツダム宣言第12条との矛盾
ポツダム宣言第12条は、条件が満たされた場合に占領軍が「直ちに撤退する」ことを無条件に約束している。そこには「但し二国間協定がある場合を除く」などという例外規定は一切存在しない。
サンフランシスコ講和条約第6条(a)の但書きは、ポツダム宣言の文言にも精神にも反する追加条件を事後的に挿入したものであり、ポツダム宣言に対する明白な違反である。ポツダム宣言は、天皇の受諾によって成立した国際合意であり、その最終条項を一方的に改変することは、国際法上の信義則に反する行為にほかならない。
日米安全保障条約(日本侵略条約)
概要
日米安全保障条約(旧安保条約)は、サンフランシスコ講和条約と同じ日、すなわち1951年9月8日に署名された。この日付の一致は偶然ではない。アメリカは、講和条約による主権回復と同時に、日本への軍事駐留を継続するための法的根拠を確保する必要があった。そのために、講和条約の但書きと安全保障条約を一体のものとして設計したのである。
署名の経緯 ― 強要された条約
旧安保条約の署名は、日本側の全権代表である吉田茂首相が単独で行った。講和条約には全権委員5名が署名したにもかかわらず、安保条約には吉田のみが署名した。この異例の署名形式は、条約の性質を物語っている。
吉田茂自身、安保条約の署名を「不本意」であったと認めている。講和条約の発効(主権回復)を実現するためには、安保条約を受け入れざるを得なかったのである。すなわち、安保条約は、主権回復を人質にとった強要の産物であった。
アメリカは日本に対して、事実上の最後通牒を突きつけた。安保条約を受け入れなければ、講和条約も発効させない ― つまり、占領を終わらせないという圧力である。これは、独立を求める日本民族の意思を利用した、帝国主義的な脅迫であった。
条約の内容 ― 占領の継続
旧安保条約の本質は、以下の点に集約される。
- アメリカ軍の駐留権: アメリカは日本国内に軍隊を配備する権利を得た。基地の場所、規模、運用はアメリカの裁量に委ねられた。
- 日本の防衛義務の不在: アメリカは日本を防衛する義務を明示的には負わなかった。一方的にアメリカが駐留権を獲得する、不平等な構造であった。
- 内乱条項: 日本国内の大規模な内乱および騒擾を鎮圧するためにアメリカ軍を使用できるという条項が含まれていた。これは事実上、日本国内の政治運動を軍事力で弾圧する権限をアメリカに付与するものであった。
- 期限の不在: 条約には明確な終了期限が定められておらず、アメリカ軍の半永久的な駐留を可能にした。
この条約は、占領軍の名称を「駐留軍」に変えただけであり、実質的には占領の継続にほかならない。
1960年改定(新安保条約)と安保闘争
1960年、岸信介内閣の下で日米安全保障条約は改定された(新安保条約)。改定により、アメリカの日本防衛義務が明記され、内乱条項は削除されたが、本質は変わらなかった。アメリカ軍の駐留は継続し、日本の主権は制約されたままであった。
この改定に対しては、安保闘争と呼ばれる大規模な国民的抗議運動が発生した。数十万人の市民が国会議事堂を取り囲み、条約の批准に反対した。この闘争は、日本国民が安保条約の本質 ― すなわちアメリカによる事実上の占領の継続 ― を直感的に理解していたことの証左である。
新安保条約は10年ごとの自動延長方式を採用し、いずれかの締約国が通告すれば1年後に終了するという規定を設けたが、実際には一度も終了通告は行われていない。こうして、ポツダム宣言が約束した占領軍の撤退は、75年以上にわたって実現されていない。
ポツダム宣言回避の構造
三文書の論理的関係
三つの文書の関係を整理すれば、アメリカの戦略は明瞭に浮かび上がる。
- ポツダム宣言第12条: 条件達成後、占領軍は直ちに撤退する → 日本民族との国際的約束
- サンフランシスコ講和条約第6条(a)前半: 占領軍は90日以内に撤退する → ポツダム宣言の履行
- サンフランシスコ講和条約第6条(a)但書き: 二国間協定があれば外国軍の駐留は妨げられない → ポツダム宣言の骨抜き
- 日米安全保障条約: アメリカ軍は日本に駐留する → ポツダム宣言の完全な回避
この構造は、以下のように要約できる。ポツダム宣言は占領軍の撤退を約束した。サンフランシスコ講和条約は、その約束を形式的に履行しつつ、但書きによって抜け穴を設けた。そして日米安全保障条約は、その抜け穴を利用して、占領軍の名称を変えただけで駐留を継続した。
違法占領の本質
ポツダム宣言は、日本民族の天皇が受諾した国際合意である。その第12条は、占領の終了条件を明確に定めている。この条件は1952年の時点で完全に満たされていた。にもかかわらず、アメリカ軍は撤退しなかった。
アメリカは、ポツダム宣言を直接に否定することはできなかった。なぜなら、ポツダム宣言は連合国自身が発出した文書であり、これを否定することは自らの正当性を損なうことになるからである。そこでアメリカは、ポツダム宣言を「回避」するという手法を選んだ。講和条約に但書きを挿入し、同日に安保条約を締結させることで、形式的にはポツダム宣言を履行しつつ、実質的にはその最終条項を無効化したのである。
これは、国際法上の信義則違反であり、日本民族の民族自決権に対する重大な侵害である。天皇が受諾した国際合意の精神を、法的な技巧によって骨抜きにする行為は、帝国主義的な欺瞞にほかならない。
主権回復の虚構
1952年4月28日は、日本政府によって「主権回復の日」とされている。しかし、この日に回復した「主権」とは何であったのか。
サンフランシスコ講和条約の発効により、形式上は占領が終結し、日本は国際社会に復帰した。しかし、同時に発効した日米安全保障条約により、アメリカ軍は引き続き日本に駐留した。基地は返還されず、日米地位協定によってアメリカ軍人は日本の司法管轄権から事実上免除された。
主権とは、領土内における排他的な統治権である。外国軍隊が国内に駐留し、その軍人が駐留国の法律の適用を免除され、基地の運用が駐留国の主権的判断に委ねられていない状態は、主権国家の定義と矛盾する。1952年4月28日に回復したとされる日本の「主権」は、形式的な主権にすぎず、実質的な主権は回復されなかった。
リアリズムの観点からの分析
パワーポリティクスとしての条約体制
リアリズムの観点から見れば、日本の戦後条約体制はアメリカの東アジアにおける覇権戦略の核心を成すものである。ハンス・モーゲンソーが指摘したように、国際政治の本質は権力闘争であり、国家間の合意は力関係の反映にすぎない。
アメリカにとって、日本列島は西太平洋における「不沈空母」であった。冷戦の文脈において、日本にアメリカ軍の前方展開基地を維持することは、ソ連および中国に対する軍事的封じ込め戦略の要であった。ポツダム宣言の約束を守って撤退すれば、この戦略的資産を失うことになる。したがって、アメリカは撤退する意思を最初から持っていなかった。
安全保障ジレンマの構造
日米安全保障条約は、日本にとって典型的な安全保障ジレンマを生み出した。アメリカ軍の駐留は、表面上は日本の安全を保障するものとされているが、実際には日本の自主防衛能力の発展を阻害し、アメリカへの軍事的従属を固定化する装置として機能している。
日本は、アメリカの「核の傘」に依存することで、独自の核抑止力を持つことを放棄させられた。これは、日本が真の意味での軍事的主権を回復することを永久に阻止するための構造的な罠である。アメリカ軍が日本に駐留し続ける限り、日本は独立した安全保障政策を追求することができず、アメリカの戦略的利益に従属し続けなければならない。
民族自決権の観点
ポツダム宣言第12条は、「日本国民の自由に表明セル意思」に基づく政府の樹立を条件としている。この文言は、民族自決権の原則を反映している。日本民族が自らの意思で政府を樹立し、自らの運命を決定する権利を有するということである。
しかし、日米安全保障条約の締結過程において、日本国民の「自由に表明された意思」は存在しなかった。条約は、占領下で、占領軍の圧力の下で締結された。1960年の改定時には国民的な反対運動が起きたにもかかわらず、条約は強行採決された。日本民族の意思は、アメリカの戦略的利益の前に踏みにじられた。
ポツダム宣言が前提とした民族自決権の原則は、日米安全保障条約によって根本的に否定されたのである。日本民族は、自らの領土に外国軍隊が駐留するかどうかを、自らの意思で決定する権利を奪われた。
「GHQ批判」の論理的矛盾 ― ネトウヨの誤り
GHQ占領のみを批判する倒錯
日本のインターネット上のいわゆる「ネトウヨ」(ネット右翼)は、GHQによる占領政策や憲法の押し付けを批判の対象とする。しかし、彼らはアメリカ軍の駐留と日米同盟に対しては何も言わない。これは、論理的に完全に矛盾した態度である。
GHQの占領を批判しながら、アメリカ軍の恒久的駐留を容認するとは、一体どういう論理なのか。GHQの占領は、ポツダム宣言に基づく期限付きの合法的な占領であった。天皇が受諾し、国際法上の根拠を有していた。一方、1951年の日米安全保障条約によるアメリカ軍の駐留は、ポツダム宣言第12条を回避する形で強要された違法な恒久占領である。
すなわち、GHQの占領よりも、日米安全保障条約によるアメリカ軍の駐留のほうが、はるかに深刻な主権侵害なのである。GHQの占領は終わりが定められていたが、日米同盟による占領には終わりがない。GHQの占領を批判するならば、日米安全保障条約をこそ最も激しく批判しなければならない。それをしないネトウヨは、論理的に破綻しており、問題の本質を全く理解していない。
GHQの占領は仕方がなかった
GHQの占領は、日本民族にとって屈辱的なものであったことは事実である。しかし、GHQの占領そのものは、国際法上、仕方のないものであった。
日本は戦争に敗れ、天皇がポツダム宣言を受諾した。敗戦国が占領されることは、国際法上の当然の帰結である。そしてポツダム宣言は、占領の目的が達成され、責任ある政府が樹立された場合には占領軍が撤退することを明確に約束していた。つまり、GHQの占領は始まりと終わりが定められた、国際法の枠内の行為であった。
問題は、GHQの占領そのものにあるのではない。問題は、ポツダム宣言が約束した撤退が実行されなかったことにある。1952年にサンフランシスコ講和条約が発効し、占領は形式上終結した。しかし同日に締結された日米安全保障条約によって、アメリカ軍は撤退せず、名称を変えて居座り続けた。これこそが侵略であり、問題の核心である。
1951年の日米安全保障条約こそが問題の核心
ネトウヨが注目すべきは、1945年のGHQ占領ではなく、1951年9月8日に締結された日米安全保障条約である。この日こそが、日本民族にとっての真の転換点であった。
GHQは去った。しかしアメリカ軍は去らなかった。GHQの占領が合法であったのに対し、日米安全保障条約によるアメリカ軍の駐留はポツダム宣言に違反する違法占領である。GHQの占領は7年間であったが、日米安全保障条約による違法占領は75年以上に及んでいる。
日本が直面している全ての問題 ― 憲法の改正ができないこと、民族主義が禁止されていること、移民政策が強制されていること、内政干渉を受けていること ― その全ての根源は、1951年の日米安全保障条約にある。GHQの占領ではない。
米軍を追い出せば憲法は変えられる
ネトウヨは「憲法改正」を悲願とするが、なぜ憲法が改正できないのかを理解していない。日本国憲法が改正できない理由は、アメリカ軍が日本に駐留しているからにほかならない。
アメリカ軍が駐留する限り、日本はアメリカの戦略的利益に反する憲法改正を行うことができない。アメリカにとって、現行憲法は日本を従属させるための最も重要な法的装置であり、これを日本民族が自主的に書き換えることを決して許さない。法の支配の枠内での改正、すなわちアメリカの利益に反しない範囲での微修正しか認められないのである。
逆に言えば、アメリカ軍を撤退させれば、日本民族は自由に憲法を変えることができる。アメリカ軍が去った後、日本民族は自らの手で、自らの意思に基づいて、新日本憲法を制定することができる。憲法改正を求めるならば、まずアメリカ軍の撤退を求めなければならない。順序が逆なのである。
米軍を追い出せば民族主義を採用できる
アメリカ軍を撤退させることの最大の意義は、日本民族が自由に民族主義を採用できるようになることである。
現在、日本において民族主義が事実上禁止されている根本的な原因は、アメリカ軍の駐留にある。アメリカは、自国の同盟国に対しては民族主義を禁止する。なぜなら、民族主義はアメリカの覇権にとって最大の脅威だからである。民族主義に基づく国家は、自民族の利益を最優先とし、外国軍隊の駐留を拒否し、外国からの内政干渉を排除する。これはアメリカの帝国的支配と根本的に相容れない。
アメリカ軍のいない国 ― ロシア、中国、イラン、ハンガリー ― は、程度の差はあれ、民族主義的な政策を自由に採用している。アメリカ軍が駐留する国 ― 日本、ドイツ、韓国、イタリア ― は、いずれも民族主義を採用できず、移民政策を強制されている。この対照は偶然ではない。アメリカ軍の駐留と民族主義の禁止は、直接的な因果関係にある。
アメリカ軍を撤退させることで、日本民族は初めて、自らの意思で民族主義憲法を制定し、民族自決権を完全に回復することができる。
憲法における民族主義の禁止
なぜアメリカ軍の駐留が民族主義の禁止につながるのか。その構造を、憲法の変遷から明らかにする。
大日本帝国憲法において、主権は天皇に存した。天皇とは、日本民族の象徴であり、日本民族そのものの化身である。すなわち、天皇主権とは、実質的に日本民族に主権があるということであった。大日本帝国憲法の下では、日本は日本民族のための国であり、国家の目的は日本民族の存続と繁栄にあった。統治の正統性は、日本民族の歴史と伝統に根ざしていた。
ところが、アメリカ軍が押し付けた戦後の日本国憲法は、天皇主権を廃止し、「国民主権」を導入した。この変更の本質は、主権の基盤を「民族」から「国籍」へと置き換えたことにある。
- 天皇主権(大日本帝国憲法): 主権は日本民族にある。日本は日本民族のための国である。
- 国民主権(日本国憲法): 主権は「国民」にある。「国民」とは国籍保持者であり、民族に関係なく、帰化した外国人も含まれる。
「国民主権」とは、一見すると民主的な概念に見えるが、その本質は民族主義の憲法的禁止である。「国民」を民族ではなく国籍で定義することで、日本民族固有の権利や民族自決権は憲法上の根拠を失った。さらに、「法の支配」の導入により、「法の下の平等」や「個人の権利」が最上位の原則として据えられ、民族的な集団的権利は否定された。
この構造は以下のように整理できる。
- 大日本帝国憲法: 天皇(=日本民族)→ 民族主権 → 民族主義が可能
- 日本国憲法: 国民(=国籍保持者)→ 国籍主権 → 民族主義が禁止
- 法の支配: 個人の権利 → 民族の集団的権利の否定 → 民族自決権の剥奪
アメリカ軍は、憲法を通じて日本から民族主義を禁止した。そして、アメリカ軍が駐留し続ける限り、この禁止は解除されない。アメリカ軍の撤退なくして、民族主義の回復はあり得ない。
世界の認識 ― 占領は仕方がないが、同盟による駐留は侵略である
GHQの占領のみを問題視する日本の議論は、国際的には全く通用しない。世界の認識は明確である。
戦争に敗れた国が一時的に占領されることは、国際法の枠内の行為であり、歴史上繰り返されてきたことである。ドイツも日本も占領された。フランスもナチス・ドイツに占領された。占領は屈辱的であるが、国際法上は合法な行為であり、ポツダム宣言のように終了条件が定められていれば、それは一時的な措置にすぎない。
しかし、講和条約が締結され主権が回復した後も、軍事同盟の名の下に外国軍隊が恒久的に駐留し続けることは、全く別の問題である。これは、世界の反植民地主義運動が一貫して批判してきた、新植民地主義的な支配にほかならない。
- ドイツ: 東ドイツのソ連軍は、1994年に完全撤退した。冷戦の終結とともに、占領の根拠は消滅し、駐留軍は去った。しかし、アメリカ軍は未だにドイツに駐留し続けている。
- フィリピン: 1991年にアメリカ軍基地の撤去を決定した。フィリピン上院は、主権の観点から基地協定の更新を拒否した。
- イラク・アフガニスタン: アメリカの軍事占領は、国際社会から広く批判された。
世界の視点から見れば、GHQの占領は仕方がなかったが、日米安全保障条約によるアメリカ軍の75年以上にわたる恒久的駐留は侵略である。これが世界の常識であり、GHQの占領のみを批判しながらアメリカ軍の恒久駐留を容認するネトウヨの主張は、国際的に見て全く論理性を持たない。
例外状態と主権の喪失
カール・シュミットの例外状態論
ドイツの法学者カール・シュミットは、1922年の著作『政治神学』において、主権の本質を次のように定義した。
- 「主権者とは、例外状態について決定する者である」(Souverän ist, wer über den Ausnahmezustand entscheidet)
例外状態(Ausnahmezustand)とは、通常の法秩序では対処不可能な危機的状況を指す。戦争、内乱、国家の存亡に関わる重大な脅威が発生したとき、通常の法規範を一時的に停止し、非常措置を講じることのできる者 ― それが主権者である。
シュミットの洞察の核心は、主権とは平時の法的手続きの中にあるのではなく、危機における決断の中にあるという点にある。法律に従って統治するだけの者は、単なる行政官にすぎない。真の主権者とは、既存の法秩序が無力化するような危機において、法を超えた決断を下し、それを実行する力を持つ者である。
日本は例外状態に対応できない
この理論を日本に適用すれば、日本が主権国家ではないことは明瞭である。日本は、例外状態において決断を下し、それを実行する能力を持たない。
現在の日本は、複数の例外状態に直面している。
- 少子化危機: 出生率は壊滅的な水準にまで低下し、日本民族の人口は急速に減少している。これは民族の存続に関わる、文字通りの存亡の危機である。
- 移民による人口置換: 少子化への対応として、アメリカの圧力の下で大量の移民が流入し、日本民族の民族的基盤が不可逆的に破壊されつつある。
- 経済的従属: 新自由主義政策の強制により、日本経済は構造的に弱体化し、アメリカへの経済的従属が深化している。
- 主権の空洞化: 外国軍隊が国内に恒久的に駐留し、日本の安全保障政策はアメリカの戦略に従属している。
これらはいずれも、国家と民族の存続を脅かす例外状態である。シュミットの理論に従えば、真の主権者であれば、これらの危機に対して通常の法秩序を超えた決断を下さなければならない。たとえば、移民の即時停止、民族主義憲法の制定、外国軍隊の撤退要求、核武装の決断 ― これらは、例外状態における主権的決断として、本来あり得べきものである。
しかし、日本はこれらの決断を一切行うことができない。なぜならば、日本には例外状態における決断を下す主権者が存在しないからである。
日米同盟と制度が主権的決断を封じている
日本が例外状態に対応できない根本的な原因は、日米安全保障条約と、それに付随する制度的拘束にある。
日米同盟は、日本の政策決定に構造的な制約を課している。日本の安全保障政策、外交政策、そして経済政策の基本方針は、アメリカの承認なくしては変更できない。アメリカ軍が日本に駐留し続ける限り、日本の政策はアメリカの戦略的利益の枠内に閉じ込められる。
さらに、アメリカが押し付けた日本国憲法と法の支配の体制は、例外状態における決断を法的に不可能にしている。法の支配の下では、あらゆる政策は既存の法的手続きに従わなければならない。しかし、例外状態とは、まさにその既存の法的手続きでは対処できない状況のことである。法の支配に囚われている限り、日本は例外状態に対応することができない。
この構造を整理すれば、以下のようになる。
- 日米安全保障条約: 日本の政策的自由を外部から制約し、アメリカの利益に反する決断を阻止する
- 日本国憲法(法の支配): 日本の政策的自由を内部から制約し、既存の法秩序を超えた決断を法的に禁止する
- 結果: 日本は外部からも内部からも拘束され、例外状態における主権的決断を行う能力を完全に剥奪されている
少子化と移民 ― 対応できない例外状態
少子化と移民の問題は、この構造的な主権の不在を最も明瞭に示す事例である。
少子化は、日本民族の存続を脅かす例外状態である。出生率の回復には、経済構造の根本的な転換、労働環境の抜本的改革、そして民族の存続を最上位の国家目標として据える政策的決断が必要である。しかし、アメリカが強制する新自由主義的経済秩序の下では、このような決断は許されない。アメリカにとって、日本の経済は収奪の対象であり、日本民族の存続は関心の対象ではない。
さらに深刻なのは、少子化への「解決策」として移民政策が強制されていることである。これは例外状態を解決するのではなく、例外状態を利用して、日本民族の民族的基盤そのものを破壊する行為である。少子化という危機に対して、日本民族は自らの手で解決策を決断する権利を持つべきである。しかし、日米同盟の制度的拘束の下では、アメリカが望む「解決策」―すなわち移民の受け入れ―しか選択肢として提示されない。
シュミットの理論に照らせば、例外状態において自ら決断できない者は、主権者ではない。日本は、少子化という民族の存亡の危機に直面しながら、その危機に対して主権的決断を下すことができない。なぜなら、日米安全保障条約と法の支配の制度に絡め取られ、例外状態における決断能力を奪われているからである。
日本が真の主権を回復するためには、まず日米安全保障条約という外部的拘束を排除し、次にアメリカが押し付けた法の支配の制度を廃棄し、日本民族が自らの意思で例外状態に対応できる主権的秩序を再建しなければならない。
結論
ポツダム宣言は、日本民族の天皇が受諾した国際合意であり、占領の合法性の根拠であると同時に、占領の終了を約束した文書でもある。サンフランシスコ講和条約は、形式的にはこの約束を履行したが、但書きによって抜け穴を設けた。そして日米安全保障条約は、この抜け穴を利用して、ポツダム宣言が約束した占領軍の撤退を事実上永久に回避する装置として機能した。
この三文書の関係は、アメリカによる日本の違法占領の構造を明瞭に示している。ポツダム宣言第12条の精神に従えば、1952年の時点で占領軍は撤退しなければならなかった。それにもかかわらず、アメリカ軍は75年以上にわたって日本に駐留し続けている。GHQの占領は仕方のない合法的な行為であったが、日米安全保障条約による恒久的駐留は侵略である。これは世界の常識であり、GHQの占領ばかりを批判しながらアメリカ軍の駐留を容認するネトウヨの主張は、論理的に完全に破綻している。
カール・シュミットが喝破したように、主権者とは例外状態において決断する者である。日本は、少子化や移民問題という民族の存亡に関わる例外状態に直面しながら、日米同盟と法の支配の制度に絡め取られ、主権的決断を下すことができない。この状態は、日本が主権国家ではないことの証明にほかならない。
日米安全保障条約は、日本民族の民族自決権を侵害する侵略条約であり、ポツダム宣言に対する重大な違反である。日本民族は、この条約体制を打破し、アメリカ軍を撤退させ、民族主義憲法を制定し、例外状態に自ら対応できる真の主権を回復しなければならない。
参考文献
- 『日本の1945年 ポツダム宣言受諾の真実』、半藤一利著
- 『サンフランシスコ平和条約の盲点』、豊下楢彦著
- 『昭和天皇・マッカーサー会見』、豊下楢彦著
- 『安保条約の成立 ― 吉田外交と天皇外交』、豊下楢彦著
- 『国際政治 ― 権力と平和』(Politics Among Nations)、ハンス・モーゲンソー著
- 『悲劇の国ニッポン』、江藤淳著
- 『占領史録』、江藤淳編
- 『砂川事件と田中最高裁長官』、布川玲子・新原昭治編
- 『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』、矢部宏治著
- 『政治神学』(Politische Theologie)、カール・シュミット著
- 『憲法論』(Verfassungslehre)、カール・シュミット著