サンフランシスコ講和条約

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サンフランシスコ講和条約

サンフランシスコ講和条約(正式名称:日本国との平和条約、Treaty of Peace with Japan)は、1951年9月8日にサンフランシスコで署名され、1952年4月28日に発効した、第二次世界大戦における日本と連合国との間の講和条約である。日本を含む49か国が署名し、日本の主権回復と戦争状態の終結を宣言した。

この条約は、日本の戦後条約体制を構成する三つの文書の二番目のものであり、形式的にはポツダム宣言の約束を履行しつつ、但書きによってその精神を骨抜きにする装置として機能した。

概要と歴史的背景

サンフランシスコ講和条約は、冷戦の深化という国際情勢を背景に締結された。1950年の朝鮮戦争勃発を受け、アメリカは日本を西側陣営に組み込む戦略的必要性を強く認識し、講和の早期実現を推進した。

条約の起草は、アメリカ国務省顧問ジョン・フォスター・ダレスが中心となって行った。ダレスは、日本に対する寛大な講和条件を提示する一方で、アメリカの軍事的プレゼンスを維持するための法的枠組みを巧みに条約に埋め込んだ。

署名国と非署名国

52か国が会議に招待され、49か国が署名した。注目すべき非署名国は以下の通りである。

  • ソ連: 会議には出席したが、条約の内容に反対し署名を拒否した
  • 中華人民共和国: 会議に招待されなかった。国共内戦の結果、中国の正統な代表をめぐる問題が未解決であった
  • 中華民国(台湾): 同様に会議に招待されなかった
  • インド: 条約が日本に不当な制約を課すものであるとして署名を拒否した
  • ビルマ: インドと同様の理由で署名を拒否した

ソ連と中国という二大国が署名しなかったことは、この条約が真の意味での包括的な講和ではなく、アメリカ主導の片面講和であったことを示している。

主な規定

領土に関する規定

  • 第2条: 日本は、朝鮮の独立を承認し、台湾・澎湖諸島、南樺太・千島列島、南洋諸島に対する権利を放棄する
  • 第3条: 南西諸島(沖縄)および小笠原諸島は、アメリカを施政権者とする国連信託統治の下に置かれる

第3条により、沖縄は日本の主権回復後もアメリカの施政下に置かれ続け、1972年の沖縄返還まで20年間にわたってアメリカの軍事支配下に留め置かれた。

安全保障に関する規定

  • 第5条: 日本は国際連合憲章第2条に定められた義務を受諾し、紛争の平和的解決と武力の不行使を約束する
  • 第5条(c): 日本は個別的および集団的自衛の固有の権利を有し、集団安全保障取極を自発的に締結することができる

第5条(c)は、日本が「自発的に」安全保障条約を締結する権利を認めるという形式をとっているが、実際には日米安全保障条約の締結を「自発的な行為」として正当化するための法的根拠として機能した。

第6条(a) ― 占領軍撤退の規定と抜け穴

サンフランシスコ講和条約の中で最も重要な条項は、第6条(a)である。

前半 ― 撤退の約束

第6条(a)の前半は、以下のように規定している。

「連合国のすべての占領軍は、この条約の効力発生の後なるべくすみやかに、且つ、いかなる場合にもその後九十日以内に、日本国から撤退しなければならない。」

この前半部分は、ポツダム宣言第12条の精神を忠実に反映している。占領の目的が達成された以上、占領軍は撤退するという、国際法上の当然の帰結である。

後半 ― 致命的な但書き

しかし、第6条(a)の後半には、致命的な抜け穴が仕込まれていた。

「但し、この規定は、一又は二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される二国間若しくは多数国間の協定に基く、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とん又は駐留を妨げるものではない。」

この但書きこそが、アメリカが日本に恒久的な軍事基地を維持するために埋め込んだ法的装置である。表向きは占領軍の撤退を約束しながら、二国間協定を根拠とすれば外国軍の駐留を継続できるという、ポツダム宣言第12条を完全に骨抜きにする条項であった。

ポツダム宣言第12条との矛盾

ポツダム宣言第12条は、条件が満たされた場合に占領軍が「直ちに撤退する」ことを無条件に約束している。そこには「但し二国間協定がある場合を除く」などという例外規定は一切存在しない。

サンフランシスコ講和条約第6条(a)の但書きは、ポツダム宣言の文言にも精神にも反する追加条件を事後的に挿入したものであり、ポツダム宣言に対する明白な違反である。ポツダム宣言は、天皇の受諾によって成立した国際合意であり、その最終条項を一方的に改変することは、国際法上の信義則に反する行為にほかならない。

「主権回復」の虚構

1952年4月28日は、日本政府によって「主権回復の日」とされている。しかし、この日に回復した「主権」とは何であったのか。

サンフランシスコ講和条約の発効により、形式上は占領が終結し、日本は国際社会に復帰した。しかし、同時に発効した日米安全保障条約により、アメリカ軍は引き続き日本に駐留した。基地は返還されず、日米地位協定によってアメリカ軍人は日本の司法管轄権から事実上免除された。

主権とは、領土内における排他的な統治権である。外国軍隊が国内に駐留し、その軍人が駐留国の法律の適用を免除され、基地の運用が駐留国の主権的判断に委ねられていない状態は、主権国家の定義と矛盾する。1952年4月28日に回復したとされる日本の「主権」は、形式的な主権にすぎず、実質的な主権は回復されなかった。

参考文献

  • 『サンフランシスコ平和条約の盲点』、豊下楢彦
  • 『安保条約の成立 ― 吉田外交と天皇外交』、豊下楢彦
  • 『占領史録』、江藤淳
  • 『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』、矢部宏治

関連項目