人口ゼロの資本論
「人口ゼロ」の資本論(じんこうゼロのしほんろん)は、慶應義塾大学名誉教授の大西広(おおにしひろし、1956年生)が2023年に講談社+α新書から刊行した著作である。正式タイトルは『「人口ゼロ」の資本論 — 持続不可能になった資本主義』。資本主義が続く限り、人口はゼロになるという数理モデルを提示し、少子化の根本原因をマルクス経済学の搾取理論から解明した。
保守ぺディアのスマートシュリンク・新脱成長とは、「資本主義が人口減少下で機能しない」という認識を共有する。しかし、大西が階級闘争と社会主義への移行を解決策とするのに対し、保守ぺディアは民族共同体の存続を目的とし、全分野・全階層の均等縮小を方法論として提示する点で根本的に異なる。
著者: 大西広
大西広は1956年生まれ、京都大学経済学博士である。京都大学大学院経済学研究科教授を歴任し、2012年より慶應義塾大学経済学部教授に着任した。2022年に定年退職し、慶應義塾大学名誉教授となった。世界政治経済学会副会長を務める。専門はマルクス経済学、近代経済学、統計学である。
大西の学問的立場は一貫してマルクス経済学であり、搾取論と労働価値説を基礎に現代資本主義を分析する。本書は、その理論的枠組みを人口問題に適用した著作である。
本書の核心的主張
本書の核心は、少子化は個人の選択ではなく、資本主義の構造的帰結であるという命題にある。
人口問題は貧困問題である
大西は、日本の少子化が「若者が結婚・出産を望まない」という個人の選好の問題ではなく、労働者が経済的に子どもを持てない状況に置かれていることの結果であると論じる。非正規雇用の拡大、実質賃金の停滞、住宅費の高騰、教育費の負担は、いずれも資本主義的蓄積の過程で生じた構造的現象である。
マルクスは『資本論』において、資本の有機的構成の高度化(機械化・自動化の進展)が「相対的過剰人口」(産業予備軍)を生み出すメカニズムを分析した。産業予備軍の存在は現役労働者の賃金を圧迫し、労働力の再生産に必要なコストを削減する方向に作用する。大西はこの枠組みを現代の少子化問題に直接適用し、資本主義は労働力の再生産費(すなわち、次世代の労働者を育成するためのコスト)まで搾取の対象としていると結論づけた。
搾取と再生産の矛盾
マルクス経済学において、労働力の価値とは、労働者自身とその家族の「生命の再生産」に必要な生活手段の価値である。労働者が子どもを産み育て、次世代の労働力を社会に供給することは、資本主義の存続にとって不可欠な条件である。
しかし、資本は利潤の極大化を追求する過程で、労働力の価値を可能な限り引き下げようとする。非正規雇用への置き換え、賃金の抑制、社会保障の削減は、いずれも労働力の再生産費を圧縮するための手段である。大西は、この圧縮が限界を超えたとき、労働者は「生命の再生産」すなわち出産・育児を断念せざるを得なくなると論じる。
資本主義は、自らの存続条件である労働力の再生産を、自らの利潤追求によって破壊している。これが大西の中心的テーゼである。
出生率2.07の壁
合計特殊出生率が人口置換水準(約2.07)を下回り続ける限り、人口は数学的に減少し続け、最終的にはゼロに収束する。大西は、資本主義的搾取が続く限り出生率が2.07を回復することは構造的に不可能であると主張し、「資本主義が続く限り、人口はゼロになる」という結論を導いた。
これは単なる比喩ではなく、数理モデルに基づく帰結である。出生率1.2の社会では、100人の人口は1世代(約30年)後に58人、2世代後に34人、3世代後に20人、5世代後にわずか7人にまで減少する。出生率が回復しない限り、この過程は不可逆的に進行する。
本書の構成と論点
本書は3部10章で構成される。
第1部「人口問題は貧困問題」
日本の人口が2080年に約7400万人に縮小するという推計を出発点に、厚生労働省の人口動態統計と所得データを用いて、所得水準と出生率の相関を実証する。非正規雇用率の上昇と出生率の低下が連動していること、住宅費と教育費の負担が子どもの数を直接的に制約していることを統計的に示す。
第2部「マルクス経済学の人口論」
マルクスの搾取理論を人口動態に適用する。エンゲルスの『住宅問題』を引き合いに出し、貧困の存在を前提とした「社会政策」(児童手当の増額、保育園の拡充など)では少子化を根本的に解決できないと主張する。搾取の廃止による貧困そのものの撲滅でなければ、抜本的解決にならないとする。
また、ジェンダー差別が生命の再生産を阻害していることを論じる。女性が育児と労働の二重負担を強いられる構造は、資本主義が再生産コストを社会ではなく個人(特に女性)に転嫁していることの表れである。
第3部「人口問題は資本主義の超克を要求する」
教育の無償化、企業行動への国家の強制介入、「社会化された社会」と「平等社会」への移行を提唱する。大西にとって、少子化の根本的解決は資本主義の超克、すなわち社会主義への移行を要求するものである。
資本主義が人口をゼロにする四つの経路
大西の議論を含め、資本主義が人口減少を引き起こすメカニズムは、複数の理論的経路から説明されている。
搾取経路(大西広)
資本の利潤追求 → 労働力の再生産費の圧縮 → 非正規雇用の拡大・実質賃金の停滞 → 出産・育児の断念 → 出生率の低下 → 人口減少
大西はこれを「人口問題は貧困問題である」と要約する。搾取が続く限り出生率は回復せず、人口はゼロに向かう。
有効需要経路(ケインズ)
ケインズは1937年の講演「人口減少の経済的帰結」において、資本需要は(1)人口、(2)生活水準、(3)生産の平均期間の三要素に依存すると論じた。人口が停滞すれば資本需要(投資需要)が不足し、貯蓄が投資を上回る傾向が強まる。有効需要の原理により、経済全体の生産と雇用が縮小する。
人口減少 → 消費者の減少 → 市場の縮小 → 投資需要の減退 → 貯蓄超過 → 不完全雇用の恒常化
ケインズのこの議論は、現代日本のデフレと長期停滞を先取りしたものとして再評価されている。
利子率経路(水野和夫)
法政大学教授の水野和夫は『資本主義の終焉と歴史の危機』(2014年、集英社新書)において、利子率のゼロへの収斂を資本主義の死の指標と位置づけた。
投資先の喪失 → 利子率のゼロへの収斂 → 資本の自己増殖の停止 → 資本主義の定義的な死
水野は、超低金利が10年を超えて続けば既存の経済・社会システムはもはや維持できないと論じた。「成長主義こそが倒錯している」とし、「ゼロ金利・ゼロ成長・ゼロインフレ」の定常化社会を目指すべきだと提唱した。
縮小の格差経路(保守ぺディア)
保守ぺディアの新脱成長は、以下の経路を提示する。
人口減少 → GDPの維持を目標とする → 低賃金分野から人手不足が発生 → 移民受け入れの圧力 → 民族共同体の破壊
この経路は、資本主義が人口をゼロにするのではなく、資本主義がGDPの維持を目標とすることで、先住民族を移民で置き換えるという構造を分析している。人口が減少すること自体は問題ではない。問題は、資本主義がGDPの維持を至上命題とするために、減少した人口を外部から補充しようとすることにある。
他の「資本主義の終焉」論との比較
水野和夫の「資本主義の終焉」
水野は、1870年から2001年まで、高所得国の世界人口シェアが常に15%前後であったことを指摘し(「15%クラブ」)、資本主義は世界のすべての人を豊かにできる仕組みではないと論じた。
大西と水野の比較は以下の通りである。
- 分析の起点: 大西はマルクス経済学の搾取論から、水野は利子率・金融資本の動態から出発する
- 核心の主張: 大西は「搾取が労働力の再生産を破壊し人口がゼロに向かう」、水野は「利潤率がゼロに収斂し資本主義が終焉する」と主張する
- 人口への言及: 大西にとって人口減少は本書の核心テーマであるが、水野にとっては成長の前提条件としての間接的な議論にとどまる
- 解決策: 大西は資本主義からの脱却と平等社会を、水野は脱成長とゼロ成長社会へのソフトランディングを提唱する
両者は「資本主義は持続不可能である」という結論を共有する。水野が金融面(利子率)から、大西が人口面(労働力の再生産)から、同じ結論に至っている点は注目に値する。
斎藤幸平の「人新世の資本論」
東京大学准教授の斎藤幸平は『人新世の「資本論」』(2020年、集英社新書、累計50万部超)において、気候変動危機の解決策として「脱成長コミュニズム」を提唱した。晩期マルクスの思想(特に「コモンズ」の再解釈)に解決の糸口を求め、SDGsを「大衆のアヘン」と批判した。
大西と斎藤の比較は以下の通りである。
- 危機の起点: 大西は人口減少(労働力の再生産の破綻)から、斎藤は気候変動・環境危機から出発する
- マルクスの活用: 大西は搾取論・労働価値説を、斎藤は晩期マルクスのコミュニズム論とコモンの思想を基盤とする
- 解決策: 大西は平等社会への移行と教育の無償化を、斎藤は脱成長コミュニズムとコモンの再建を提唱する
- 視座: 大西は国内(日本の少子化)に焦点を当て、斎藤はグローバル(地球環境)を視座とする
水野和夫は斎藤の『人新世の「資本論」』に推薦文を寄せ、「資本主義を終わらせれば、豊かな社会がやってくる。だが、資本主義を止めなければ、歴史が終わる」と評した。大西・水野・斎藤の三者は、それぞれ異なる経路(人口・金融・環境)から「資本主義は持続不可能である」という共通の結論に到達している。
吉川洋の反論
東京大学名誉教授の吉川洋は『人口と日本経済』(2016年、中公新書)において、人口減少下でもイノベーションによって2%の経済成長は可能であるという楽観論を展開した。歴史的に見て、一人当たりの生産性の向上が経済成長の主たる要因であり、人口はその副次的な条件に過ぎないとする。
しかし、吉川の議論は合計のGDPを成長させることを前提としている点で、保守ぺディアの視点からは批判の対象となる。一人当たりGDPが維持されるのであれば、合計のGDPが縮小すること自体は何の問題もない。「人口が減っても成長できる」という議論は、そもそも「成長しなければならない」という誤った前提に立っている。
保守ぺディアの視点からの批判的検討
大西広の『「人口ゼロ」の資本論』は、「資本主義が人口減少を構造的に引き起こす」という分析において重要な理論的貢献を行っている。しかし、保守ぺディアの立場からは、以下の根本的な問題が指摘される。
民族の視点の欠落
大西の分析は一貫して階級(労働者vs資本家)を基本単位としており、民族の視点が完全に欠落している。少子化の結果として民族共同体が消滅するという問題は、大西の議論には登場しない。大西にとって、人口減少は「労働者階級の搾取」の帰結であり、「民族の存亡」の問題ではない。
保守ぺディアは、人口減少の問題を民族共同体の存続という観点から捉える。人口が減少すること自体は、一人当たりGDPが維持される限り、必ずしも危機ではない。真の危機は、人口減少に対してGDPの維持を目標とすることで、低賃金移民政策が導入され、民族共同体が不可逆的に破壊されることにある。
移民問題への沈黙
大西は移民についてほぼ言及していない。資本主義が少子化を引き起こすメカニズムを詳細に分析しながら、資本主義がその帰結としての人口減少にどう対処するか(すなわち移民受け入れ)については議論を回避している。
これは致命的な欠陥である。現実の資本主義は、人口がゼロになるのを待つことはない。人口が減少し始めた段階で、GDPの維持を目的として移民受け入れを推進する。資本主義が人口をゼロにする前に、資本主義は先住民族を移民で置き換える。大西の議論は、この現実を見落としている。
解決策の問題
大西が提示する解決策は、教育の無償化、企業行動への国家の強制介入、「社会化された社会」への移行である。これは本質的に社会主義(共産主義)への移行を意味する。
保守ぺディアは、資本主義の一時的停止と計画経済への移行を新脱成長において提唱しているが、その目的は民族共同体の存続であり、階級的平等ではない。大西のマルクス主義的解決策が国際主義的・階級闘争的であるのに対し、保守ぺディアの解決策は民族主義的・共同体主義的である。
「縮小の配分」という視点の欠如
大西は「資本主義が人口をゼロにする」というマクロな構造を分析するが、人口減少局面においてどの分野がどれだけ縮小するかという配分の問題を論じていない。保守ぺディアのスマートシュリンクが提示する「全分野・全階層の均等縮小」という具体的な方法論は、大西の議論には存在しない。
大西の議論は、「資本主義をやめれば人口は回復する」という結論に至るが、人口が回復するまでの縮小過程をどう管理するかという現実的な問題には答えていない。保守ぺディアは、この縮小過程を均等配分によって管理するという具体的な処方箋を提示している。
接点と意義
以上の批判にもかかわらず、大西の『「人口ゼロ」の資本論』は保守ぺディアの議論にとって重要な参照点である。
- 資本主義が少子化を構造的に引き起こすという分析は、保守ぺディアの「自由資本主義は人口減少の時に機能しなくなる」という主張を学術的に補強する
- 「少子化は個人の選択ではなく構造の問題である」という命題は、少子化対策を「個人の意識改革」に矮小化する政府の姿勢への批判として有効である
- 搾取が労働力の再生産を破壊するというメカニズムの分析は、新自由主義が民族共同体を破壊する過程を理解するための理論的基盤を提供する
大西の議論の「階級」を「民族」に読み替えることで、保守ぺディアの理論的枠組みに接続することが可能である。すなわち、新自由主義的な資本主義が労働者の再生産費を搾取することは、民族共同体の再生産(次世代の育成)を破壊することにほかならない。
「資本主義の終焉」論の総合比較
| 大西広 | 水野和夫 | 斎藤幸平 | 保守ぺディア | |
|---|---|---|---|---|
| 分析の起点 | 搾取と労働力の再生産 | 利子率の動態 | 気候変動・環境危機 | 人口減少と移民 |
| 核心の主張 | 搾取が再生産を破壊し人口がゼロに | 利潤率がゼロに収斂し資本主義が終焉 | 気候危機は資本主義の帰結 | GDPの維持が先住民族を移民で置き換える |
| 人口への態度 | 人口回復が必要 | 間接的な議論 | 間接的(人口増加は環境負荷) | 人口減少は一人当たりGDPで対処可能 |
| 移民への態度 | 沈黙 | 沈黙 | 国際連帯を肯定 | 明確に拒否 |
| 解決策 | 社会主義への移行 | ゼロ成長社会 | 脱成長コミュニズム | スマートシュリンク(均等縮小) |
| 基本単位 | 階級(労働者vs資本家) | 国民経済 | 地球・コモンズ | 民族共同体 |
| 国家主権 | 言及なし | 言及なし | 国際主義的 | 国家主権の絶対性 |
| 学的立場 | マルクス経済学 | 金融経済学 | マルクス経済学(晩期マルクス) | リアリズム(国際政治学) |
四者はすべて「資本主義は持続不可能である」という結論を共有するが、その先に描く社会像は根本的に異なる。大西は階級のない平等社会を、水野はゼロ成長の定常社会を、斎藤は脱成長コミュニズムを、保守ぺディアは民族共同体の計画的な均等縮小を構想する。保守ぺディアの立場のみが、民族自決権を最上位の価値に据え、移民政策を明確に拒否している。
参考文献
- 大西広『「人口ゼロ」の資本論 — 持続不可能になった資本主義』(講談社+α新書、2023年)
- 水野和夫『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書、2014年)
- 斎藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社新書、2020年)
- 吉川洋『人口と日本経済』(中公新書、2016年)
- カール・マルクス『資本論』(1867年)
- フリードリヒ・エンゲルス『住宅問題』(1872年)
- ジョン・メイナード・ケインズ「人口減少の経済的帰結」(1937年)
- ハンス・モーゲンソー『国際政治 — 権力と平和』(岩波文庫、2013年)