プロパティアニズム
プロパティアニズム
概要
プロパティアニズム(Propertarianism)とは、アメリカの思想家・テクノロジー起業家であるカート・ドゥーリトル(Curt Doolittle, 1959年 - )が構築した、法・倫理・認識論・政治経済学を統合する独自の哲学的体系である。ドゥーリトルはこの体系を「互恵性の自然法」(Natural Law of Reciprocity)と称し、すべての倫理・道徳・法の問いを所有権(property)の問題に還元することを試みている。
プロパティアニズムの中核的主張は、西洋文明が他の文明に対して競争優位を獲得した原因は、市場における真実の語り(truthful speech)の制度的強制にあった、というものである。ドゥーリトルは、この原理を「テスティモニアリズム」(Testimonialism)と名づけた認識論として体系化し、言論の自由を「自由な真実かつ互恵的な言論」に変換することを提唱している。
ドゥーリトルはUSA Natural Law Institute(旧称: The Propertarian Institute)を創設し、この思想に基づく憲法改革案「改革宣言」(Declaration of Reformation)を起草した。2020年7月4日、バージニア州リッチモンドの州議事堂広場で武装した支持者らとともにこの宣言を朗読し、「第二次アメリカ内戦の和解条件」として提示した。この行動と、運動参加者によるローマ式敬礼(ナチス式敬礼)の実施により、プロパティアリアン運動は国内テロ監視の対象となったとされる。
プロパティアニズムは、リバタリアニズムの所有権理論を急進的に拡張し、文化・言語・遺伝的利益までを「所有権」に含める点で、従来の自由至上主義とは根本的に異なる。その思想は、民族自決権の哲学的基礎づけ、法の支配の批判的再検討、そして自然法の再定義という観点から、保守ぺディアの問題意識と多くの接点を持つ。同時に、ドゥーリトルが自ら「ファシスト」「国家社会主義」を名乗る点や、反ユダヤ主義的な文明批判を展開する点において、重大な問題を孕んでいる。
カート・ドゥーリトルの経歴
出生と教育
カート・ドゥーリトルは1959年、コネチカット州ブリストルに生まれた。2歳からニューヨーク州カナンデイグアの農村地帯で育ち、1976年にコネチカットに戻り、カトリック系の私立男子校セント・フランシス・ザビエルを卒業した。
ハートフォード大学では工学を1年、法学予科・政治学を1年、その後美術・美術史を4年間学び学士号を取得した。セントラルコネチカット州立大学で計算機科学の修士号を取得している(1987-1988年)。
テクノロジー起業家として
ドゥーリトルはシアトルを拠点に、約12社のテクノロジー企業の創業・経営に携わった。その中でも最も成功したのが、2001年にワシントン州ベルビューで共同設立したアセンティウム・コーポレーション(Ascentium Corporation)である。同社はシスコ、デル、マイクロソフトをクライアントに持つインタラクティブ・マーケティング・エージェンシーであり、フォレスター・リサーチの顧客満足度調査で最高評価を獲得した。2010年にCRM事業をアクセンチュアに売却し、2012年には「スミス」(Smith)に社名変更して300人以上の従業員を擁する企業となった。
ドゥーリトルは10年以上にわたり、ミーゼス研究所およびハンス=ヘルマン・ホッペが主宰する所有権と自由の会(Property and Freedom Society)の会員として、リバタリアニズムの知的運動に参画していた。
ウクライナ移住とプロパティアリアン研究所の設立
2012年、ドゥーリトルは事業を売却し、キーウ(キエフ)に移住した。執筆活動と製品開発を並行しながら、2012年9月にプロパティアリアン研究所(The Propertarian Institute)をキーウに設立した。ドゥーリトルは自ら「ウクライナ国民の闘争を最前列で観察する立場にあった」と述べている。ユーロマイダン革命(2013-2014年)とロシアによるクリミア併合(2014年)という激動の時代をウクライナで過ごした経験は、ドゥーリトルの民族自決権と文明衝突に関する思考に影響を与えたと考えられる。
ボストン、シアトル、オタワ、ロンドン、モスクワ、キーウ、リヴィウに居住した経験を持ち、2017年頃にアメリカに帰国した。現在はシアトル近郊に在住し、テクノロジー企業の経営とUSA Natural Law Institute(プロパティアリアン研究所を改称)の運営を並行している。
USA Natural Law Instituteの概要
USA Natural Law Institute(旧プロパティアリアン研究所)は、「人間の認知、人間の行動、人間の協力、および憲法・立法・社会経済政策の開発に関する研究を行う独立の学術機関」を自称するシンクタンクである。
その使命として以下を掲げている。
- 学術書の出版: 主著『自然の法』(The Law of Nature)の刊行(2020年代初頭時点で未完)
- 教育映像の制作
- 季刊誌の発行
- 自然法を通じた西洋文明に関する会議の開催
- 制度改革運動の組織化: 学術界、法律、銀行業、政府、宗教の「改革」を目指す
- 憲法・立法・社会経済政策の策定
フェロー(研究員)には、起業家のブランドン・ヘイズ(創設フェロー)、医師のブラッドリー・ウェレル博士(編集担当)、元米海兵隊員のルーク・ワインハーゲン(応用科学フェロー)などが名を連ねている。
プロパティアニズムの思想体系
基本原理:所有権への全還元
プロパティアニズムの根本的な方法論は、すべての倫理・道徳・法・政治の問いを所有権の問いに還元することである。ドゥーリトルは問う。「何が西洋を他の文明から際立たせたのか?」。その答えは、市場における真実の語りの制度的強制にあった、というものである。
この方法論的還元は、マレー・ロスバードやハンス=ヘルマン・ホッペの所有権に基づく社会科学の還元を継承しつつも、ドゥーリトルはロスバードの無政府資本主義を「実現不可能」として退け、ミーゼスのプラクセオロジー(人間行為学)を「疑似科学」として批判する。プロパティアニズムは、リバタリアニズムの個人主義的所有権理論を共同体的・文明的次元にまで拡張する点で、既存のリバタリアニズムとは根本的に異なる。
テスティモニアリズム(証言主義的認識論)
ドゥーリトルの認識論はテスティモニアリズム(Testimonialism)と呼ばれ、プロパティアニズムの知的基盤を成している。
テスティモニアリズムは、話者がすべての言明を証言(testimony)——すなわち、個人的・直接的な知識に基づき、仮定・偏向・誤謬・欺瞞を排除した発話——に限定することを要求する。これは、財・サービスの市場において要求される注意義務の保証(warranty of due diligence)を、情報の市場にまで拡張するものである。つまり、商品に品質保証が求められるように、公共の言論にも真実性の保証が求められるべきだ、というのがドゥーリトルの主張である。
テスティモニアリズムは以下の検証基準(「方法論的批判」と呼ばれる)を用いる。
- 同一性(Identity): 対象は何であるか
- 内的整合性(Internal Consistency): 論理的矛盾はないか
- 外的対応(External Correspondence): 経験的事実と一致するか
- 実存的可能性(Existential Possibility / Operationalism): 操作的に実現可能か
- 完全計上(Full Accounting): 選択バイアスによる省略はないか
- 節約(Parsimony): 最も単純な説明か
- 自発的移転(Voluntary Transfer): 強制ではなく合意に基づくか
ドゥーリトルはこれを「カール・ポパーの批判的合理主義の完成」と位置づけ、ポパーの反証可能性を道徳的・法的領域にまで拡張したものだと主張している。
この認識論は、ドゥーリトルの政治的プログラムと直結している。テスティモニアリズムに基づけば、「言論の自由」は「自由な真実かつ互恵的な言論」に変換され、虚偽の言論は市場詐欺と同等に扱われることになる。これは、プロパガンダ、イデオロギー的言辞、さらには特定の宗教的教義を法的に規制する根拠を提供する。
互恵性の自然法
プロパティアニズムの中核的な倫理原則は「互恵性の自然法」(Natural Law of Reciprocity)である。ドゥーリトルはこれを以下のように定式化する。
- 「汝、言葉によっても行為によっても、言葉の不在によっても行為の不在によっても、他者の証明された利益(全体的所有権)に対して費用を課してはならず、また費用の賦課を許してはならない。すべての交換は、生産的で、十分に情報が提供され、保証された、利益の自発的交換でなければならない。」
ドゥーリトルは、この原則が物理法則と同等の自然法であると主張する。すなわち、「矛盾することが不可能」であり、「あらゆる規模のあらゆる協力の文脈において完全な決定可能性を提供する」と。これはカントの定言命法の所有権的再定式化と見ることもできるが、カントの形式主義とは異なり、ドゥーリトルは具体的な所有権侵害の有無によって道徳的判断を下す。
全体的所有権(Property-in-Toto)
プロパティアニズムの最も独創的な概念の一つが全体的所有権(Property-in-Toto)である。これは、人間が証明的に価値を認め、暴力をもって防衛する意思を示すものすべてを「所有権」として定義する。
全体的所有権には以下が含まれる。
- 物理的所有権: 身体、土地、財産、動産
- 行動的所有権: 自由な行動、契約、交換
- 社会的所有権: 配偶者、家族関係、社会的地位、名誉
- 規範的所有権: 社会規範、慣習、制度
- 文化的所有権: 言語、歴史、伝統、芸術
- 共同体的所有権: コミュニティ、民族的紐帯、遺伝的利益
この概念は、ロスバード的リバタリアニズムが個人の身体と財産のみを所有権として認めるのに対し、文化、民族、遺伝的利益までを所有権の対象に含める点で根本的に異なる。ドゥーリトルの論理では、人間が暴力をもって防衛しようとするものはすべて機能的に所有権と同等であり、大量移民による文化的変容や民族構成の変更は、物理的所有権の窃盗と同等の「所有権侵害」となる。
この理論は、民族自決権を所有権の言語で再定式化する試みとして読むことができる。各民族が自らの文化・言語・歴史・遺伝的利益を「所有」しているならば、それを外部から侵害する行為——帝国主義、人口侵略、憲法侵略——は「所有権の侵害」にほかならない。
万物の市場
ドゥーリトルは、すべての人間の相互作用を市場における交換として模型化する。この「万物の市場」(Markets in Everything)の枠組みは、経済市場だけでなく、社会的市場、性的市場、政治的市場、イデオロギー的市場を包含する。
- 正の市場(Positive Markets): 財・サービス・情報の生産的交換
- 負の市場(Negative Markets / 裁判所): 虚偽と非互恵性の抑圧、補償、処罰、防止
すべての人間の協力は、自発的かつ互恵的な交換として成立しなければならない。この枠組みにおいて、国家の役割は「正の市場」の促進ではなく、「負の市場」——すなわち、非互恵的行為(詐欺、暴力、プロパガンダ)を裁き、排除する裁判システム——の運営にある。
自然法の再定義:西洋の自然法伝統とドゥーリトル
自然法の系譜
自然法(Natural Law)は西洋思想の根幹を成す概念であり、その系譜はアリストテレスからトマス・アクィナス、グロティウス、ジョン・ロックに至る。伝統的な自然法は、「神の法」または「理性の法」として、人間が制定する実定法の上位に位置づけられてきた。
ドゥーリトルは、この自然法の伝統を根本的に再定義する。ドゥーリトルにとって自然法とは、神の意志でも理性の命令でもなく、人間の協力を可能にする経験的に観察可能な法則である。それは万有引力の法則と同様に、人間が「発見」するものであって「発明」するものではない。
アリストテレスへの回帰
ドゥーリトルの自然法論は、アリストテレスの自然主義と経験主義への回帰を標榜する。アリストテレスが自然を観察し、そこから政治の原理を導出したように、ドゥーリトルは人間の協力行動を観察し、そこから法の原理を「発見」すると主張する。
しかし、重要な相違がある。アリストテレスの自然法は目的論的(teleological)であり、人間には実現すべき固有の「本性」(テロス)がある。ドゥーリトルの自然法は進化論的であり、人間の協力を可能にする法則は自然選択によって形成されたものである。ドゥーリトルの枠組みでは、自然法の基礎はアリストテレスの形而上学ではなく、ダーウィンの進化生物学にある。
「西洋の例外性」という主張
ドゥーリトルの自然法論は、「西洋文明の例外性」という歴史的主張と不可分に結びついている。ドゥーリトルによれば、西洋文明が他の文明に対して競争優位を持つに至ったのは、ゲルマン・ケルトの襲撃社会(raiding society)に起源を持つ独自の社会構造にある。
自発的な戦士集団による襲撃社会では、指導者と戦士の間の信頼関係が生存の条件であった。この環境が、真実の語り(truthful speech)と互恵的な契約を文化的に最高の価値にまで引き上げた。この文化的選択圧が、やがてコモン・ロー(慣習法)、陪審制、そして証言を保証された言論とする法的伝統を生み出したとドゥーリトルは論じる。
この主張は、「ヨーロッパの民族は自然法を独自に適応・適用した」ということであり、他の文明は「停滞し、衰退し、あるいは失敗した」と断言する。この西洋文明至上主義的な歴史観は、プロパティアニズムの理論的基盤であると同時に、この思想の最も論争的な側面の一つである。
ホッブズとの対比:自然法から自然権へ、そして再び自然法へ
自然法の思想史において、ホッブズは重要な転換点に位置する。ホッブズは、伝統的な自然法(人間が従うべき理性の法)を、自然権(自己保存のためにあらゆる手段を用いる権利)の概念によって事実上置き換えた。ホッブズ以降、ロック、ルソーを経て、自然法は「自然権」「人権」へと変容し、最終的には実定法としての「憲法上の権利」に吸収された。
ドゥーリトルは、この変容を逆転させようとする。すなわち、実定法としての「権利」ではなく、経験的に発見可能な自然法に回帰すること。ただし、その自然法はトマス・アクィナスの神学的自然法でもなく、ホッブズの自然状態論でもなく、互恵性の自然法——人間の協力を可能にする経験的法則——である。
この試みは、近代以降の自然法論の中で独特の位置を占める。保守ぺディアの問題意識に引きつけて言えば、「人権」や「法の支配」がアメリカの覇権を正当化する道具として機能している現状において、「人権」の基盤である自然権論そのものを問い直す作業は、知的に重要な意味を持つ。ただし、ドゥーリトルの自然法論が「西洋文明の例外性」と不可分に結びついている点には、批判的な検討が必要である。
改革宣言とプロパティアリアン憲法
「改革宣言」の概要
2020年7月4日——アメリカ独立記念日——、ドゥーリトルはバージニア州リッチモンドの州議事堂広場において、「アメリカ合衆国の改革宣言ならびに第二次アメリカ内戦の和解条件——憲法修正条項として」(The Declaration of Reformation of the United States and The Terms of Settlement of The Second American Civil War, by Amendments to Constitution)と題する文書を朗読した。
この「改革宣言」は、プロパティアニズムの思想体系を憲法改正案として具体化したものである。ドゥーリトルは、アメリカ合衆国憲法に含まれる「建国者たちが当然視した六つの過ち」と「その後の二つの過ち」を修復すると主張した。
改革の主要内容
改革宣言は約19の主要な改革領域を包含する。その主要な内容は以下の通りである。
- テスティモニアリズムの法制化: 注意義務の保証を財・サービスの市場から情報の市場にまで拡張する。すなわち、公共の言論における虚偽・欺瞞・プロパガンダを法的に規制する
- 連邦政府の縮小: 連邦政府を「最後の手段としての保険者」に限定し、その権限を州間紛争の裁定、国防、金融・通商のみに制限する
- 州権の回復: 独立した州統治を復元し、住民が好みに応じて自発的に地域を選択する「自発的棲み分け」(voluntary sorting)を推進する
- 裁判制度の改革: 共同体の利益に関する普遍的原告適格(universal standing)の導入、敗訴者負担制度の採用、弁護士の利益相反の排除
- 教育の全面改革: 「普遍的教育の導入以来、最大の教育改革」を標榜する
- 家族法の復元: 家族制度を国家の基本単位として再構築する
- 共有財の回復: 民族的・文化的共有財(commons)の保護
「内戦の和解条件」としての枠組み
改革宣言の最も注目すべき特徴は、それが「内戦の和解条件」として枠組みされている点である。文書の序文は明示的に、「敵対行為の激化に先立つ和解条件の提示」(an offer of the terms of settlement prior to the escalation of hostilities)と述べている。
ドゥーリトルは2018年の論考において、「革命」(政府に対する権力変更)、「内戦」(支配を巡る派閥間の闘争)、「分離戦争」(独立のための闘争)を区別した上で、「我々はまず革命を追求し、革命が失敗した場合は分離を追求し、分離が失敗した場合は内戦を追求する」と段階的エスカレーションの戦略を明言している。
改革宣言の序文は、以下のエスカレーション経路を示唆している。
- 道徳的正当化(改革宣言そのものの提示)
- 制度設計(憲法修正条項の詳細)
- 移行メカニズム
- 無効化(nullification)から分離(secession)、そして潜在的武力衝突に至るエスカレーション経路
- 「政治的和解が失敗した場合に日常生活の摩擦を増大させる意思の表明」
この枠組みは、アメリカ国内における政治的分断の深刻さを映し出していると同時に、武力行使を選択肢として明示的に含む点で、法執行機関の注目を集めることとなった。
リッチモンド集会の実態
リッチモンドでの朗読イベントは、「VAナイツ」(The VA Knights)と呼ばれる修正第2条支持の市民ミリシア団体と共同で組織された。参加者の一部は武装していた。
イベント中、プロパティアリアン運動の参加者の一部がローマ式敬礼(ナチス式敬礼)を行った。この行為は広く報道・批判され、運動の信頼性に重大な打撃を与えた。また、BLMのTシャツを着用した人物がステージに上がるなどの混乱も発生し、イベントの統制力の欠如が露呈した。
ジョン・マークとYouTubeでの普及
プロパティアニズムの一般への普及に大きく貢献したのが、「ジョン・マーク」(John Mark)というYouTuberである。本名は不明。「Mark My Words」というチャンネルを運営し、2018-2019年にかけて「アメリカの右派はいかに勝利するか」をテーマにプロパティアニズムを平易な言葉で紹介した。
ジョン・マークの動画は、「平和的分離」と「左派に対する免疫を持つ統治」を訴え、プロパティアニズムへの関心を急速に高めた。しかしリッチモンドでの事件後、ジョン・マークはすべてのソーシャルメディアを削除し、公の場から完全に姿を消した。
FBI監視と国内テロ問題
監視の背景
プロパティアリアン運動がFBIの監視対象となったかどうかについて、公式に確認された捜査記録や司法省文書は公開されていない。しかし、複数の間接的証拠がこの運動に対する法執行機関の関心を示唆している。
デイヴィッド・フラー(David Fuller)は、知的議論プラットフォーム「Rebel Wisdom」の創設者であり、プロパティアリアン運動の浸透について詳細な分析を公表した人物である。フラーは2021年の論考において、主要なプロパティアリアン関係者がFacebookから排除された後、「彼らが国内テロ監視リストに載っていることは確実である」と断言している。
監視対象と目される理由
プロパティアリアン運動がFBIを含む法執行機関の関心を引く理由は、以下の複数の要因が重なったことにある。
- 武装集会の組織: 2020年7月4日のリッチモンド集会は武装参加者を含み、ミリシア団体と共同で組織された
- 内戦シナリオの明示的議論: ドゥーリトル自身が「内戦の過程と遂行」と題した講義を行い、武力行使を選択肢として明示した
- 「内戦の和解条件」という枠組み: 改革宣言が「第二次アメリカ内戦」を前提とした文書として提示された
- ナチス式敬礼の実施: リッチモンド集会での参加者によるローマ式敬礼は、白人至上主義運動との関連を示唆するものとして受け止められた
- ドゥーリトル自身の自己規定: 「それは国家社会主義そのものだが、あの馬鹿げた髭がないだけだ」「反対に対するゼロ・トレランスという意味で、私は間違いなくファシストだ」というドゥーリトル自身の発言
- Facebookからの一斉排除: プラットフォーム企業が主要なプロパティアリアン関係者のアカウントを削除した
NYUキンメル・センター事件(2017年)
2017年10月、プロパティアリアン研究所はニューヨーク大学(NYU)のキンメル・センターで「西洋文明: フランクフルト学派とポストモダン学派を迂回する」と題するイベントを開催した。パネリストには以下の人物が含まれていた。
- ケヴィン・マクドナルド(Kevin MacDonald): 『文化の批判』(The Culture of Critique)の著者。反ユダヤ主義的な「集団進化戦略」論で広く知られる
- リカルド・デュシェーヌ(Ricardo Duchesne): カナダの白人の「民族的構成」の保全を主張する欧州カナダ人評議会の寄稿者
- トミスラヴ・スニッチ(Tom Sunic): 白人アイデンティティ系メディア『オキシデンタル・オブザーバー』の寄稿者
- カート・ドゥーリトル
イベントの2日後、会場のキンメル・センターではアイデンティティ・エヴローパ(Identity Evropa、白人民族主義団体)のフライヤーが発見された。これはイベント出席者によって配布されたものであった。ドゥーリトルはアイデンティティ・エヴローパとの組織的な提携関係を否定したが、「プロパティアリアン研究所に関係する一部の個人がアイデンティティ・エヴローパにも関係している」ことは認めた。
このイベントは、「シアトル・コマーシャル・フィットネス」(Seattle Commercial Fitness)という名義で会場を予約しており、NYUの学生新聞はこの団体の存在を確認できなかったと報じている。NYUはこの事件を受けて会場予約ポリシーを変更した。
「連邦捜査機関の潜入工作」という陰謀論
興味深いことに、極右コミュニティの内部からも、プロパティアリアン運動に対する懐疑が生じた。RamzPaul(極右系YouTuber)のコミュニティは、「プロパティアニズム——連邦潜入工作の肖像」(Propertarianism -- Portrait of a Federal Infiltration Operation)と題する動画・分析を制作し、ドゥーリトルが連邦捜査機関のエージェントまたは情報提供者である可能性を主張した。
この主張には実証的な根拠が提示されておらず、「推測の域を出ない」とされている。しかし、極右運動の内部でさえプロパティアリアン運動が警戒の対象となっていた事実は、この運動の孤立的な性格を示すものである。
2021年1月6日との関連
2021年1月6日のアメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件とプロパティアリアン運動を直接的に結びつける証拠は、現時点では確認されていない。しかし、ドゥーリトルが2018年以降一貫して内戦シナリオを議論し、武装集会を組織していたことを踏まえれば、1月6日に至るアメリカの政治的過激化の文脈の中にプロパティアリアン運動を位置づけることは適切である。
運動の衰退
2020年のリッチモンド集会以降、プロパティアリアン運動は急速に衰退した。ナチス式敬礼の事件、Facebookからの排除、内部の対立が重なり、運動は「文化的な力としてほぼ消滅した」と評されている。ジョン・マークの失踪も、運動の普及力を大きく損なった。
ドゥーリトルはその後も執筆活動を続けており、Substackでの発信や、「ランシブル」(Runcible)と名づけた「真実制約型知能層」(truth-constrained intelligence layer)というAIプロジェクトの開発を行っている。しかし、2018-2020年の最盛期と比較すれば、運動の影響力は大幅に縮小している。
アブラハム宗教批判と文明論
三段階文明破壊モデル
ドゥーリトルの文明論の中で最も論争的かつ体系的な部分が、アブラハム宗教批判である。ドゥーリトルはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三つのアブラハム宗教を「文明破壊の統一的システム」として分析する。
ドゥーリトルの三段階モデルは以下の通りである。
- 第一段階: ユダヤ教——「掘り崩し」(Undermining): 小規模な外部集団が、批判と嘲笑によって主要集団の制度・規範・自信を掘り崩す。ドゥーリトルはこれを「ピルプル」——真実の一要素を用いて偽の二項対立を作り出し、示唆によって問いの枠組みを設定する修辞技法——と結びつける
- 第二段階: キリスト教——「服従させる」(Submitting): 掘り崩された集団を「偽りの約束」を通じて服従に導く。ドゥーリトルの解釈では、キリスト教の「隣人愛」「許し」「来世の報い」は、自然法に基づく互恵性の原則を解体し、支配を受容させるための心理的操作である
- 第三段階: イスラム教——「征服する」(Conquering): 襲撃、移住、改宗、人口置換による物理的征服を実行する
ドゥーリトルはこの三段階モデルをさらに拡張し、以下の系譜を主張する。「ユダヤ教 → キリスト教 → イスラム教 → マルクス主義 → ポストモダニズム → ウォーキズム(Wokeism)」。すなわち、近代以降の左翼思想はアブラハム宗教の世俗化された変種であり、同じ「文明破壊」の機能を果たしている、というのがドゥーリトルの主張である。
ケヴィン・マクドナルドの「集団進化戦略」との関係
ドゥーリトルのアブラハム宗教批判——特にユダヤ教に関する分析——は、ケヴィン・マクドナルドの「集団進化戦略」(group evolutionary strategy)の概念に依拠している。マクドナルドの『文化の批判』(The Culture of Critique, 1998年)は、ユダヤ人の知的運動を進化的な「集団戦略」として分析した著作であり、反ユダヤ主義の学術的正当化として広く批判されている。
ドゥーリトル自身は、自らの分析を「反ユダヤ主義」ではなく「反アブラハミズム」(anti-Abrahamism)——すなわち、特定の民族ではなく「集団進化戦略」の操作的批判——であると主張している。しかし、外部の観察者からは、この主張は事実上の反ユダヤ主義を学術的用語で覆い隠しているにすぎないと見なされている。
英語版ウィキペディアのPropertarianismの項目のノートページでは、編集者が以下のように指摘している。「反ユダヤ主義の内容を省略してプロパティアニズムの記事を書くことは、ヒトラーの経済政策にのみ焦点を当ててナチズムの記事を書くことに等しい」。
「ギリシア宗教」への回帰
アブラハム宗教の「代替」としてドゥーリトルが提唱するのは、「ギリシアの英雄主義・ストイシズム・神話・祖先・自然・民族の宗教」への回帰である。これはニーチェの「主人道徳」対「奴隷道徳」の図式を宗教史に適用したものであり、アブラハム宗教を「奴隷道徳」の制度化、古代ギリシア・ローマの伝統を「貴族道徳」の体現として対置する。
保守ぺディアの立場からの評価
ドゥーリトルのアブラハム宗教批判は、保守ぺディアの視点からは、いくつかの点で検討に値する要素と、いくつかの点で重大な問題を含んでいる。
検討に値する点として、ドゥーリトルが「普遍主義的イデオロギー」の機能を批判的に分析している点がある。保守ぺディアが批判する法の支配、「民主主義」、「人権」といった概念は、いずれも普遍主義的な構造を持ち、それが覇権国の支配を正当化する道具として機能している。ドゥーリトルがアブラハム宗教からマルクス主義、ポストモダニズムに至る「普遍主義の系譜」を批判する試みは、この問題意識と部分的に重なる。
しかし、重大な問題も存在する。第一に、ドゥーリトルの三段階モデルは、特定の民族を「集団進化戦略」の担い手として本質化しており、これは帝国主義の論理——「文明化の使命」の名のもとに特定の民族を劣位に位置づける論理——と構造的に同一である。保守ぺディアが帝国主義を批判する以上、いかなる民族の本質化にも反対しなければならない。
第二に、ドゥーリトルが「西洋文明の例外性」を前提としている点は、各文明の独自性と共存を主張する第四の理論の多文明主義とは根本的に矛盾する。ドゥーリトルの思想は、「西洋文明の自然法のみが正しい」という一元論であり、ドゥーギンが批判する「リベラリズムの覇権的普遍主義」の変種にすぎない。形態は反リベラルであっても、構造は覇権的一元論なのである。
リアリズムの観点からの分析
プロパティアニズムとリアリズムの交差
プロパティアニズムは、リアリズムの国際政治学といくつかの重要な点で交差しつつも、根本的な相違を有する。
交差する点の第一は、人間の本性に関する悲観的認識である。ホッブズが「万人の万人に対する闘争」を人間の自然状態として描いたように、ドゥーリトルもまた、人間が互恵性を強制する制度なくしては協力を維持できないと論じる。ドゥーリトルの「互恵性の自然法」は、ホッブズの「社会契約」の所有権的再定式化と見ることができる。
第二の交差点は、国際社会の無政府性の認識である。ケネス・ウォルツが国際体系の構造的特徴として「無政府性」(anarchy)を挙げたように、ドゥーリトルもまた国際関係を主権国家間の「市場」として捉え、超国家的権威の正統性を認めない。この点で、プロパティアニズムは国連や国際人権法といった「リベラルな国際制度」に対するリアリスト的な懐疑を共有している。
第三の交差点は、「法の支配」の批判的分析である。ハンス・モーゲンソーが国際法を「権力政治を隠蔽する修辞」として分析したように、ドゥーリトルも法の支配がアメリカ覇権の道具として機能する側面を認識している。ただし、ドゥーリトルの批判は「法の支配そのものが虚偽である」というものではなく、「現在の法の支配は真の自然法に基づいていない」というものであり、方向性が異なる。
リアリズムとの根本的相違
しかし、プロパティアニズムとリアリズムの間には根本的な相違も存在する。
第一の相違は、普遍的法則の可能性に関する立場である。リアリズムは、国際関係を規律する普遍的な道徳法則の存在に懐疑的である。モーゲンソーは「政治的リアリズムの六原則」において、普遍的道徳原則と具体的な政治的行動を直結させることの危険性を警告した。これに対し、ドゥーリトルは「互恵性の自然法」という普遍的法則の存在を主張する。この点で、プロパティアニズムはリアリズムよりもむしろ自然法論に近い。
第二の相違は、文明の多元性に関する認識である。ハンティントンの『文明の衝突』(1996年)は、複数の文明が固有の価値体系を持ち、文明間の衝突は不可避であると論じた。ドゥーギンの第四の理論は、各文明の独自性と共存を積極的に肯定する。これに対し、ドゥーリトルは「西洋文明の自然法のみが普遍的に正しい」と主張する。これは、リアリズムが前提とする文明の多元性を否定するものである。
第三の相違は、権力と法の関係に関する認識である。リアリズムにとって、法は権力の産物であり、権力なくして法の実効性はない。ドゥーリトルにとって、自然法は権力に先行して存在する経験的法則であり、権力はこの法則に従属すべきものである。この「法の権力に対する優位」という主張は、本質的には自然法論の伝統に属するものであり、リアリズムとは対立する。
カール・シュミットとの対比
プロパティアニズムは、カール・シュミットの政治神学とも興味深い対比を成す。
シュミットは、政治の本質を「友と敵の区別」に見出した。この区別は法に先行するものであり、法はつねに具体的な政治的状況から生じる。シュミットにとって、「法の支配」という普遍主義的な概念は、政治的決断を回避するリベラリズムの幻想にすぎない。
ドゥーリトルの思想は、一方ではシュミットと共通する反リベラリズムを有しつつ、他方ではシュミットとは正反対の結論に至る。ドゥーリトルは、普遍的な自然法(互恵性の法則)によってすべての政治的問題を法的に解決可能であると主張する。シュミットの「決断主義」(Dezisionismus)が法の外部に政治的決断の領域を認めるのに対し、ドゥーリトルは法の外部を認めない。この意味で、ドゥーリトルは反リベラルでありながら、法実証主義的な構造を持つという逆説的な立場にある。
シュミットの問題意識に引きつけて言えば、ドゥーリトルの「互恵性の自然法」もまた、誰が敵を決定するのかという問いに最終的には答えざるを得ない。テスティモニアリズムの基準に照らして「虚偽」と判定される言論は規制されるが、その判定を行う主体は政治的権力を持つ。自然法の「発見」と称しているものが、実は政治的「決断」ではないのか。この問いは、プロパティアニズムの理論的整合性を根本から問うものである。
日本への示唆
「全体的所有権」と民族自決権の再定式化
プロパティアニズムの中で日本にとって最も示唆に富む概念は、全体的所有権(Property-in-Toto)である。
この概念は、物理的財産だけでなく、文化・言語・歴史・遺伝的利益を「所有権」として定義する。もしこの論理を受け入れるならば、低賃金移民政策による日本語・日本文化の希薄化、人口侵略による民族構成の変容、憲法侵略による法的枠組みの外部支配は、すべて日本民族の所有権侵害として再定式化される。
民族自決権を「所有権」の言語で語ることには、戦術的な利点がある。「民族自決権」は国際法上の概念であるが、その適用は政治的に恣意的である(パレスチナには認められず、コソヴォには認められる)。しかし「所有権」は、リベラリズムの枠組み内でも最も基本的な権利として承認されている。リベラルな国際秩序が最も重視する「所有権」の概念を用いて、その秩序自体が民族の所有権を侵害していることを論証する——これは、覇権国の論理をその内部から突き崩す戦略的な議論として機能し得る。
ただし、ドゥーリトル自身の枠組みがこの目的に適合するかどうかは別問題である。ドゥーリトルの「全体的所有権」は「西洋文明の例外性」と結びついており、非西洋文明の「全体的所有権」を同等に保護する論理を内在していない。
テスティモニアリズムと情報戦
ドゥーリトルのテスティモニアリズム——公共の言論における真実性の保証の要求——は、現代の情報戦を分析する上で一つの視角を提供する。
保守ぺディアが批判するメディアのバイアス、アメリカ左翼の歪んだ日本観、歴史問題に関する誇張されたプロパガンダ——これらはすべて、ドゥーリトルの枠組みでは「情報市場における注意義務の保証の欠如」として分析される。商品に品質保証が求められるように、公共の言論にも真実性の保証が求められるべきだ、という主張は、プロパガンダが横行する現代の情報環境において検討に値する。
しかし、テスティモニアリズムには根本的な問題がある。誰が「真実」を判定するのか。ドゥーリトルは「テスティモニアリズムの検証基準」によって客観的に判定可能であると主張するが、政治的言論における「真実」と「虚偽」の境界は、多くの場合、権力関係によって決定される。テスティモニアリズムを法制化すれば、判定権を持つ者が事実上の検閲者となる。アメリカが「法の支配」を通じて他国を支配しているように、「真実の語り」の制度化もまた、判定権を持つ者による支配の道具となり得る。
改革宣言と日本の憲法問題
ドゥーリトルの改革宣言——アメリカ合衆国憲法の根本的改変を提案する文書——は、日本の憲法問題との興味深い対比を提供する。
ドゥーリトルが批判する「建国者たちの過ち」には、連邦政府への権力集中、裁判制度の欠陥、教育制度の問題などが含まれる。注目すべきは、ドゥーリトルがアメリカ憲法を内部から批判している点である。アメリカ憲法は外部の力によって押し付けられたものではなく、アメリカ人自身が制定したものであるにもかかわらず、ドゥーリトルはその根本的な改変を主張する。
これは、偽日本国憲法の問題を逆照射する。日本の憲法は外部の力(アメリカ占領軍)によって押し付けられたものであり、その正統性は日本人自身が制定したアメリカ憲法以上に疑わしい。アメリカ人自身でさえ自らの憲法の根本的欠陥を認識し、改革を主張しているにもかかわらず、日本人がアメリカ人の手になる憲法を「平和憲法」として崇拝し続けることの不合理さは、ドゥーリトルの改革宣言によって一層鮮明になる。
なぜプロパティアニズムは日本にそのまま適用できないか
プロパティアニズムの個別の概念には示唆に富むものがある。しかし、プロパティアニズムの体系全体を日本にそのまま適用することは不可能であり、また望ましくもない。その理由は以下の通りである。
第一に、プロパティアニズムは西洋文明内部の改革運動である。ドゥーリトルの問題意識は、ゲルマン・ケルトの襲撃社会に起源を持つ「西洋の自然法」の回復にある。この枠組みに日本は含まれていない。日本文明には、日本固有の法的・倫理的・政治的伝統があり、それは西洋の自然法とは異なる原理に基づいている。
第二に、ドゥーリトルの思想はアメリカの内戦・分裂シナリオと不可分に結びついている。改革宣言が「第二次アメリカ内戦の和解条件」として提示されたことが示す通り、この思想はアメリカの政治的分断という特殊な状況に対する応答である。日本の問題——アメリカ帝国からの独立——はこれとは質的に異なる。
第三に、ドゥーリトル自身がファシズムと国家社会主義を自称している点は、日本の反米保守運動にとって有害である。保守ぺディアの基本思想は民族自決権の擁護と反帝国主義であり、ファシズムや国家社会主義はいずれも帝国主義を内包する。また、ファシズムとの連帯は、反米保守運動の国際的な信頼性を根本的に損なう。
批判と評価
リバタリアン哲学からの批判
リバタリアニズム陣営からは、プロパティアニズムに対する複数の体系的批判が提出されている。
ホグアイ・ビル(Hogeye Bill)は、オザーキア・ネットにおいて「ドゥーリトルの互恵主義」と題する詳細な批判を発表した。その要点は、「全体的所有権」が所有権の概念を極端に拡張した結果、「クリタルキー(判事支配)による専制が許容されるどころか、事実上保証される」というものである。人間が「証明的に」防衛しようとするものをすべて「所有権」と定義すれば、所有権の概念は「集産主義的で主観的な反概念」と化し、リバタリアニズムが本来守ろうとした個人の自由を破壊するというのがビルの批判である。
J.C.レスターは『MEST Journal』において「リバタリアン哲学 対 プロパティアリアン教条」を発表し、絶対主義的なプロパティアニズムが自由との哲学的関係を説明することなく「リバタリアニズム」を自称していると批判した。
オルタナ右翼との関係をめぐる批判
プロパティアリアン研究所がオルタナ右翼の人物と組織的関係を持っていたことは、思想そのものの評価とは別に、運動の性格に対する重大な疑義を提起する。
NYUキンメル・センター事件において、ケヴィン・マクドナルドやアイデンティティ・エヴローパの関係者とプロパティアリアン研究所が同一のイベントに参加していた事実は、プロパティアニズムが学術的な思想体系であるという自己規定と、その実態としてのオルタナ右翼運動の結節点としての機能との間の乖離を示している。
ドゥーリトルの著作がヨーロッパ新右翼系の出版社アルクトス(Arktos)から刊行されていることも、この問題を裏づけるものである。
学術的評価の不在
プロパティアニズムに対する主流の学術的評価は、事実上存在しない。ドゥーリトルは査読付き学術論文を一本も発表しておらず、哲学データベースPhilPeopleにプロフィールは存在するが、学術出版の記録はない。
ドゥーリトル自身も、書籍を出版するよりも「ウェブサイト上での意識の流れ的な執筆」を選好していることを認めている。批判者はこの点を指摘し、プロパティアニズムの主張を体系的に評価することが極めて困難であると述べている。主著『自然の法』(The Law of Nature)は2020年代初頭時点で未完のままである。
「プロパティアニズム」という用語自体は、ロバート・ノージックやロスバードの文脈で学術的に使用されるが、ドゥーリトルの固有の体系については、主流の政治学・哲学において実質的な学術的対話は成立していない。
ドゥーリトル自身による自己評価
ドゥーリトルは自らの仕事を「科学的方法の完成」「西洋文明の知的遺産の総合」として位置づけ、アリストテレス以来の哲学的達成であると主張している。同時に、自らが「宗教右派とハードライト右派からのハラスメントの標的となっている論争的人物」であることも認めている。
この自己評価と、学術的評価の完全な不在との落差は、プロパティアニズムの位置づけを象徴的に示すものである。
結論
プロパティアニズムは、西洋思想の伝統——アリストテレスの自然主義、ホッブズの社会契約論、リバタリアニズムの所有権理論——を急進的に再構成し、「互恵性の自然法」という体系を提示した独自の思想的試みである。その中核概念である「全体的所有権」は、民族自決権を所有権の言語で再定式化する可能性を示し、「テスティモニアリズム」は、プロパガンダが支配する情報環境に対する一つの理論的応答を提供している。
しかし、この思想は重大な問題を孕んでいる。「西洋文明の例外性」を前提とする文明論は多文明主義と矛盾し、アブラハム宗教批判は反ユダヤ主義と不可分であり、ドゥーリトル自身によるファシズム・国家社会主義の肯定は、この思想の政治的活用の余地を決定的に狭めている。学術的評価の完全な不在と、運動の急速な衰退は、プロパティアニズムが「完成された科学」であるというドゥーリトルの自己評価を裏づけるものではない。
法の支配の再解釈と革命的前衛理論
プロパティアニズムの思想史的意義は、個々の主張の当否とは別の次元にある。それは、法の支配という概念そのものを根本から再解釈し、既存の法秩序に対する革命のための前衛理論を構築する試みが、21世紀のアメリカにおいて現実に存在するという事実である。
ドゥーリトルは、現行の法の支配を「真の自然法に基づいていない」として否定し、互恵性の自然法に基づく新たな法秩序を提唱する。この論理構造は、マルクスがブルジョワ法を「階級支配の道具」として否定し、プロレタリアート独裁に基づく新たな法秩序を提唱したのと、形式的には同型である。すなわち、既存の法秩序を「偽りの法」として解体し、自らが「真の法」と信じるものに置き換えるという革命的企図を持つ。
保守ぺディアは、プロパティアニズムの主張にまったく賛成しない。 西洋文明至上主義、ファシズムの肯定、反ユダヤ主義はいずれも、保守ぺディアの基本思想である民族自決権の擁護、反帝国主義、多文明主義と根本的に矛盾する。しかし、法の支配を再解釈し、革命のための前衛理論を構築する動きがアメリカの内部から生じていること自体は、アメリカの覇権秩序の内部矛盾を示すものとして注目に値する。アメリカが全世界に押し付けてきた「法の支配」「民主主義」「人権」という普遍主義的秩序に対し、アメリカ国内から、まったく異なる原理に基づく法秩序の構築が試みられている。この事実は、保守ぺディアが一貫して指摘してきたアメリカ覇権の構造的不安定性を裏づけるものである。
保守ぺディアの立場からは、プロパティアニズムの個別の概念——全体的所有権、テスティモニアリズム、自然法の再定義——を批判的に検討し、そこから有用な知的資源を選択的に抽出することは可能である。しかし、プロパティアニズムの体系全体を受容することはできない。日本には日本固有の文明的伝統があり、それに基づいた政治哲学を構築しなければならない。
参考文献
- Curt Doolittle, The Declaration of Reformation of the United States(2020年7月4日、リッチモンドにて朗読)
- Curt Doolittle, Natural Law Institute ウェブサイト所収の論考群
- ケヴィン・マクドナルド『The Culture of Critique』(1998年)
- ハンス=ヘルマン・ホッペ『Democracy: The God That Failed』(2001年)
- ロバート・ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』(1974年)
- マレー・ロスバード『The Ethics of Liberty』(1982年)
- カール・ポパー『開かれた社会とその敵』(1945年)
- フリードリヒ・ニーチェ『道徳の系譜学』(1887年)
- アリストテレス『政治学』
- ハンス・モーゲンソー『国際政治:権力と平和』
- ケネス・ウォルツ『国際政治の理論』
- カール・シュミット『政治的なものの概念』
- サミュエル・ハンティントン『文明の衝突』(1996年)
- アレクサンドル・ドゥーギン『第四の政治理論』
- David Fuller, "Sensemaking & Gatekeeping: Talking with Fascists"(Rebel Wisdom / Medium, 2021年)
- Hogeye Bill, "Doolittle's Reciprocism"(Ozarkia.net)
- J.C. Lester, "Libertarian Philosophy versus Propertarian Dogma"(MEST Journal)
- Washington Square News(NYU学生新聞), "White Supremacist Event in Kimmel Confirmed"(2017年10月23日)