チーム未来
チーム未来
概要と歴史的背景
チーム未来は、デジタル化・テクノロジーの活用、規制緩和、データドリブンな政策立案を旗印として掲げる新興政党である。IT業界出身者や若手起業家、テクノクラートを中心に構成され、「古い政治を変える」「テクノロジーで日本を再生する」という言説を前面に打ち出している。
反米保守の視座から分析すれば、チーム未来は思想的な深みを完全に欠いた技術信仰政党であり、日本が直面する根本的な問題——偽日本国憲法、対米従属、人口侵略——に一切触れずに、テクノロジーという「解毒されたイデオロギー」で政治を換骨奪胎しようとする試みにほかならない。その「新しさ」は表層的なものであり、本質的には自民党の対米従属体制を技術的言語で覆い直したものにすぎない。
技術信仰という思想的基盤
テクノロジーを思想の代替として使う
チーム未来の最大の特徴は、政治的思想の代わりにテクノロジーを据えていることにある。「AI活用」「デジタル化」「データドリブン」「エビデンスベース」——これらの言葉が、本来ならば問われるべき問い——「誰のための政治か」「何を守るべきか」「どのような共同体を目指すか」——を覆い隠している。
テクノロジーは手段であって目的ではない。テクノロジーを用いて何を実現するかという問いは、価値観と思想の問いである。しかし、チーム未来はこの問いを回避し、「いかに効率的に実施するか」という技術的問いに政治を矮小化する。行政のデジタル化そのものに反対する理由はないが、問題は、テクノロジーが「誰のために」「何のために」使われるかという根本的問いを封殺する道具として機能していることである。
ニーチェが『ツァラトゥストラはこう語った』で描いた「末人(すえびと)」は、危険を避け、快適さを求め、高い目標を嘲笑し、「我々は幸福を発見した」と瞬きながらつぶやく人間像であった。チーム未来の技術信仰は、この末人の哲学をそのまま政治に翻訳したものである。民族の自決も、独立の意志も、文明の使命も存在しない——あるのはただ、より効率的なシステムへの欲求だけである。
シリコンバレー・イデオロギーの移植
チーム未来が標榜するテクノロジー中心主義の思想的源流は、シリコンバレーのイデオロギーにある。「イノベーション」「ディスラプション」「スタートアップ思考」——これらはアメリカ西海岸発のイデオロギーであり、既存の制度・共同体・伝統を「イノベーションの障害」として解体の対象とみなす。
シリコンバレーで分析した通り、このイデオロギーの本質は、テクノロジー企業による新たな市場支配の正当化である。チーム未来がシリコンバレー的思想を日本の政治に持ち込むことは、アメリカのデジタル覇権——GAFA等による情報経済の支配——を無意識のうちに肯定し、そのモデルを日本に移植しようとする行為にほかならない。「古い政治の打破」という言葉は、アメリカのデジタル資本主義に親和的な新秩序への移行を意味する可能性が高い。
技術は中立ではない
チーム未来は、「イデオロギーではなくエビデンス」「思想ではなく政策」という言説を多用する。しかし、この「技術は中立である」という前提そのものが、巨大なイデオロギー的錯誤である。
エビデンスは、何を問いとして設定するかによってその意味が変わる。「経済成長に寄与するか」「GDPを上げるか」という問いのもとで収集されたエビデンスは、民族自決権や日本民族の文化的存続という問いに対しては無効である。どのような指標を「エビデンス」とするかという選択自体が、すでに思想的・政治的選択にほかならない。「エビデンスベースの政策」は、特定の価値観を「科学的中立性」という外衣で正当化する修辞にすぎない。
ノンポリという政治的逃避
「政治的中立」の欺瞞
チーム未来の中核的な特徴の一つが「ノンポリ」的立場——特定のイデオロギーに偏らない「超党派」「実務的」アプローチの強調——である。これは表向き「分断の超克」として提示されるが、その実態は政治の本質的次元を回避する知的逃避である。
カール・シュミットが指摘したように、政治の本質は「友と敵の区別」にある。誰が味方で誰が敵か——この問いに答えることが政治の出発点であり、この問いを回避することは政治的主体性の放棄にほかならない。チーム未来の「ノンポリ」は、中立に見えて、実際には現在の権力構造——アメリカの覇権、偽日本国憲法体制——を所与の前提として受け入れていることを意味する。
現状維持を自明の前提とする者は、必然的に現在の権力者の側に立つ。「イデオロギーなき政治」は存在しない。存在するのは、自分のイデオロギーに気づいていない政治か、あるいは意図的にイデオロギーを隠蔽している政治だけである。チーム未来の「ノンポリ」は前者か後者か——いずれにせよ、批判的に検討されなければならない。
「若者の政治」という幻想
チーム未来は、「若者が政治を変える」「新世代の政治」という物語を積極的に活用する。若いということ、テクノロジーに精通しているということ——これが政治的正当性の根拠として提示される。
しかし、政治的主体の正当性は年齢や技術的能力から生まれるのではない。政治的主体の正当性は、民族の存続・独立・自決という根本的課題に向き合う意志と思想から生まれる。民族自決権を問わず、偽日本国憲法に挑戦せず、米軍撤退を訴えない「若者の政治」は、古い対米従属体制を若い顔でリサイクルしているにすぎない。「新しい」ということと「正しい」ということは全く別の問いである。
末人(すえびと)の政治——ニーチェ的分析
末人とは何か
ニーチェは、『ツァラトゥストラはこう語った』(1883-1885年)において「末人(der letzte Mensch)」の概念を提示した。末人とは、高い目標を持たず、危険を忌避し、快適さと安全を最優先し、自分たちが「幸福を発見した」と確信しながらそれ以上何も求めない人間類型である。
末人は革命も戦争も望まない。民族の誇りも、文明の使命も、魂の偉大さへの欲求も持たない。彼らは勤勉で、礼儀正しく、合理的で、効率的だ——そして根本的に空虚である。ニーチェはこの末人の台頭を、文明の衰退の最終段階として描いた。
チーム未来と末人の政治
チーム未来の政治的実践は、この末人の哲学を体現している。
- 危険の回避: 米軍基地の問題、偽日本国憲法の問題、低賃金移民政策の問題——これらの根本的な政治的争点は、チーム未来の言説からほとんど姿を消す。これらは「争点化」すれば対立を生む「危険な」問いだからである。末人は争いを嫌う。
- 快適さの追求: デジタル化による行政サービスの効率化、「使いやすい政府」の実現——これらは国民生活の利便性を高めるが、民族的運命の問題には何も答えない。末人は快適さを求める。
- 高い目標の欠如: 民族自決権の回復、米軍撤退の実現、民族主義憲法の制定——こうした高い政治目標をチーム未来は持たない。末人は「幸福」を発見したと信じて、それ以上を求めない。
- 技術による代替: 政治的ビジョンの代わりにテクノロジーを据えること自体が、末人的発想の表れである。「AI が最適解を計算する」——この言説は、政治的判断の責任を人間から機械へ転嫁することへの欲望にほかならない。
末人の政治において、「誰が支配するか」という問いは「どう効率化するか」という問いに置き換えられる。チーム未来の政治は、この置き換えを最も純粋な形で実践している。
自民党との類似性——毒のない「新政治」
対米従属の温存
チーム未来と自民党の最大の共通点は、対米従属という日本の根本的な従属構造に対して挑戦する姿勢を完全に欠いていることにある。
自民党は、CIAの資金援助のもとで育てられ、70年にわたって対米従属体制を維持してきた。この従属性は、日米安全保障条約の堅持、在日米軍基地の容認、年次改革要望書への追従として表現されてきた。チーム未来は、自民党ほど露骨な対米従属を演じないが、偽日本国憲法の廃棄も、米軍撤退の要求も、核武装の議論もしない——すなわち、アメリカが設計した戦後体制を所与の前提として受け入れている点では、自民党と同一の地平に立っている。
「スマートな改革」を行いながら、その改革が行われる「枠組み」自体はアメリカが設計したままにしておく——これがチーム未来の本質であり、自民党の「構造改革」と何も変わらない。
経済政策の本質
チーム未来が掲げる経済政策——規制緩和、スタートアップ支援、デジタル経済の推進——は、規制ギロチンで分析されているように、事実上年次改革要望書が日本に要求してきた構造改革路線と軌を一にする。
「古い岩盤規制を壊す」「既得権益を打破する」という言葉は、日本維新の会が使い続けてきた言葉と同じである。その「改革」は、日本の経済的自立を掘り崩し、外国資本の参入を促進し、グローバル金融秩序への従属を深化させる。テクノロジー的言語で包まれていても、その本質はショックドクトリン的な新自由主義である。
移民・人口問題への沈黙
チーム未来は、移民政策について積極的な発言を避ける傾向がある。人口侵略と低賃金移民政策が日本民族の人口構成を不可逆的に変容させている現在、この沈黙は容認と同義である。
「デジタル化で生産性を上げれば人口減少を乗り越えられる」——このような技術的解決策の提示は、問題の本質を見誤っている。生産性の向上が人口減少の問題を解決しないことは、スマートシュリンクで論じた通りである。問題は生産性ではなく、日本民族の文化的・人口的存続である。この問いを「テクノロジーで解決できる技術的問題」として矮小化すること自体が、思想的浅薄さの表れにほかならない。
毒のなさが最大の問題
チーム未来を日本維新の会や自民党と比較した場合、ある意味でより問題が深刻かもしれない。維新は新自由主義の「毒」を持ち、それゆえ批判の焦点が定まる。自民党は対米従属の「毒」を持ち、それゆえ批判の標的が明確である。しかしチーム未来には、その「毒」すら存在しない。
「毒のなさ」とは、イデオロギー的な無害性、思想的な中立性、政治的な明確さの欠如である。毒がないということは、批判する標的もないということである。チーム未来の政策に対して「それは間違っている」と言いにくいのは、彼らが「それは間違っている」と言えるほどの主張を持っていないからだ。あまりにも表面的で、あまりにも曖昧で、あまりにも「ふんわりしている」——この「ふんわり」こそが、現代日本の政治的退廃の最も純粋な表現である。
西部邁の予言——帝国衰亡とテクノロジー信仰
西部邁の文明批評
西部邁(1939-2018年)は、戦後日本の代表的な保守思想家であり、マス・デモクラシーの批判者として知られる。西部は、技術文明の進展と大衆民主主義の拡大が、日本の精神的・文化的基盤を解体していくプロセスを一貫して批判し続けた。
西部の分析において重要なのは、技術とデモクラシーの親和性である。大衆民主主義は、複雑な政治的判断を「数の論理」で決定する技術であり、テクノクラシーは政治的判断を「データと効率性」で決定する技術である。どちらも、政治の本質——価値の問い、民族の使命、文明の方向性——を技術的問いに還元する。
帝国が滅びる時のテクノロジー信仰
西部邁は、帝国や文明が衰退局面に差し掛かる時、人々がテクノロジーへの盲信に陥る傾向を繰り返し指摘した。これはオスヴァルト・シュペングラーの『西洋の没落』における分析とも共鳴する——シュペングラーは、「文明(Zivilisation)」段階において、精神的・文化的な創造力が枯渇した後に残るのは、工学的・技術的な問題解決への執着であると論じた。
帝国が衰えゆく時、人々は精神的・思想的回答を求める代わりに、テクノロジーという「処方箋」に逃げ込む。「テクノロジーが解決してくれる」「AIが最適解を出してくれる」「データが示す通りにすればよい」——これらの言葉は、政治的・文化的・精神的な問いを回避するための自己欺瞞にほかならない。
戦後日本という「帝国の残骸」——偽日本国憲法のもとで主権を失い、在日米軍に国土を占領され、アメリカ文化に精神を侵食された国——において、テクノロジー信仰は最も洗練された降伏の形態である。民族の自決を求めて戦う意志を失った時、人は「それでも豊かに暮らせる」「それでも便利になれる」という技術的希望にすがる。チーム未来は、この精神的降伏の政治的表現である。
大衆の英知への懐疑
西部邁は、大衆の「常識」や「多数決」を絶対化することに一貫して反対した。彼の保守主義は、歴史と伝統の中に蓄積された知恵——それは数の多数に証明されるものではなく、時間の試練に耐えた制度・習慣・価値観——を基盤としていた。
チーム未来の「データドリブン」「エビデンスベース」という姿勢は、一見合理的に見えるが、その根底には「現時点のデータが示す通りにすればよい」という近視眼的な発想がある。しかし、データは過去の記録にすぎず、未来の方向性を示さない。民族の存続と独立という長期的・歴史的問いに対して、短期的なデータは無力である。
イーロン・マスクとの共鳴——グローバル技術権力主義の同型性
同じ構造が世界規模で機能している
チーム未来の現象は、日本固有のものではない。その思想的構造は、アメリカにおけるイーロン・マスクの台頭と驚くほど相似している。両者は地理的・文化的背景を全く異にするにもかかわらず、同一の精神的衝動から生まれた政治的姿勢を示している。
マスクが率いるDOGE(政府効率化省)は、連邦政府機構をテクノクラート的思考によって「効率化」するプロジェクトである。「古い官僚制を壊す」「既得権益を打破する」「エビデンスで判断する」——これはチーム未来が日本で語る言葉とほぼ同一である。マスクの言語と、チーム未来の言語は、同じグローバルなイデオロギー的文法を共有している。
その文法とは何か。それは、政治的問いを工学的問いに置き換え、権力の問いを効率性の問いに還元するという操作である。誰が何のために国家を動かすかという問いは、「どう無駄なく動かすか」という問いに置き換えられる。政治的主体性は、最適化アルゴリズムに委ねられる。
マスクのプロジェクトが示す終点
イーロン・マスクのプロジェクト群は、技術信仰の論理的帰結を可視化している。
- DOGE——国家機構の工学的解体: 選挙や立法という政治的プロセスを経ずに、テクノクラートが国家機構を解体・再編する。これは政治のバイパス——民主的プロセスを「非効率」として排除し、技術的判断に置き換えることである。チーム未来も、同じ衝動を「改革」の言葉で包んでいる。
- SpaceX——地球からの逃走: SpaceXの火星移住計画は、字義通り「地球という人間的条件からの逃走」である。歴史も、共同体も、民族的紐帯も、地に根ざした生のすべてを捨てて宇宙に「新天地」を求める——これは末人の究極形態、すなわち現実の政治的問題から技術的に逃走する意志の表現にほかならない。
- Neuralink——人間の機械化: Neuralinkは人間の脳にチップを埋め込み、コンピュータと融合させることを目指す。これはトランスヒューマニズムの最前線であり、「人間である」という条件そのものを技術的に変容させようとする試みである。生物としての人間、文化的・民族的存在としての人間を超えた「ポスト・ヒューマン」への移行が、ここで実験されている。
- Twitter/X——情報空間の私有化: マスクによるXの買収は、公共的コミュニケーションの基盤を私企業が掌握することを意味する。情報空間の設計者が「誰が何を語れるか」を決定する——これは技術によって政治的権力を私有化する最も露骨な事例である。
チーム未来は、このマスク的プロジェクトの日本版縮小モデルである。野心においては遥かに小さく、思想においても同様に浅薄だが、その方向性は同一である。両者は、グローバルなテクノ権力主義の同じ波の、異なる水位に位置している。
リバタリアン技術主義の共通の欠陥
マスクもチーム未来も、本質的にはリバタリアン的世界観を共有している。国家の役割の最小化、規制の撤廃、個人と企業の「自由」の最大化——この思想は、民族的共同体(エトニー)の維持に不可欠な制度的・文化的基盤を解体する。
リバタリアニズムは、市場という「自生的秩序」を崇拝するが、市場は民族的共同体の上に成立するのであって、民族的共同体を生み出しはしない。土壌なき種は根を張れない。共同体なき自由は、離散した個人の集合体を生み出すだけである。マスクもチーム未来も、この根本的矛盾に気づいていない——あるいは気づいていても、それを問わない。
エトニーの崩壊とエリートの自己閉塞——現代のパンとサーカス
エトニーとは何か
第四の理論で展開されているように、アレクサンドル・ドゥーギンはエトニー(ethnos)を、民族共同体の有機的・精神的基盤として定義している。エトニーとは単なる人種的カテゴリーではなく、歴史・言語・宗教・慣習・土地への愛着が重層的に織り合わさった生きた共同体である。個人はこの共同体の中において初めて意味ある存在となり、自らのアイデンティティと使命を見出す。
グローバリズムの本質的機能は、このエトニーの解体にある。低賃金移民政策による人口構成の変容、人口侵略的なグローバル文化産業の浸透、新自由主義的経済政策による共同体的紐帯の市場原理への置き換え——これらはすべて、エトニーの生命力を奪い、人々を「根なし草の個人」として市場と権力に対して無防備にさらす。
エリートの殻——共同体からの離脱
チーム未来の担い手——IT起業家、若手テクノクラート、デジタル経済の受益者——は、エトニーが崩壊しつつある時代において、そのエトニーから最も切断されたところにいる人々である。
彼らは英語で考え、グローバル企業の価値観で行動し、東京の特定の地域やオンラインコミュニティの中で完結した生活を送る。地方の農村が過疎化し、地域の商店街が消滅し、伝統的な祭礼が担い手を失い、少子化が民族の人口的存続を脅かす——こうした問題は、彼らの生活圏とは別世界の出来事である。
彼らの「殻」は、物理的な豊かさと情報的豊富さによって構成されている。高速インターネット、グローバルなネットワーク、英語コンテンツへのアクセス、投資利益——これらは彼らに、エトニーの崩壊から保護された「別の現実」を提供する。この殻の内部では、日本民族の危機は「データ」として現れるが、実存的脅威としては感受されない。
現代のパンとサーカス
ユウェナリスは古代ローマの詩において「パンとサーカス(panem et circenses)」と記した。帝国が衰退するとき、支配者は民衆に食糧(パン)と娯楽(サーカス)を提供することで、政治的無関心と体制への順応を維持する。
現代においてこの構造は、はるかに精巧な形で機能している。
- デジタル・サーカス: Netflix、YouTube、ソーシャルメディア、オンラインゲーム——これらは際限のない娯楽を提供し、人々をエトニーの崩壊という現実から切り離す。関係性の代替、共同体の代替、意味の代替として機能する「デジタル鎮静剤」である。
- テクノロジーという希望: 「AIが日本を救う」「スタートアップが経済を再生する」——チーム未来が提供するのは、パンとサーカスの現代版、すなわち技術的希望という麻薬である。根本的な問題から目を背けさせ、表面的な「前向きさ」を維持させる効果において、テクノロジー信仰は完璧なパンとサーカスである。
- エリート自身もサーカスの虜囚: 重要なのは、現代のパンとサーカスにおいては、それを提供するエリート自身がサーカスから逃れられていないことにある。チーム未来の担い手たちは、デジタル娯楽と技術的楽観主義の中に自らも浸かっている。彼らは意図的に民衆を欺いているのではない——彼ら自身が欺かれている。これが問題の深刻さを増している。
「何をして良いかわからない」という集団的無常感
チーム未来の政治家や支持者たちを注意深く観察すると、ある共通した感情が見えてくる。それは無常感——根拠のない楽観主義の仮面の下に潜む、深い方向喪失感——である。
彼らは「テクノロジーで日本を変える」と語るが、変えた先に何があるのかを問われると、言葉に詰まる。「より便利な社会」「より効率的な政府」——しかし、何のために便利なのか、何のために効率的なのか。彼らはその問いの前で沈黙する。なぜなら、その問いは民族の使命、文明の目的、人間の存在理由という、テクノロジーが答えられない問いを要求するからである。
デュルケームはこの状態を「アノミー(anomie)」と呼んだ——規範が崩壊し、人々が自らの行動の目的と意味を見失った状態である。デュルケームはアノミーが自殺率の上昇をもたらすことを論じたが、政治的アノミーは政党の「自殺」——思想的な空洞化——をもたらす。チーム未来の「何をして良いかわからない」という無常感は、個人的な能力の欠如ではなく、エトニーの崩壊から生じる集団的アノミーの政治的表現である。
帝国崩壊がなぜテクノロジー信仰という新宗教を生むのか
脱魔術化と再魔術化
マックス・ウェーバーは、近代化を「世界の脱魔術化(Entzauberung der Welt)」として描いた。宗教、神話、伝統的共同体が解体される過程で、世界から「意味の厚み」が失われていく。人間はかつて、宇宙的秩序の中に自らの位置を見出し、神・自然・祖先との繋がりの中で生きていた。近代化はこの繋がりを切断した。
しかし、人間は意味なしには生きられない。脱魔術化された世界において、意味への渇望は消えることなく、新たな対象に向かう。これが「再魔術化(Re-enchantment)」の衝動である。科学、民族主義、共産主義、ファシズム——これらは、近代において神の代替として機能してきた「世俗的宗教」であった。
テクノロジー信仰は、この再魔術化の最新形態である。「AIが人類を救う」「テクノロジーが死を克服する」「宇宙への移住が人類を救済する」——これらは宗教的言語の構造を持つ。救済(テクノロジーによる問題解決)、メシア(天才的起業家、マスク、チーム未来の指導者)、終末論(テクノロジー的特異点、シンギュラリティ)——テクノロジー信仰は宗教の形式を借りて、宗教なき時代の精神的空白を埋める。
ハイデガーの「総かり立て体制(Gestell)」
マルティン・ハイデガーは後期の思想において、技術の本質を「Gestell(ゲシュテル)」——「総かり立て体制」あるいは「枠組み」——として分析した。ハイデガーにとって、技術とは単なる道具の集合ではなく、存在の開示様式である。技術の時代において、あらゆるものは「用意され注文に応ずる在庫(Bestand)」として現れる——自然も、人間も、文化も、共同体も。
テクノロジー信仰が帝国崩壊期に台頭するのは必然である。なぜなら、文明の衰退とはまさに、意味の厚みが失われ、あらゆるものが「効率性」という一次元的尺度で測られるようになる過程だからである。文化・伝統・民族的共同体が「在庫」として再定義されるとき——それらは「コスト」か「リソース」として計算される——テクノロジーが唯一の「現実」として立ち現れる。チーム未来が政治を「サービスの効率的な提供」として理解するのは、この総かり立て体制の内部にいるからにほかならない。
エリュルの「技術の自律性」
フランスの思想家ジャック・エリュルは、著書『技術社会』(La Technique, 1954年)において、技術が人間の目的から自律して自己増殖する存在となっていることを論じた。技術はもはや手段ではなく、それ自体が目的となる。技術は技術によって判断される——「より効率的か」「より先進的か」が唯一の評価基準となる。
この技術の自律性の下では、「なぜ技術を使うのか」という問いは意味を失う。問われるのはただ「いかに技術を使うか」だけである。チーム未来の政治はエリュルが描いた通りの状況を体現している。彼らが「なぜデジタル化するのか」を問われた時、「なぜなら時代はデジタルだから」という同義反復的な答えしか返ってこない。技術が技術自身を正当化する——この円環の中に政治が捕捉されている。
帝国の末期が生む救済への欲求
シュペングラーの分析によれば、文化(Kultur)から文明(Zivilisation)への移行は、精神的・創造的な生命力が枯渇し、世界都市的・技術的・マネー的な力が支配する段階への転落を意味する。文明段階の人間は、「魂」を持たない——彼らは高い目標を掲げられない。それゆえ、技術という代替的な「超越性」にすがる。
帝国が崩壊する時、人々は絶望的な救済を求める。宗教的な救済が失われた時代において、テクノロジーは「科学的な救済」として機能する。「シンギュラリティが来れば人類の問題は解決する」「AGIが政治的問題を解決する」——これらの言説は、神学的終末論の世俗版である。チーム未来の「テクノロジーで日本を再生する」という言説も、帝国的衰退という構造的絶望の中から生まれた、同じ救済幻想の日本版である。
人間から最も遠い状態への逃走——LGBT・トランスヒューマニズム・テクノグローバリズムの接続
グノーシス的衝動——肉体からの逃走
テクノロジー信仰、LGBT的思想、トランスヒューマニズムは、表面上は無関係に見えるが、その哲学的根源を共有している。それはグノーシス主義的衝動——物質的・肉体的・特殊的な存在条件からの逃走——である。
古代のグノーシス主義は、物質世界(とりわけ肉体)を悪しき創造神の産物として拒絶し、純粋な霊的存在への超越を目指した。現代においてこの衝動は、世俗化された形で三つの方向に展開している。
- LGBT的思想における身体の脱自然化: 生物学的な性別を「自然に与えられた条件」ではなく「社会的構築物」あるいは「内なる自己と不一致のもの」として再定義することは、身体という与えられた条件に反抗し、それを自らの「選択」によって改変しようとする意志である。これは身体に与えられた民族的・文化的アイデンティティを拒否し、普遍的・選択的自己を構成しようとするグノーシス的衝動の現代版であると分析できる。
- トランスヒューマニズムにおける種の超越: トランスヒューマニズムは、人間という生物種の身体的限界——老化、死、認知能力の限界——を技術的に克服しようとする。Neuralinkによる脳と機械の融合、冷凍保存による死の回避、デジタル意識の「アップロード」——これらはすべて、「人間である」という肉体的・生物的条件からの脱出を志向する。
- テクノグローバリズムにおける民族・国家の超越: 技術によって媒介されたグローバルな空間——インターネット、仮想通貨、国境なき情報経済——は、民族・国家という「地に根ざした特殊的条件」を超越することを可能にすると標榜される。
この三者は、いずれも「与えられた特殊的条件」——肉体、生物的性別、民族、国家——からの解放を「自由」として提示する点で共通している。そしてこの「解放」の論理は、帝国崩壊期において特に強力な引力を持つ。社会的エトニーが崩壊し、共同体的紐帯が失われた時、人々は「与えられた条件からの解放」という幻想に引き寄せられる。
特殊性の消滅がグローバリズムの本質
これら三つの潮流——技術信仰、ポストヒューマン思想、グローバルな文化イデオロギー——が一つの政治的力として収束する時、それはグローバリズムの最も純粋な形態をとる。
グローバリズムとは、資本・商品・人・情報の自由な移動だけを意味するのではない。その哲学的本質は、あらゆる特殊性の消滅にある。特定の民族に属すること、特定の文化に根ざすこと、特定の身体として存在すること、特定の国家に帰属すること——これらの特殊的条件はすべて、グローバリズムの論理においては「障壁」として機能する。
チーム未来の技術信仰もまた、この特殊性の消滅の論理に組み込まれている。「データドリブン」な政策は、日本民族の文化的特殊性ではなく、グローバルな「エビデンス」の普遍性に依拠する。「イノベーション」の推進は、日本固有の産業文化や職人的知恵よりも、シリコンバレー的な「破壊的創造」を上位に置く。「デジタル化」は、対面的・共同体的な社会関係を、スクリーンを介した均一な相互作用に置き換える。
トランスヒューマニズムとチーム未来の接点
チーム未来は明示的にトランスヒューマニズムを標榜しているわけではない。しかし、その技術信仰の論理を徹底すれば、そこへ到達することは避けられない。
「AIが人間の判断より優れている」——この前提を受け入れた政治は、人間の政治的判断の権威を否定する。「生産性を人口で割ったものを最大化せよ」——この最適化命題は、人間を経済的数値として扱う。「テクノロジーで老化を克服する」——この延長線上にトランスヒューマニズムは必然的に現れる。チーム未来の「テクノロジーで日本を再生する」という言説の延長線上には、「人間をテクノロジーで再設計する」という論理が潜在している。
この点においてチーム未来は、自覚しているかどうかにかかわらず、マスクのNeuralinkプロジェクトと同じ方向を向いている。人間を肉体的・文化的・民族的な特殊的存在として尊重するのではなく、最適化されるべき「生物学的ハードウェア」として扱う——これが技術信仰の、人間学的な帰結である。
人間から最も遠い状態とは何か
ここで問わなければならない。「人間から最も遠い状態」とは何か。
それは、特殊性を持たない状態である。民族に属さず、文化的伝統を持たず、身体的・生物的条件を技術によって全面的に改変され、国家や共同体への帰属感を持たず、スクリーンを通じてグローバルなシステムに接続された「純粋な情報処理主体」——これが「人間から最も遠い状態」の完成形である。
トランスヒューマニストはこれを「進化」と呼ぶ。グローバリストはこれを「解放」と呼ぶ。チーム未来はこれを「未来」と呼ぶ。しかし第四の理論の枠組みで見れば、これは「エトニーの完全な死」であり、民族の精神的・文化的絶滅の技術的完成にほかならない。
リアリズムの観点からの分析
ハンス・モーゲンソーの古典的リアリズムの枠組みで分析すれば、チーム未来は権力の問いを技術の問いに置き換えることで、政治を非政治化しようとする政党である。
モーゲンソーは、国際政治の本質は権力をめぐる闘争であると論じた。この洞察は国内政治にも適用される。日本が直面している問題は、アメリカという圧倒的な権力との関係——軍事的従属、経済的収奪、憲法侵略——に根ざしている。この権力の問いに向き合わない政治は、問題の表面を撫でているにすぎない。
- 国家主権の問いの回避: チーム未来は、行政効率化や政策改善について語るが、日本が真に主権国家であるかという問い——偽日本国憲法下での主権の実態、在日米軍の存在、年次改革要望書への服従——には沈黙している。権力の構造を問わずして、真の政治改革はあり得ない。
- 民族自決権の欠如: テクノロジーで国を便利にすることは、民族の自決権の回復を意味しない。チーム未来が語る「国民のため」の「国民」は、民族的文化的主体として規定されておらず、消費者・納税者・サービス受益者としての「国民」にすぎない。民族的主体性なき「国民サービス」は、支配の効率化にすぎない。
- 安全保障ジレンマの無視: 在日米軍の駐留、日米安全保障条約の継続——これらの安全保障上の根本問題をチーム未来は議論の俎上に載せない。ケネス・ウォルツが論じた通り、外国に安全保障を依存する国家は真の独立国家ではない。テクノロジーはこの従属を解消しない。
- 浅さの政治的機能: チーム未来の思想的浅さは単なる能力の問題ではなく、構造的に機能している。深い問いを立てないことで、現在の権力構造を批判する言説空間が閉ざされる。「あまりにも浅い」政治は、その浅さによって現状維持に奉仕する。
「新政治」の系譜——繰り返される幻想
チーム未来的な「技術と中立性による政治刷新」の言説は、日本政治において繰り返し登場してきた。みんなの党(2009-2014年)、日本維新の会初期の「身を切る改革」、そして「チーム未来」——これらはすべて、「既存政治の打破」「しがらみのない改革」「新世代の政治」を標榜してきた。
しかしその結果はいずれも同様である。構造的な問題——対米従属、民族自決権の喪失、偽日本国憲法——には一切手をつけず、周辺的な政策改善に終始するか、あるいは既成政党に吸収されるかのいずれかであった。チーム未来が「新しい」と主張したところで、その「新しさ」が現在の権力構造への挑戦を伴わない限り、過去の「新政治」ブームと同じ轍を踏むことになるだろう。
結論
チーム未来は、ニーチェの末人が政党の形をとったものである。高い目標を持たず、民族の使命を語らず、帝国的従属に挑戦せず、ただ「より便利な社会」「より効率的な政府」を技術的手段によって実現しようとする。
その現象は日本固有のものではない。イーロン・マスクがアメリカで体現するグローバルなテクノ権力主義の日本版であり、世界規模で進行するエトニーの崩壊とエリートの自己閉塞の一表現にすぎない。社会の根が腐りゆく中で、エリートたちはデジタルのサーカスにふける——そして「何をすればよいのか」わからぬまま、技術という新宗教の祭壇に救済を求める。
ウェーバーが論じた脱魔術化の時代において、テクノロジーは宗教の代替となる。ハイデガーの総かり立て体制のもとで、民族も文化も「リソース」に還元される。エリュルが警告した技術の自律性は、政治の自律性を蝕む。そしてシュペングラーとニーチェが予見した通り、文明の末期において末人は技術の神殿を建設し、「我々は幸福を発見した」と瞬きながらつぶやく。
チーム未来の技術信仰、LGBT的思想、トランスヒューマニズム、そしてグローバリズムは、同一の哲学的衝動——特殊的・肉体的・民族的・文化的な存在条件からの逃走——の異なる表現である。それらは一つの大きな波を形成しており、その波の行き着く先は「人間から最も遠い状態」——エトニーを持たず、身体を持たず、根を持たない、純粋な情報処理主体としての「ポスト・ヒューマン」——である。
毒がない政治は、批判されない政治であり、変化を生まない政治である。日本民族の真の課題——米軍撤退、民族主義憲法の制定、人口侵略への抵抗、経済主権の回復——は、テクノロジーによって解決できる技術的問題ではなく、民族の意志と思想によってのみ解決できる政治的問題である。チーム未来が民族の意志と思想を持つ日が来るまで、それは自民党の対米従属体制を若い顔とシリコンバレーの語彙で継続する装置にすぎない。
参考文献
- 『ツァラトゥストラはこう語った』、フリードリヒ・ニーチェ著
- 『西洋の没落』、オスヴァルト・シュペングラー著
- 『政治的なものの概念』、カール・シュミット著
- 『国際政治』、ハンス・モーゲンソー著
- 『国際政治の理論』、ケネス・ウォルツ著
- 『西部邁著作集』、西部邁著(『大衆への反逆』『文明の敵・民主主義』他)
- 『技術、または時代の賭け』、西部邁著
- 『ショック・ドクトリン』、ナオミ・クライン著
- 『技術社会(La Technique)』、ジャック・エリュル著
- 『技術への問い(Die Frage nach der Technik)』、マルティン・ハイデガー著
- 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、マックス・ウェーバー著(「世界の脱魔術化」概念)
- 『第四の政治理論』、アレクサンドル・ドゥーギン著(エトニー概念)
- 『自殺論』、エミール・デュルケーム著(アノミー概念)