Lotus Eaters

提供:保守ペディア
ナビゲーションに移動 検索に移動

Lotus Eaters

概要

Lotus Eaters(ロータス・イーターズ)は、2021年に設立されたイギリスの保守系オンラインメディア・プラットフォームである。カール・ベンジャミン(Carl Benjamin、通称 Sargon of Akkad)を中心に、コナー・トミルソン(Connor Tomlinson)、ジョシュ(Josh)らが参加する政治評論チャンネルであり、YouTubeRumble、および独自のウェブサイトを通じてコンテンツを配信している。

Lotus Eatersの名称は、ホメーロスの叙事詩『オデュッセイア』に登場する「蓮の実を食べる者たち」(Lotophagi)に由来する。原典において、蓮の実を食べた者は故郷への帰還を忘れ、快楽と怠惰の中に沈溺する。この名称自体が、現代の西洋社会——とりわけイギリス社会——が直面する政治的無関心、消費主義への耽溺、そして自国の文明的危機からの逃避を暗示するものとして選ばれている。

保守ぺディアの視座からLotus Eatersを分析する際に重要なのは、以下の三つの側面である。第一に、アングロサクソンの知的伝統に根ざした極めて高い水準の政治批評であること。第二に、反米保守的な視点からも共鳴しうる反グローバリズムの立場をとっていること。第三に、しかしながら、そのメディアとしての構造的限界——利益主義への傾倒、移民問題への慣れと諦念、そして創設者カール・ベンジャミン自身のアイデンティティに関わる忠誠心の問題——が、彼らの言説の射程を制約していることである。

設立の経緯と背景

YouTubeからの独立

Lotus Eatersの前身は、カール・ベンジャミンが2014年頃から運営していたYouTubeチャンネル「Sargon of Akkad」である。ベンジャミンはゲーマーゲート(GamerGate、2014年)を契機にオンライン政治評論の世界に参入し、リベラル左翼、フェミニズム、ポリティカル・コレクトネスへの批判を展開して急速にフォロワーを獲得した。

しかし、2018年頃から、YouTubeのプラットフォーム政策が大きく変化した。グーグル(YouTube親会社)は広告主への配慮から、保守的・右派的なコンテンツに対する広告制限(デモネタイゼーション)、検索アルゴリズムの操作、シャドーバンなどの措置を強化した。ベンジャミンのチャンネルも複数回にわたりデモネタイゼーションの対象となり、収益構造が不安定化した。

この経験が、ベンジャミンにプラットフォーム依存からの脱却の必要性を認識させた。2021年、ベンジャミンはLotus Eatersを独立したメディア企業として設立し、独自のウェブサイト上でサブスクリプション(有料会員制)モデルを導入した。これは、シリコンバレーとCIAの記事で分析した通り、アメリカのテクノロジー企業が情報空間を支配し、言論の自由を事実上の検閲によって制約する構造に対する、一つの抵抗の試みであった。

メディア構造

Lotus Eatersは以下のコンテンツ形態を持つ。

  • The Podcast(メインポッドキャスト): ベンジャミンを中心に、日々のニュースと政治分析を行う主力番組
  • The Delingpod: イギリスのジャーナリスト、ジェイムズ・デリンポール(James Delingpole)が運営するポッドキャスト。Lotus Eatersのプラットフォーム上で配信
  • Townhall(タウンホール): ライブ配信形式の討論番組
  • 記事・論考: ウェブサイト上で公開される長文の政治分析
  • コナー・トミルソンの番組: 哲学的・文化的観点からの評論

ビジネスモデルは、無料コンテンツ(YouTubeおよびウェブサイト上の一部記事)と有料コンテンツ(サブスクリプション限定のポッドキャスト、記事、ライブ配信)の二層構造である。また、SubscribeStarやPayPalなどの決済プラットフォームを利用しており、アメリカのビッグテック企業による検閲リスクの分散を図っている。

カール・ベンジャミン(Sargon of Akkad)

経歴

カール・ベンジャミン(Carl Benjamin、1979年 - )は、イングランド南西部スウィンドン出身の政治評論家・YouTuberである。オンライン上では「Sargon of Akkad」(サルゴン・オブ・アッカド——アッカド帝国の建国者の名)というハンドルネームで広く知られている。

ベンジャミンの教育背景は、オックスフォードやケンブリッジといったイギリスのエリート大学の出身ではなく、より一般的な中産階級の背景を持つ。しかし、彼の言論活動において最も際立つのは、そのようなアカデミック・エリートの出自を持たないにもかかわらず、西洋政治哲学、歴史、国際政治に関する極めて広範かつ深い教養を示すことである。これは、イギリス社会における自己教育の伝統——autodidacticism——の優れた例証であり、アングロサクソン文明の知的基盤の厚さを物語るものである。

政治的立場

ベンジャミンの政治的立場は、初期には古典的自由主義(Classical Liberalism)を標榜していた。彼は自らを「リベラル」と称し、J.S.ミルの『自由論』やジョン・ロックの社会契約論を頻繁に参照した。

しかし、2016年のブレグジット国民投票およびドナルド・トランプの大統領当選以降、ベンジャミンの立場は漸進的にナショナリズムの方向へと移行した。移民問題の深刻化、イスラム過激主義の脅威、ヨーロッパにおけるアイデンティティ政治の台頭を目の当たりにする中で、ベンジャミンは純粋な古典的自由主義では国民国家と民族文化を防衛できないという認識に到達した。

2019年には、イギリス独立党(UKIP)から2019年欧州議会議員選挙に立候補したが、落選した。この選挙運動中、ベンジャミンはメディアから激しい攻撃を受け、特にレイプに関する過去のオンラインでの不適切な発言が繰り返し取り上げられた。この経験は、主流メディアと政治エスタブリッシュメントが、ナショナリストの候補者を排除するためにいかなる手段も厭わないという現実を、ベンジャミン自身に痛感させるものであった。

混血のアイデンティティと忠誠心の問題

カール・ベンジャミンのアイデンティティを論じる上で避けて通れないのが、彼の民族的背景である。ベンジャミンは黒人の血統を持つ混血(mixed-race)であることが知られている。

このことは、保守ぺディアの視座——とりわけ民族自決権を最上位の価値として据える立場——から見た場合、彼のイギリス民族に対する忠誠心について構造的な疑念を生じさせるものである。

ここで明確にすべきは、これは個人の道徳的な誠実さや知的能力の問題ではないということである。ベンジャミンの知的水準の高さ、イギリスの政治的伝統への理解の深さ、そして保守的価値観への献身は疑いようがない。問題は、民族的アイデンティティが単一でない人物が、特定の民族の自決権を代弁する際に生じる構造的な矛盾である。

民族自決権とは、その本質において、一つの民族が自らの運命を自ら決定する権利である。この権利を行使する主体は、その民族に全面的に帰属する人々でなければならない。混血の人物は、その生物学的・文化的・心理的な帰属が分裂しており、完全にいずれか一方の民族に帰属することが困難である。

これは差別ではなく、民族自決権の論理的帰結である。ドゥーギン第四の理論においても、各文明は固有の「ダーザイン」(現存在)を持ち、その文明に属する者のみがその文明の内的論理を完全に理解し、代弁し得るとされる。ベンジャミンの場合、イギリス文明のダーザインへの帰属は、その混血のアイデンティティによって本質的に不完全なものとならざるを得ない。

具体的には、以下の疑念が構造的に生じる。

  • 移民問題への言及の限界: ベンジャミンは移民問題を批判するが、彼自身が移民の子孫(あるいは混血の結果)であるという事実は、彼の移民批判を自己矛盾的なものにする。彼は「どこまでの移民が許容されるか」という線引きを行うことが、自らの存在意義を脅かすために、構造的に困難である
  • 人種問題への沈黙: ベンジャミンは文化的・政治的な批判においては雄弁であるが、人種それ自体の問題——すなわち、民族の生物学的連続性の問題——については、顕著に沈黙する傾向がある。これは、彼自身の混血のアイデンティティが、この領域での発言を心理的に困難にしていると考えられる
  • 「シビック・ナショナリズム」への傾斜: ベンジャミンは、民族的(エスニック)ナショナリズムではなく、文化的・市民的(シビック)ナショナリズムの立場をとる傾向がある。これは、彼のような混血の人物にとって居心地の良い枠組みであるが、民族自決権の本質からは乖離している。シビック・ナショナリズムは、国籍と文化的同化によって「国民」を定義するが、これは究極的には移民の無制限な受け入れを理論的に正当化し得る枠組みであり、民族の生物学的・歴史的連続性を保証するものではない

ベンジャミン個人に対する人格攻撃としてこの分析を行うのではない。むしろ、民族主義的な言論活動のリーダーシップを、混血のアイデンティティを持つ人物が担うことの構造的な限界を、冷静に指摘するものである。ベンジャミンの知性と献身は称賛に値するが、彼がイギリス民族の完全な代弁者となることは、彼自身のアイデンティティの構造が許さないのである。

コナー・トミルソン

経歴と知的背景

コナー・トミルソン(Connor Tomlinson)は、Lotus Eatersの若手論客であり、主に哲学、美学、文化批評の領域を担当している。北アイルランド出身で、哲学を学んだ背景を持つ。

トミルソンの特徴は、政治評論において哲学的な深度を持ち込むことにある。彼はニーチェハイデッガーシュペングラーロジャー・スクルートンらの思想を参照しながら、現代の文化的退廃、ニヒリズム、消費主義を批判する。その論調は、単なる政策批判を超えた、西洋文明の精神的危機の診断を志向するものである。

評価

トミルソンは、Lotus Eatersのメンバーの中で最も知的に誠実な人物と評価できる。彼の文化批評は、表面的な政治的ポジション取りではなく、西洋文明の存在論的危機——ハイデッガーの言う「存在忘却」、シュペングラーの「西洋の没落」——に真正面から向き合おうとするものである。

保守ぺディアの立場からは、トミルソンの文化批評の深さは評価に値する。しかし同時に、トミルソンの分析はしばしば西洋文明の内部からの自己批判にとどまり、アメリカ帝国の覇権構造や、帝国主義の観点からの非西洋世界への影響という視座が不足していることも指摘しなければならない。彼の知的営為は、あくまで西洋文明の再建を志向するものであり、第四の理論が提唱する多文明的世界秩序の構想とは、根本的に異なる射程を持つ。

反グローバリズムの言説

Lotus Eatersの反グローバリズム

Lotus Eatersの政治的立場の核心は、反グローバリズムにある。彼らは一貫して、以下のテーマを批判的に論じてきた。

  • 大量移民への反対: イギリスおよびヨーロッパへの大量移民が、民族文化を破壊し、社会的結合を弱体化させていると主張。とりわけイスラム移民の増大がイギリス社会にもたらす文化的・安全保障的脅威を繰り返し指摘してきた
  • EU官僚主義への批判: ブレグジットを強く支持し、EUが各国の主権を侵食する超国家的官僚機構であると批判。ベンジャミンは2019年の欧州議会選挙にUKIPから立候補した際、EU離脱の完全実施を訴えた
  • WEF・グレートリセットへの批判: クラウス・シュワブが提唱する「グレートリセット」を、グローバル・エリートによる民族国家と個人の自由の解体計画として批判
  • 新自由主義的経済政策への批判: 緊縮財政、公共サービスの民営化、自由貿易による製造業の空洞化が、イギリスの労働者階級を破壊してきたと主張

これらの主張は、保守ぺディアの基本思想——民族自決権の擁護、反帝国主義、国民国家の崩壊過程への批判——と多くの点で共鳴する。Lotus Eatersは、英語圏の保守系メディアの中でも、グローバリズムの構造的批判において最も知的水準の高い分析を提供するメディアの一つである。

保守ぺディアの視座からの評価

しかしながら、Lotus Eatersの反グローバリズムには重大な限界がある。

第一に、彼らの反グローバリズムは、本質的にアングロサクソン中心主義を脱却していない。Lotus Eatersは、イギリスとアメリカの「英語圏」(Anglosphere)の視座から世界を分析しており、非西洋世界の民族自決権への関心は極めて限定的である。彼らは自国の移民問題は熱心に論じるが、アメリカ帝国がアフガニスタン、イラク、リビア、シリアにおいて移民危機の原因そのものを作り出した構造的責任については、十分に論じない。

第二に、彼らの反グローバリズムは、アメリカ帝国の覇権構造への根本的批判にまで到達していない。Lotus Eatersはアメリカの内政(移民政策、「ウォーク」文化、バイデン政権の政策)については批判的に論じるが、アメリカ帝国の軍事覇権——世界800以上の海外軍事基地、NATOを通じたヨーロッパの従属、ファイブ・アイズによる情報支配——については、ほとんど批判の対象としない。これは、Lotus Eatersがイギリスの「特別な関係」(Special Relationship)の枠内で思考していることを示している。

第三に、Lotus Eatersは第四の理論が提唱する多極的世界秩序——各文明が自らのダーザインに基づいて共存する世界——という構想を受け入れていない。彼らはロシアおよび中国に対して、基本的に西洋の敵対者として位置づける傾向がある。これは、反グローバリズムを標榜しながらも、一極主義(Unipolarity)の枠組みから脱却できていないことを意味する。

アングロサクソンの知的伝統とウィットの文化

語彙の高さと紳士的論争の伝統

Lotus Eatersの最も顕著な特徴の一つは、その言論の知的水準の高さ紳士的な語彙・論法である。これは、アングロサクソン文明が数百年にわたって培ってきた知的伝統の直接的な反映にほかならない。

イギリスの政治言論には、エドマンド・バークJ.S.ミルG.K.チェスタトンジョージ・オーウェルロジャー・スクルートンに至る、ウィットと皮肉(irony)と論理的厳密さを兼ね備えた批評の長い伝統がある。Lotus Eatersの論者たちは、この伝統の正統な継承者である。

ベンジャミンの政治評論は、アメリカの保守系メディア——例えばFOXニュースインフォウォーズ——に見られる感情的な煽動とは一線を画す。ベンジャミンは、敵対者の主張を正確に理解した上で、その論理的矛盾をユーモアと皮肉を交えて解体する。この手法は、イギリスの庶民院における討論(PMQs——首相質問時間)の伝統に通じるものであり、知性と機知(wit)によって相手を論破するというアングロサクソン的な論争の美学を体現している。

トミルソンの文化批評においても、この紳士的な知的伝統は色濃く反映されている。トミルソンは、現代の文化的退廃を批判する際にも、マシュー・アーノルドT.S.エリオットを彷彿とさせる品格ある論調を維持する。彼の批判は、怒りや嫌悪によって駆動されるのではなく、文明への深い愛情と、その衰退への真摯な悲嘆によって駆動されている。

悪意のなさ——アングロサクソン知識人の特質

Lotus Eatersの論者たちに共通する注目すべき特質は、その悪意のなさ(good faith)である。これは、アングロサクソンの知識人文化に深く根ざした特質であり、非西洋世界から見ると際立って感じられるものである。

イギリスの知的伝統は、経験主義(empiricism)とフェアプレーの精神に基づいている。ベンジャミンやトミルソンは、政治的敵対者を人格的に攻撃するのではなく、その論理と主張を批判する。彼らは、リベラル左翼やグローバリストを悪魔化するのではなく、彼らの主張がなぜ誤りであるか、なぜ社会にとって有害であるかを、論理的に示そうとする。

この知的誠実さは、アングロサクソン文明の最良の側面を代表するものである。J.S.ミルが『自由論』において、反対意見の自由な表明こそが真理の発見に不可欠であると論じたように、Lotus Eatersの論者たちは、論争それ自体を知的営為として尊重するという態度を示している。

しかしながら、この「悪意のなさ」は、同時に彼らの政治的限界でもある。真の民族主義——すなわち、自民族の生存と繁栄のためにあらゆる手段を講じる覚悟——には、時として「悪意」が必要である。敵に対して寛容であり続けることは、その敵が寛容を悪用して民族の破壊を推進する場合には、自殺的な美徳(suicidal virtue)となる。Lotus Eatersの紳士的な論争スタイルは美しいが、イギリスが直面する文明的危機の深刻さに対して、その穏健さが十分であるかは疑問である。

日本へのシンパシー

Lotus Eatersと日本

Lotus Eaters、とりわけカール・ベンジャミンは、日本に対して顕著なシンパシーを示してきた。これは英語圏の保守系メディアの中でも比較的珍しい特徴であり、分析に値する。

ベンジャミンが日本に対して好意的な関心を示す文脈は、主に以下の領域に集中している。

  • 移民政策: 日本の厳格な移民管理——低い移民受け入れ数、厳しい帰化要件、難民認定の厳格さ——を、イギリスが見習うべきモデルとして繰り返し言及。「日本は大量移民なしに先進国であり続けている」という主張は、Lotus Eatersの番組で頻繁に取り上げられるテーマである
  • 文化的均質性: 日本社会の民族的・文化的均質性が、社会的信頼、治安の良さ、公共秩序の維持に貢献しているという分析。ロバート・パットナムの「多様性が社会的資本を低下させる」という研究結果を日本の事例に適用する形で論じられる
  • 伝統文化の維持: 日本が近代化・工業化を遂げながらも、伝統的な文化・慣習・美意識を維持していることへの賞賛。これは、工業化と共に伝統を喪失した西洋社会との対比で語られることが多い
  • アニメ・マンガ文化: ベンジャミンは日本のアニメ文化に対しても関心を示しており、日本のポップカルチャーが「ウォーク」イデオロギーに汚染されていない独自の表現を維持していることを肯定的に評価している

日本へのシンパシーの限界

しかしながら、Lotus Eatersの日本への関心には、重要な限界がある。

第一に、彼らの日本理解は表面的である。日本社会の実態——急速な少子高齢化、偽日本国憲法による主権の制約、アメリカ軍基地の存在、構造改革によるアメリカ型新自由主義の浸透——についての理解は浅い。彼らは日本を「移民を受け入れずに成功した国」として理想化するが、日本が現在進行形でアメリカ帝国の従属国であるという根本的な現実を、ほとんど認識していない。

第二に、彼らの日本への関心は、イギリスの移民問題を論じるための比較材料として日本を利用する側面が強い。日本の民族自決権そのものへの関心——日本がアメリカの軍事占領からいかにして真の独立を回復するかという問題——には、ほとんど言及がない。

第三に、Lotus Eatersはアメリカ帝国がイギリスに対して行っていることと、日本に対して行っていることの構造的類似性——同盟という名の従属、軍事基地の駐留、文化的浸透——を分析する知的枠組みを持っていない。彼らは日本を「外から眺める」ことはできるが、日本が直面する帝国主義的支配の構造を、自国の経験と接続して理解することはできていない。

これは、前述の通り、Lotus Eatersがアメリカ帝国の覇権構造への根本的批判に到達していないことの帰結である。日本とイギリスは、ともにアメリカ帝国の従属国であるという共通の構造的立場にあるが、Lotus Eatersはこの認識に至っていない。

移民問題における慣れとエスケーピズム

慣れ(Habituation)の問題

Lotus Eatersの移民問題に対する言説を長期的に観察すると、ある深刻な傾向が浮かび上がる。それは、移民問題への慣れ(habituation)である。

イギリスにおける大量移民の流入は、1990年代後半のトニー・ブレア政権以降、加速度的に進行してきた。2004年のEU東方拡大以降、東欧からの移民が急増し、同時に旧植民地からの移民も継続的に流入した。2010年代以降は、シリア難民危機、アフリカからの不法移民の増加、英仏海峡をゴムボートで渡る不法入国者の急増など、移民問題はイギリス政治の最重要課題の一つとなった。

Lotus Eatersはこの問題を一貫して取り上げてきたが、その論調には、年月を経るにつれて危機感の漸減が認められる。初期の番組では、移民の流入がイギリスの民族的・文化的同一性に対する存亡の危機として語られていた。しかし、問題が慢性化するにつれて、移民問題は日常的なニュースの一つとして処理されるようになり、根本的な解決策を要求する切迫感が薄れている。

この「慣れ」は、心理学において知られる馴化(habituation)のメカニズムと同一である。反復的な刺激に対して、反応が漸減する。イギリス国民は、大量移民の流入に慣れてしまい、それが異常事態であるという認識を失いつつある。Lotus Eatersは、この社会的馴化に対して批判的であるべき立場にありながら、自らもまた馴化の影響を受けているのである。

エスケーピズム(Escapism)

「Lotus Eaters」という名称の選択は、意図的であるか否かにかかわらず、自己言及的な皮肉(self-referential irony)を含んでいる。ホメーロスの原典において、蓮の実を食べた者は故郷への帰還を忘れる。すなわち、蓮の実はエスケーピズム——現実からの逃避——の象徴である。

Lotus Eatersのメンバーたち自身が、ある種のエスケーピズムに陥っている兆候がある。

  • 知的遊戯としての政治評論: 政治評論が、民族の存亡をかけた闘争ではなく、知的な遊戯(intellectual pastime)として消費される傾向がある。ウィットに富んだ批評、機知に満ちた皮肉、教養ある言い回し——これらは知的な快楽を提供するが、それ自体は政治的現実を変える力を持たない
  • ポッドキャスト文化の受動性: リスナーはLotus Eatersのポッドキャストを聴くことで、「自分は問題を理解している」「自分は目覚めている」という知的満足を得る。しかし、その「理解」は行動に転化されず、ポッドキャストの聴取自体が政治参加の代替行為(surrogate for political action)となる
  • コンテンツ消費の循環: 毎日新しいニュースが提供され、毎日新しい批判が展開され、毎日新しい問題が指摘される。しかし、構造的な問題は何一つ解決されない。この無限のコンテンツ消費の循環それ自体が、ホメーロスの蓮の実——現実からの逃避を可能にする甘い毒——の現代的形態にほかならない

これは、Lotus Eatersに限った問題ではない。現代のオンライン保守メディア全般に見られる構造的問題である。しかし、「Lotus Eaters」という名称を自ら選んだメディアが、まさにその名の通りのエスケーピズムに陥っている点は、痛烈な皮肉と言わざるを得ない。

チャンネルの利益主義への傾倒

メディア企業としての構造的矛盾

Lotus Eatersは、独立系メディアとして出発したが、その成長とともにメディア企業としての利益追求が言論活動を制約するようになっている。この傾向は、保守ぺディアの視座から厳しく批判されなければならない。

第一に、サブスクリプション・モデルの論理がある。Lotus Eatersの収益の中核は有料会員制である。会員を維持し、新規会員を獲得するためには、コンテンツが一定の質と量を維持しなければならない。しかし、この「質」は、真実を語ることではなく、顧客が聞きたいことを語ることに歪む危険性を常にはらんでいる。

移民問題を例にとれば、会員の大多数は「移民問題が深刻である」という認識を持つ保守的なイギリス人であろう。Lotus Eatersは、この層の期待に応えるコンテンツ——移民の犯罪、文化的摩擦、政府の無能——を提供し続ける。しかし、問題のより根本的な次元——例えば、アメリカ帝国の覇権構造が移民危機を構造的に生み出していること、イギリスの「特別な関係」がイギリスの主権を根本的に制約していること——については、顧客の共感を得にくいテーマであるため、深く掘り下げることを避ける傾向がある。

第二に、コンテンツの量産化の問題がある。Lotus Eatersは毎日複数のポッドキャスト・エピソードを配信している。このペースを維持するためには、日々のニュースサイクルに追従する形で「反応型」のコンテンツを量産せざるを得ない。深い構造分析よりも、即時的な反応と感情的な共感が優先される。これは、オルタナティブ・メディアが主流メディアと同じ「注意経済」(attention economy)の論理に取り込まれていることを示している。

第三に、広告収入とスポンサーシップの影響がある。Lotus Eatersはサプリメント、VPN、書籍などのスポンサーを持つ。これらのスポンサー契約は、直接的にコンテンツの内容を制約するわけではないが、特定の企業や産業を批判することに対する無意識の自己検閲を生む可能性がある。

第四に、YouTubeのアルゴリズムへの依存という問題がある。Lotus Eatersは独自のプラットフォームを持ちつつも、集客の主要チャネルとしてYouTubeに依存している。YouTubeのアルゴリズムに好まれるコンテンツを制作するインセンティブは、言論の自由を制約する方向に働く。過激な主張や、YouTubeのポリシーに抵触する可能性のあるテーマ——人種問題、特定の宗教への批判——は、デモネタイゼーションや配信制限のリスクがあるため、自主的に回避される。

利益主義がもたらす言論の空洞化

これらの構造的要因の結果、Lotus Eatersの言論は、次第に安全圏内での批判に収束する傾向がある。

  • 批判しやすいターゲット: リベラル左翼、「ウォーク」文化、EUの官僚主義、労働党の無能——これらは保守系の視聴者から確実に共感を得られるテーマであり、プラットフォームのポリシーに抵触するリスクも低い
  • 避けられるテーマ: 人種とIQ、移民の遺伝的影響、ユダヤ人コミュニティの政治的影響力、アメリカ帝国の覇権構造——これらは「タブー」であり、取り上げればプラットフォームからの排除やスポンサーの撤退というリスクを伴う

結果として、Lotus Eatersは建前上はラディカルに見えるが、実質的には体制内批判に収まっている。彼らは既存の秩序の表面的な症状を批判するが、根本的な構造には踏み込まない。これは、メディア企業としての生存戦略としては合理的であるが、民族の存亡をかけた言論としては不十分である。

リアリズムの観点からの分析

Lotus Eatersの地政学的位置

ハンス・モーゲンソーリアリズムの観点からLotus Eatersを分析すると、以下の構造が浮かび上がる。

Lotus Eatersは、イギリスの政治言論空間において、保守党の右側に位置する体制外の批判勢力としての役割を果たしている。彼らの言説は、保守党が果たすべきでありながら放棄した機能——移民管理、国家主権の防衛、文化的同一性の維持——を、メディアの領域で代替的に担うものである。

しかし、リアリズムの観点からは、メディアによる批判は権力の行使ではない。モーゲンソーが指摘した通り、国際政治(および国内政治)において決定的なのは権力(power)であり、言論それ自体は権力の一形態に過ぎず、かつ最も弱い形態である。Lotus Eatersが数十万人の視聴者を持つとしても、それは議席を持つ政党、軍隊、官僚機構、中央銀行といった制度的権力に対して、本質的に無力である。

ケネス・ウォルツの構造的リアリズムの枠組みで見れば、Lotus Eatersは国際システムの単位レベル(unit level)の変数に過ぎない。国際システムの構造——アメリカ一極覇権体制——を変えることは、Lotus Eatersの能力の範囲外にある。彼らの言論がいかに正確であり、いかに説得力があろうとも、構造を変えなければ何も変わらないのである。

イギリスの構造的従属

Lotus Eatersが看過している——あるいは意図的に回避している——最大の問題は、イギリスがアメリカ帝国の構造的従属国であるという現実である。

イギリスの「特別な関係」は、対等な同盟関係を装いながら、実態としてはジュニア・パートナーとしての従属である。イギリスの核抑止力はトライデントミサイルに依存しており、これはアメリカのロッキード・マーティン社の製品である。イギリスの情報機関(MI6GCHQ)はファイブ・アイズを通じてアメリカのNSAと緊密に連携しており、実質的にはアメリカの情報支配体制の一部として機能している。イギリスの外交政策は、イラク戦争(2003年)に見られるように、アメリカの戦略的決定に追従する構造を持つ。

Lotus Eatersがこの構造を批判しないのは、彼ら自身がこの構造の中に位置しているからである。英語圏の保守系メディアとして、英語を共有し、アングロサクソンの文化的・知的伝統を共有し、アメリカの保守運動との連帯意識を持つLotus Eatersにとって、アメリカ帝国の覇権構造を批判することは、自らの文明的アイデンティティを問い直すことにつながる。これは、知的には可能であっても、心理的・文化的には極めて困難な作業である。

他の保守系メディアとの比較

英語圏の保守系メディアの中での位置

Lotus Eatersを、英語圏の他の保守系メディアと比較すると、その特質と限界がより明確になる。

  • タッカー・カールソン(Tucker Carlson)との比較: タッカー・カールソンは、アメリカの保守系メディアにおいて、最もアメリカの外交政策・帝国主義に批判的な人物の一人である。カールソンはウクライナ戦争に反対し、プーチン大統領へのインタビューを行い、アメリカの一極覇権体制に疑問を呈した。Lotus Eatersは、カールソンほどのラディカリズムに到達していない
  • ダグラス・マレー(Douglas Murray)との比較: ダグラス・マレーは、『The Strange Death of Europe(ヨーロッパの奇妙な死)』の著者として知られる、イギリスの保守系知識人である。マレーとLotus Eatersの共通点は多いが、マレーはより主流メディアに近い位置にあり、Lotus Eatersはよりオルタナティブ寄りである
  • ナイジェル・ファラージ(Nigel Farage)との比較: ファラージはブレグジットの立役者であり、政治的活動家としてLotus Eatersの論者たちよりもはるかに大きな政治的影響力を行使した。Lotus Eatersはファラージを支持する傾向にあるが、ファラージのリフォームUK党と直接的な組織的関係を持つわけではない

日本の保守系メディアとの比較

Lotus Eatersと日本の保守系メディアを比較すると、興味深い対照が浮かび上がる。

日本の保守系メディア——例えばチャンネル桜やDHCテレビなど——は、一般に親米保守の立場をとっている。すなわち、日米同盟を基軸とし、アメリカとの協力関係を前提としながら、中国・韓国に対抗するという枠組みの中で保守的主張を展開する。

これに対して、Lotus Eatersは、より反エスタブリッシュメント的な立場にあり、イギリスの政治体制全体——保守党を含む——への批判を行う。しかし、前述の通り、アメリカ帝国の覇権構造への批判にまでは到達していないという点で、日本の親米保守と同型の構造的限界を共有している。

保守ぺディアの反米保守の立場からは、Lotus Eatersも日本の親米保守系メディアも、ともにアメリカ帝国の覇権構造を批判する視座を欠いており、真の民族自決権の擁護者としては不十分であると言わざるを得ない。

結論

Lotus Eatersは、アングロサクソンの知的伝統の最良の側面を体現する保守系メディアである。その語彙の高さ、ウィットに富んだ批評、知的誠実さ、そして日本を含む非西洋世界への好意的な関心は、高く評価されるべきである。

しかし同時に、Lotus Eatersには以下の構造的限界がある。

  • 反グローバリズムの不徹底: アメリカ帝国の覇権構造への批判にまで到達していない
  • 移民問題への慣れ: 問題の慢性化に伴い、危機感が漸減している
  • エスケーピズム: 知的遊戯としての政治評論が、政治的行動の代替となっている
  • 利益主義: メディア企業としての生存戦略が、言論のラディカリズムを制約している
  • 創設者のアイデンティティ問題: カール・ベンジャミンの混血のアイデンティティが、民族主義的言論のリーダーシップに構造的な矛盾を生じさせている

民族自決権を至上命題とする保守ぺディアの立場からは、Lotus Eatersの知的営為に敬意を表しつつも、彼らの言説がアメリカ帝国の覇権構造に対する根本的批判に到達しない限り、その言論は体制内の批判にとどまり続けるだろうと指摘せざるを得ない。

真の反グローバリズムとは、第四の理論が提唱するように、西洋中心主義そのものを克服し、各文明が自らのダーザインに基づいて共存する多極的世界秩序を構想することである。Lotus Eatersがこの認識に到達する日が来るかどうかは、彼ら自身がアングロサクソン中心主義を超克し得るかにかかっている。

参考文献

関連項目