アーノルド・トインビー

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アーノルド・トインビー

アーノルド・ジョゼフ・トインビー(Arnold Joseph Toynbee、1889年4月14日 - 1975年10月22日)は、イギリス歴史家文明批評家であり、20世紀を代表する歴史哲学者の一人である。全12巻・300万語を超える大著『歴史の研究』(A Study of History、1934年-1961年)において、人類史における21以上の文明の興亡を比較分析し、国民国家ではなく文明こそが歴史の基本単位であるという画期的な歴史観を提示した。

トインビーの文明論が保守ぺディアの思想にとって重要であるのは、以下の理由による。第一に、トインビーは「西洋は近代における最大の侵略者である」(The West has been the arch-aggressor of modern times)と断じ、西洋文明の普遍性の主張が帝国主義的支配の正当化にほかならないことを暴いた。第二に、文明を歴史の単位とする視座は、ドゥーギン第四の理論が唱える多極的文明共存論の知的源流の一つである。第三に、トインビーの「挑戦と応戦」理論、「創造的少数者」の堕落による文明の衰退、「世界国家」(ユニヴァーサル・ステート)による政治的創造性の窒息といった概念は、アメリカ帝国の下で精神的に植民地化された戦後日本の状況を構造的に理解するための強力な分析枠組みを提供する。

日本においてトインビーの名は、「民族の神話を学ばなかった民族は例外なく滅んでいる」という格言と結びつけて広く知られている。この格言の出典と真偽については本記事で詳述するが、その格言が伝える核心的メッセージ、すなわち集団的アイデンティティの喪失が文明の死を招くという命題は、トインビーの文明論の本質と合致するものである。

生涯

出自と教育

アーノルド・ジョゼフ・トインビーは1889年、ロンドンに生まれた。伯父は経済史家として知られるアーノルド・トインビー(1852年-1883年)であり、社会改良の精神は家系的に受け継がれたものであった。

ウィンチェスター・カレッジで古典教育を受けた後、奨学金を得てオックスフォード大学ベリオール・カレッジに入学し、古典学(Literae Humaniores)を専攻した。トゥキュディデスヘロドトスをはじめとする古代ギリシアの歴史家への深い没入は、後の文明論の知的基盤となった。

卒業後、アテネのイギリス考古学院で学んだ経験が、トインビーの歴史観に決定的な転機をもたらした。ギリシアの荒廃した遺跡を前にして、かつて世界史を動かした文明が跡形もなく滅びうるという事実を、トインビーは知的認識ではなく実存的な衝撃として受け止めた。この経験が、文明の興亡を歴史の核心に据える壮大な構想の出発点となった。

第一次世界大戦と外交の世界

第一次世界大戦の勃発は、トインビーの人生を学問の世界から国際政治の現場へと引き出した。1915年、イギリス外務省の情報部門に入り、ブライス子爵の下でオスマン帝国によるアルメニア人虐殺に関する調査に従事した。この経験は、帝国主義が少数民族に対していかなる暴力を行使しうるかを、トインビーに直接目撃させるものであった。

1919年のパリ講和会議にはイギリス代表団の一員として参加した。この講和会議で、トインビーは西洋列強が「民族自決」の美名の下に行う帝国主義的分割の現場を目の当たりにした。後の西洋帝国主義批判の原点は、この経験にある。

パリ講和会議中、ライオネル・カーティスがイギリス代表団の宿舎であったマジェスティック・ホテルにて国際問題研究所の設立を提案した。この提案から、ロンドンに王立国際問題研究所(チャタム・ハウス)が、ニューヨークに外交問題評議会(CFR)が設立された。トインビーはこの設立の場に立ち会った人物である。

チャタム・ハウスと『歴史の研究』

1925年、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの国際史研究教授に就任し、1929年から1956年までチャタム・ハウスの研究部長を務めた。この間、『国際問題概観』(Survey of International Affairs)全34巻の編纂を指揮し、20世紀国際政治の最も包括的な同時代的記録を残した。

チャタム・ハウスでの国際政治の実務的分析と並行して、トインビーは『歴史の研究』の執筆に取り組んだ。第1巻から第3巻は1934年に、第4巻から第6巻は1939年に刊行された。第二次世界大戦中はチャタム・ハウスの外国調査部長(1939年-1943年)、外務省の調査部長(1943年-1946年)を務めた。

戦後、D・C・サマヴェルによる縮約版が出版されると、特にアメリカで爆発的な反響を呼び、1947年には『タイム』誌の表紙を飾った。残りの巻は1954年(第7巻-第10巻)および1961年(第12巻「再考察」)に刊行された。

晩年と死

1956年にチャタム・ハウスを退職した後も、トインビーは旺盛な執筆活動を続けた。『世界と西洋』(The World and the West、1953年)、『アメリカと世界革命』(America and the World Revolution、1962年)など、西洋帝国主義批判を前面に出した著作を発表し、冷戦期の西洋知識人としては異例なほど自文明への厳しい批判を展開した。

晩年のトインビーは、文明間の対話に強い関心を示した。日本の若泉敬との対談『未来を生きる』(1971年)、池田大作との対談『二十一世紀への対話』(1975年)は、東洋と西洋の知的交流の記念碑的作品となった。

1975年10月22日、86歳で没した。

『歴史の研究』

『歴史の研究』(A Study of History)は、1934年から1961年にかけて刊行された全12巻の大著であり、人類史上のあらゆる文明を比較分析した20世紀最大の歴史哲学的著作である。

文明を歴史の単位とする

トインビーの最も根本的な革新は、歴史の「理解可能な研究単位」(intelligible field of study)として国民国家ではなく文明を据えたことにある。

19世紀以来、歴史学は国民国家を基本単位として組織されてきた。「フランス史」「ドイツ史」「日本史」といった枠組みで歴史が語られ、あたかも国民国家が歴史の自然な主体であるかのように扱われてきた。トインビーはこの前提を根底から否定した。国民国家は、文明という遙かに大きな歴史的文脈の中でのみ理解可能な、比較的短命な政治的単位にすぎない。イギリスの歴史を理解するにはイギリスだけを見ても不十分であり、西洋文明全体の文脈の中で把握しなければならない。

この視座は、保守ぺディアが依拠する多文明主義の知的基盤の一つとなっている。文明を歴史の単位とする見方は、西洋文明の価値観を「普遍的」と称して全世界に押し付ける自由主義的国際秩序の正当性を根本から掘り崩す。各文明はそれぞれ固有の発展法則を持つのであり、西洋文明の基準で他の文明を「遅れている」「発展していない」と評価すること自体が、知的帝国主義にほかならない。

文明の分類

トインビーは人類史において21から26の文明を識別した。主要な文明として、エジプト文明、シュメール文明、ミノア文明、ヘレニック(ギリシア・ローマ)文明、シリア文明、インド文明、ヒンドゥー文明、中国文明、極東文明(日本・朝鮮分枝を含む)、正教キリスト教文明(ビザンツ本体とロシア分枝)、西洋文明、イスラム文明(アラビアとイランの分枝)、マヤ文明、メキシコ文明、アンデス文明などを挙げた。

このうち、トインビーが執筆時点で「明確に解体途上にあるとも、すでに死滅したとも言えない」唯一の文明として西洋文明を位置づけたことは注目に値する。しかし西洋文明にも衰退の兆候は現れており、その分析はアメリカ帝国の将来を考える上で極めて示唆的である。

文明の興亡理論

挑戦と応戦

トインビーの文明論の核心をなす概念が挑戦と応戦(Challenge and Response)である。

文明は、人種や環境の自動的な産物として生まれるのではない。文明は、環境的・社会的・政治的な挑戦(Challenge)に対して、人間集団が創造的な応戦(Response)を行うことによって誕生し、成長する。過酷な自然環境、異民族からの圧迫、内部の社会的矛盾と、これらの挑戦に成功裏に応答した文明は成長を続ける。

ただし、挑戦には「適度」がある。挑戦が過大であれば文明は圧殺され、挑戦が過小であれば文明は停滞する。トインビーはこれを「黄金の中庸」と呼んだ。文明の成長は、一つの挑戦への応戦が成功し、次の新たな挑戦が現れるという連鎖的過程の中で実現される。

この理論が持つリアリズム的含意は深い。安全保障上の挑戦を回避し、他国(アメリカ)に安全保障を丸投げした戦後日本は、トインビーの理論に照らせば、文明としての成長の条件そのものを放棄したことになる。挑戦なき安楽は文明の成長ではなく、文明の停滞と退廃をもたらすのである。

創造的少数者と支配的少数者

文明の成長を牽引するのは、社会の圧倒的多数ではなく、創造的少数者(Creative Minority)と呼ばれるごく少数の指導者層である。創造的少数者は、挑戦に対する革新的な応戦を発案し、その魅力によって多数者を鼓舞する。多数者は模倣(Mimesis)を通じて創造的少数者の応戦を受容し、社会全体がその方向に動く。重要なのは、この過程が強制ではなく感化(inspiration)によって成り立っていることである。

しかし、文明の成長期が終わると、決定的な転換が起こる。挑戦への応戦に成功し続けた創造的少数者は、やがて「過去の自己への崇拝」に陥る。彼らは過去の成功体験に固執し、新たな挑戦に対する創造的応戦の能力を失う。こうして創造的少数者は支配的少数者(Dominant Minority)へと堕落する。

支配的少数者は、もはや感化によってではなく、強制によって社会を統治する。多数者はもはや支配的少数者を尊敬しない。ここに文明の衰退の本質がある。トインビーの有名な言葉を借りれば、「文明は殺されるのではない。自殺するのである」(Civilizations die from suicide, not by murder)。

この分析は、アメリカのエリート層の変質を理解する鍵となる。かつてアメリカの建国者たちは、イギリス帝国の支配に対する創造的な応戦として共和制を構築した。しかし現在のアメリカのエリート層(軍産複合体、ウォール街、シリコンバレー)は、もはや創造的少数者ではなく支配的少数者にほかならない。彼らは世界を感化するのではなく、軍事力と経済力によって支配している。

内的プロレタリアートと外的プロレタリアート

文明が衰退段階に入ると、社会は三つの層に分裂する。支配的少数者内的プロレタリアート外的プロレタリアートである。

トインビーが言う「プロレタリアート」は、マルクスの経済的定義とは異なる。トインビーの定義によれば、プロレタリアートとは「社会における祖先伝来の場所から引き離されたという意識と、その意識がもたらす怨恨」を抱く人々である。これは経済的階級ではなく、文明的帰属意識の喪失という精神的状態を指す。

内的プロレタリアートとは、文明の内部に生きながら、支配的少数者によって疎外され、文明への帰属意識を失った人々である。彼らの創造的行為は普遍的教会(Universal Church)の形成である。ローマ帝国の内的プロレタリアートがキリスト教を生み出したことが典型例である。

外的プロレタリアートとは、文明の境界の外側に住む人々であり、文明の衰退とともに境界を越えて侵入する。彼らの行為は蛮族戦団の形成である。ゲルマン民族がローマ帝国に侵入したことが典型例である。

この三層構造は、現代のアメリカ帝国にも適用できる。アメリカの支配的少数者(エリート層)は、国内の内的プロレタリアート(アメリカの伝統的な中産階級・労働者階級が経済的に没落し、文化的にも疎外されている)を生み出し、同時に外的プロレタリアート(大量の移民がアメリカ社会の境界を越えて流入している)の圧力に直面している。この構造的危機は、トインビーの理論が予測する文明衰退の典型的パターンである。

世界国家(ユニヴァーサル・ステート)

文明の衰退過程において、支配的少数者が行う最後の大規模な政治的行為が、世界国家(Universal State)の建設である。

世界国家とは、「動乱の時代」(Time of Troubles)を経た文明が、政治的統一を達成する段階である。ローマ帝国がヘレニック文明の世界国家であったように、世界国家は文明に一時的な政治的統一と秩序をもたらす。しかしトインビーが強調するのは、世界国家の出現は文明の健全さの証ではなく、衰退の証であるという逆説的な事実である。

世界国家は政治的創造性を窒息させる。一つの支配的な政治体が文明全体を包摂することで、多様な政治実験の可能性が失われる。世界国家はまた、その制度(交通網、法体系、通貨、官僚制度)が設計者の意図を超えて、内的プロレタリアートの宗教や文化の伝播を促進するという皮肉な結果を招く。ローマ帝国がキリスト教の伝播を可能にしたのは、帝国の道路網と法的統一がキリスト教の宣教活動に利用されたからである。

冷戦終結後、世界唯一の超大国として君臨するアメリカ合衆国は、トインビーの世界国家概念に驚くほど合致する。軍事基地の全世界的展開、ドル基軸通貨体制、国際法とリベラル国際秩序の強制と、アメリカは西洋文明の世界国家としての諸特徴を備えている。そしてトインビーの理論に従えば、この世界国家の出現は西洋文明の衰退の最終段階を示すものである。

魂の分裂

文明の衰退期には、個人と社会の精神にも分裂(Schism in the Soul)が生じる。トインビーは衰退期の精神的反応を四つに分類した。

  • 復古主義(Archaism): 過去の黄金時代への回帰を志向する態度。問題を「昔は良かった」という感覚で処理しようとする
  • 未来主義(Futurism): 現在の問題を未来の理想社会への跳躍によって解決しようとする態度。革命的ユートピア思想がこれに当たる
  • 離脱(Detachment): 衰退する世界から精神的に撤退し、内面の平安を求める態度。ストア哲学やエピクロス主義がこれに当たる
  • 超越(Transcendence): 衰退の挑戦に対して、新たな宗教的・精神的洞察をもって応答する態度。キリスト教や仏教の誕生がこれに当たる

戦後日本の精神状況は、これら四つの反応が複雑に入り交じった状態として理解できる。一部の日本人は復古主義的に戦前への回帰を夢見る。別の者は未来主義的に「グローバル市民社会」を理想とする。多くの者は離脱的に政治から撤退し、消費とエンターテインメントに没入している。超越的な応答、すなわち新たな精神的秩序の創出は、いまだ実現していない。

隠遁と復帰

トインビーが歴史の中に見出したもう一つの重要なリズムが隠遁と復帰(Withdrawal and Return)である。

創造的な個人や民族は、社会から一時的に退き(隠遁)、その隠遁の期間中に新たな力や洞察を獲得し、社会に復帰して指導的な役割を果たす。この「隠遁と復帰」のリズムは、宗教的指導者(荒野での修行の後に帰還する預言者)から国家レベル(大陸から一時的に撤退した後、世界帝国として復帰したイギリス)にまで適用された。

この概念は、戦後日本の将来に対する一つの解釈を提供する。アメリカの支配下で国際政治の主体性を失った日本は、いわば「強制された隠遁」の状態にある。しかしこの隠遁が、新たな精神的力と民族的自覚の獲得につながるならば、日本はやがて主権国家として国際社会に「復帰」する可能性を持つ。ただし、隠遁が単なる安楽と惰眠に終わるならば、復帰はありえない。隠遁は能動的な精神的鍛錬でなければならないのである。

「民族の神話を忘れた民族は滅びる」

日本における格言の流布

日本において、トインビーの名は「12〜13歳くらいまでに民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる」という格言と不可分に結びついている。この格言は、古事記・日本書紀に代表される日本の建国神話を教育の中核に据えるべきだという主張の根拠として、保守派の間で広く引用されてきた。

この格言の核心的メッセージ、すなわち民族の集団的記憶と神話的基盤を失った民族は精神的に死滅するという命題は、トインビーの文明論の本質と深く響き合うものであり、その思想的重要性はいささかも減じるものではない。

格言の系譜

しかしながら、学術的な誠実さのために記しておかなければならない事実がある。この格言が、トインビーの著作のどこに書かれているかという出典は、これまで誰にも特定されていない。国立国会図書館のレファレンス調査においても、『歴史の研究』をはじめとするトインビーの主要著作にこの文言に該当する記述は確認されていない。

この格言の変遷を辿ると、以下の系譜が浮かび上がる。

  • 1959年: 戸松慶議が『生存法則論』において「中等学校の卒業生にして自国の古典を知らぬ民族は例外なく滅ぶ」と記述した。これが確認しうる最古の形である。この時点では「古典」であり「神話」ではなかった
  • 1986年: 吉川正文が同様の趣旨を「中等教育を終へたる者にして、その国の古語(古典)を解せざる民族は、例外無く滅びてゆく」と記した
  • 2004年: 出雲井晶が「12〜13歳頃までに自分の国の神話を教えられていない民族は、例外なく滅んでいる」と記し、ここで「古典」が「神話」に置き換えられ、「中等学校卒業」が「12〜13歳」に変化した
  • 2010年以降: 竹田恒泰が『現代語古事記』において「20世紀最大の歴史学者」の言葉としてこの格言を広め、一般に定着した

トインビーが実際に論じたこと

では、トインビーは神話や集団的アイデンティティについて何を論じていたのか。

トインビーは『歴史の研究』において、神話(myth)を歴史分析の重要な手段として用いた。プラトンの影響を受けたトインビーにとって、神話とは虚偽や迷信ではなく、「合理的な精神の到達しえない真理を体現するもの」であった。またユング集合的無意識元型の理論からも影響を受け、神話的イメージが文明の精神的基盤を構成するという認識を持っていた。

さらに重要なのは、トインビーの「魂の分裂」理論である。文明が衰退するとき、人々は集団的な目的意識とアイデンティティを失う。創造的少数者がかつて体現していた「集団的アイデンティティと目的の共有感覚」が失われたとき、文明は内部から崩壊する。これは「民族の神話を忘れた民族は滅びる」という格言が伝えようとしているメッセージと、実質的に同じことを述べている。

したがって、この格言はトインビーの著作からの直接の引用ではないが、トインビーの文明論の核心を正確に要約したものとして評価することができる。出典の曖昧さは批判されるべきであるが、格言の内容そのものは、トインビーの思想と矛盾しない。むしろ、この格言が日本の保守派の間で広く受容されてきた事実は、戦後日本人が自らの民族的アイデンティティの喪失を本能的に感じ取っていることの証左である。

古事記と建国神話の意義

この格言が伝える真理を、日本の文脈に即して具体化すれば、それは古事記日本書紀に記された建国神話の教育的意義の問題となる。

天照大御神の岩戸隠れ、須佐之男命の八岐大蛇退治、神武天皇の東征と、これらの神話は日本民族の精神的原型を構成する物語である。これらの神話を「非科学的」として教育から排除することは、日本民族のアイデンティティの根を断ち切ることにほかならない。

GHQの占領政策は、神道指令(1945年)によって国家神道を解体し、教育から建国神話を排除した。この政策は、トインビーの理論に照らせば、日本文明の精神的基盤を意図的に破壊する行為であった。民族の神話を奪われた日本人は、自らが何者であり、何のために存在するのかという根源的な問いに答えることができなくなった。これこそが、トインビーが言う「魂の分裂」の日本における具現化である。

「西洋は近代最大の侵略者である」

西洋帝国主義への批判

トインビーの思想において、保守ぺディアの反米保守の立場と最も強く共鳴するのは、西洋帝国主義に対する徹底した批判である。

1952年、トインビーはBBCリース講義において「世界と西洋」(The World and the West)と題する連続講演を行い、翌年これを書籍として刊行した。この中でトインビーは、近代の世界史を西洋以外の文明の視点から捉え直すという、当時としては革命的な方法論を提示した。

トインビーの結論は明快であった。「西洋は近代における最大の侵略者である」(The West has been the arch-aggressor of modern times)。この一文は、西洋文明が「自由」「民主主義」「人権」の名の下に世界中の非西洋文明に対して行ってきた軍事的・経済的・文化的侵略を総括する宣言であった。

トインビーが指摘したのは、西洋人が自らの歴史を「世界史」と同一視する傲慢さであった。西洋人にとって、世界史とは「西洋の台頭」の物語にほかならない。ギリシア・ローマから中世キリスト教世界を経て近代国民国家へ、そしてグローバルな自由民主主義の勝利へという一直線の進歩史観。この進歩史観の中で、非西洋文明は「遅れた」「発展途上の」対象として位置づけられ、西洋の「文明化の使命」(civilizing mission)の客体として扱われる。

トインビーはこの構図を根底から覆した。西洋文明は人類史における多数の文明の一つにすぎず、その価値観に「普遍性」はない。西洋が「普遍的」と称する価値観(法の支配、個人の人権、自由市場)は、西洋文明の固有の産物であり、それを全世界に押し付けることは文化的帝国主義にほかならない。

西洋の「二つの顔」

トインビーは『世界と西洋』において、非西洋世界の人々にとって西洋文明が「二つの顔」を持っていたことを指摘した。

一つは技術と効率の顔であり、これは非西洋世界の多くの人々が自発的に受容したものである。鉄道、電信、近代医学、工業技術と、これらの実用的な成果は非西洋世界にとっても有益であった。

もう一つは支配と侵略の顔であり、これは西洋の技術的優位が軍事力に転化され、非西洋世界に強制されたものである。植民地支配、不平等条約、経済的収奪、文化的同化と、西洋文明の拡大は非西洋世界にとって甚大な被害をもたらした。

日本は、この「二つの顔」に対して最も複雑な反応を示した文明である。明治維新において日本は、西洋の技術と制度を積極的に受容する一方で、精神的・文化的な独立を保持しようとした(「和魂洋才」)。しかし1945年の敗戦と占領は、この「和魂」の部分をも破壊した。戦後の日本は、西洋(アメリカ)の技術だけでなく、その価値観・制度・世界観をも全面的に受容する状態に追い込まれた。これは偽日本国憲法に象徴される精神的植民地化の完成である。

帝国主義批判の一貫性

トインビーの西洋帝国主義批判が重要であるのは、それが西洋文明の内部から発せられたものであるという点にある。

トインビーはイギリスの知的エスタブリッシュメントの中心に位置する人物であった。オックスフォード大学で古典学を修め、チャタム・ハウス(王立国際問題研究所)の研究部長として30年近くイギリスの外交政策研究を牽引した。そのようなエスタブリッシュメントの中枢にいた人物が、「西洋は近代最大の侵略者である」と断じたことの意味は大きい。

ただし、保守ぺディアの立場から重要な留保がある。トインビーの帝国主義批判は、同時にナショナリズムへの批判をも含んでいた。トインビーはナショナリズムを「偽りの神」(false god)と呼び、文明の衰退期に現れるナショナリズムと軍国主義を文明崩壊の兆候と見なした。この点において、民族自決権を最上位の価値として据える保守ぺディアの立場とは緊張関係がある。

しかしこの緊張は、トインビーの議論を精密に読み解くことで解消できる。トインビーが批判したのは、西洋近代が生み出した攻撃的・排外的なナショナリズムであり、それは19世紀から20世紀にかけてヨーロッパを二度の世界大戦に導いた破壊的な力であった。一方、保守ぺディアが擁護する民族自決権とは、各民族が自らの運命を自ら決定する権利であり、帝国主義的な外部支配からの解放を意味する。トインビーもまた、帝国主義への抵抗としての民族的覚醒には深い共感を示していた。問題は、民族自決の達成後にそれが攻撃的帝国主義に転化することであり、この点については日本自身の歴史が教訓を与えている。

トインビーと日本

日本文明の位置づけ

トインビーは『歴史の研究』において、日本を極東文明の日本・朝鮮分枝として分類した。中国を極東文明の本体とし、日本はその分枝(offshoot)として位置づけられている。

この分類に対しては、日本文明の独自性を過小評価しているという批判がありうる。ハンティントンは後に『文明の衝突』において日本を独立した文明として分類しており、この見解は日本文明の固有性をより適切に捉えている。しかしトインビーの分類も、日本文明が中国文明から多大な影響を受けて形成されたという歴史的事実を反映したものであり、全面的に否定されるべきものではない。

重要なのは、トインビーが日本を西洋文明の一部とは見なさなかったことである。戦後、日本はアメリカの同盟国として「西側陣営」に組み込まれ、あたかも西洋文明の一員であるかのように振る舞ってきた。しかしトインビーの文明論に従えば、日本は西洋文明とは根本的に異なる文明的基盤の上に立つ社会であり、西洋的な価値観や制度を無批判に受容することは、自らの文明的アイデンティティの否定にほかならない。

日本への訪問

トインビーは生涯に少なくとも三度、日本を訪問している。

1929年京都で開催された太平洋問題調査会の第三回会議に出席し、満州問題について議論した。

1956年の訪日では、アジアにおける反植民地ナショナリズムが「ヨーロッパのナショナリズムと同じくらい偏狭なもの」になる危険性について懸念を表明した。

1967年の第三回訪日は最も充実したものであった。京都産業大学で「来るべき世界都市」「人類の将来」と題する講演を行い、12月6日には皇居において天皇と首相の臨席の下で講演した。また松下幸之助の真々庵を訪問し、伊勢神宮を参拝した。伊勢神宮の芳名帳にトインビーは「私はここ聖地において、すべての宗教が根源的に統一されたものであることを実感する」と記した。

この言葉は、トインビーの宗教観を象徴している。晩年のトインビーは、文明の興亡を超えて存続するのは高等宗教であるという認識に至っており、日本の神道に、普遍的な宗教的真理の一つの現れを見出したのである。

1968年、松下幸之助はトインビー協会を設立した。トインビーの伝記作者ウィリアム・マクニールによれば、この協会は日本のエスタブリッシュメントによるエリート組織であった。トインビーが晩年においてイギリス本国よりも日本で高く評価されていたという事実は、トインビーの非西洋中心主義的な歴史観が日本の知識人に深く響いたことを物語っている。

若泉敬との対話

トインビーと日本の知識人との対話のうち、特に注目すべきは若泉敬との対談『未来を生きる——トインビーとの対話』(1971年)である。

若泉敬は京都産業大学の世界問題研究所所長であり、後に沖縄返還交渉における日本政府の密使としての役割が明らかになった人物である。若泉は沖縄の核密約に関わったことへの責任を感じ、1994年に自死した。

トインビーと若泉の対話は、文明の衝突と共存、核兵器の脅威、人類の将来についての深い議論を含んでいた。若泉が沖縄返還という日米関係の核心的問題に深く関与していた人物であったことを考えれば、この対話はトインビーの文明論と戦後日本の安全保障問題が交差する知的記念碑として読むことができる。

リアリズムの観点からの分析

アメリカ帝国としての「世界国家」

トインビーの文明論を国際政治学的リアリズムの視座から読み解くとき、最も重要な問いは、現代のアメリカ合衆国はトインビーの「世界国家」に該当するかという問題である。

冷戦の終結とソビエト連邦の崩壊(1991年)は、アメリカを世界唯一の超大国とした。この瞬間以降、アメリカは以下の点においてトインビーの世界国家の諸特徴を示している。

  • 軍事的遍在: 世界80ヵ国以上に800以上の軍事基地を展開し、地球上のほぼすべての地域に軍事的プレゼンスを持つ。在日アメリカ軍はその典型例である
  • 経済的支配: ドル基軸通貨体制を通じて世界経済を支配し、SWIFTを武器化して経済制裁を行う
  • 法的普遍主義: 「法の支配」「人権」「民主主義」を普遍的価値として全世界に押し付け、これに従わない国家を「ならず者国家」と断じる
  • 文化的同化: ハリウッド、シリコンバレー、英語の世界的支配を通じて、非西洋文明の文化的独自性を侵食する

トインビーの理論に従えば、世界国家の出現は文明の健全さの証ではなく、衰退の最終段階を示す。世界国家は政治的創造性を窒息させ、支配的少数者の強制によって維持される。そしてやがて、内的プロレタリアートの精神的離反と外的プロレタリアートの圧力によって崩壊する。

ハンス・モーゲンソーが『国際政治―権力と平和』において論じた権力政治の論理を援用すれば、アメリカの世界国家としての地位は、他国の主権を体系的に侵害することによってのみ維持されている。日本の偽日本国憲法、ドイツの再軍備制限、中東諸国の国境線の恣意的な画定と、これらはすべて、アメリカという世界国家が自らの支配秩序を維持するために他国の民族自決権を否定してきた事例である。

アメリカのエリート層の堕落:創造的少数者から支配的少数者へ

トインビーの「創造的少数者の堕落」理論は、現代アメリカのエリート層の変質を驚くほど正確に記述する。

アメリカの建国者たち(ワシントンジェファソンフランクリン)は、イギリス帝国の支配に対する創造的な応戦として共和制を構築した真の創造的少数者であった。彼らは感化によって人々を導き、新たな政治的実験を行った。

しかし現代のアメリカのエリート層は、明らかに支配的少数者に転化している。軍産複合体は軍事力による世界支配を維持し、ウォール街は金融工学によって世界中から富を収奪し、シリコンバレーは情報技術を通じて全世界の市民を監視している。彼らはもはや世界を感化しているのではない。強制しているのである。

この支配的少数者への堕落に伴い、アメリカ国内には内的プロレタリアートが形成されつつある。かつてアメリカン・ドリームを信じた中産階級と労働者階級は、グローバリゼーション新自由主義によって経済的に没落し、文化的にもエリート層から疎外されている。ドナルド・トランプ現象は、この内的プロレタリアートの怨恨の政治的表出として理解できる。

同時に、大量の移民がアメリカ社会の境界を越えて流入し続けている。これはトインビーの外的プロレタリアートの侵入に該当する。人口侵略の問題は、アメリカ帝国自身をも蝕んでいるのである。

戦後日本:精神的植民地化の構造

トインビーの文明論を戦後日本に適用すれば、以下の構造が浮かび上がる。

第一に、挑戦の回避。日本は1945年の敗戦以降、安全保障上の挑戦をアメリカに丸投げしてきた。偽日本国憲法第9条は、日本から軍事的な挑戦への応戦の権利を奪い、アメリカ軍の駐留によって安全保障上の挑戦そのものを消去した。トインビーの理論によれば、挑戦なき文明は成長できない。80年にわたる「挑戦の回避」は、日本文明の成長を停止させ、精神的停滞をもたらした。

第二に、創造的少数者の不在。戦後日本の政治的・知識的エリートは、アメリカの価値観と制度を無批判に受容する「模倣者」であり、日本文明の挑戦に対する独自の応戦を創造する能力を持たない。彼らは日本民族を感化するどころか、アメリカの要求を国内に伝達する「仲介者」として機能している。ジャパンハンドラーの存在は、日本のエリート層がアメリカの支配的少数者の代理人に成り下がっていることの証左である。

第三に、魂の分裂。戦後日本人の精神状態は、トインビーが言う「魂の分裂」の諸相を示している。復古主義的に戦前への回帰を夢見る者、未来主義的に「国際社会」や「地球市民」を語る者、離脱的に政治から撤退して消費文化に埋没する者。しかし超越的な応答——すなわち、戦後の精神的危機に対する新たな創造的応戦——はいまだ現れていない。

第四に、民族神話の喪失。GHQの占領政策(神道指令、教育改革、WGIP)は、日本民族の集団的アイデンティティの基盤である建国神話と歴史的記憶を体系的に破壊した。トインビーの文明論に照らせば、これは日本文明の精神的基盤に対する意図的な攻撃であり、日本民族から「挑戦に応戦する意志」そのものを奪う試みであった。

この構造を打破するためには、日本民族が自らの文明的アイデンティティを回復し、アメリカの支配という挑戦に対する創造的な応戦を行わなければならない。トインビーの「隠遁と復帰」の概念を援用するならば、戦後80年の「隠遁」を、受動的な従属ではなく能動的な精神的鍛錬の期間に転化し、主権国家としての「復帰」を果たすことが求められる。

他の文明論者との比較

シュペングラー:運命としての衰退

トインビーの文明論の最も重要な先行者は、オスヴァルト・シュペングラー(1880年-1936年)である。シュペングラーは『西洋の没落』(Der Untergang des Abendlandes、1918年-1922年)において、文明を生物有機体になぞらえ、すべての文明は誕生・成長・成熟・衰退という不可避のライフサイクルを辿ると論じた。

トインビーとシュペングラーの決定的な相違は、決定論の問題にある。シュペングラーにとって、文明の衰退は生物の老化と同様に不可避である。西洋文明の没落は運命であり、人間の意志によって覆すことはできない。これに対してトインビーは、文明の衰退は必然ではなく、創造的少数者が新たな挑戦に適切に応戦すれば回避しうると論じた。トインビーの歴史観には、シュペングラーにはない人間の主体性が残されている。

保守ぺディアの立場からは、両者の議論はそれぞれ異なる側面で有用である。シュペングラーの決定論的な衰退論は、アメリカ帝国の衰退が不可避であるという認識を強化する。一方、トインビーの「応戦」の概念は、日本民族が自らの運命を自ら決定しうるという希望の根拠を提供する。帝国は衰退する。しかし被支配民族が同じ運命を辿るかどうかは、その民族自身の応戦にかかっている。

ハンティントン:文明の衝突

サミュエル・ハンティントン(1927年-2008年)は『文明の衝突』(The Clash of Civilizations、1996年)において、冷戦後の国際政治の基本的な対立軸がイデオロギーから文明へと移行すると論じた。ハンティントンは、トインビーの文明を歴史の単位とする発想を明示的に継承している。

しかし両者の間には重要な差異がある。

第一に、焦点の違い。トインビーは文明の内的ダイナミクス(挑戦と応戦、創造的少数者の堕落)に焦点を当てたのに対し、ハンティントンは文明間の外的衝突に焦点を当てた。トインビーにとって文明は内部から崩壊するものであり、ハンティントンにとって文明は外部との衝突によって定義されるものである。

第二に、政策的含意の違い。ハンティントンの議論は、アメリカの安全保障政策への提言という色彩が強い。「西洋文明を守るために」異なる文明との衝突に備えよ、というのがハンティントンのメッセージである。これは結局のところ、西洋(アメリカ)の覇権を維持するための戦略論にほかならない。一方、トインビーの議論は、西洋文明そのものの反省と自己批判を含んでいる。「西洋は最大の侵略者である」という認識は、ハンティントンには見られないものである。

第三に、文明間対話への姿勢。トインビーは文明間の対話と相互理解を重視し、晩年には東洋の知識人(若泉敬、池田大作)との対話に積極的に取り組んだ。ハンティントンの「衝突」モデルにはこの対話の契機が乏しい。

保守ぺディアの第四の理論の立場からは、ハンティントンの文明論はアメリカの覇権を前提としている点で不十分であり、トインビーの自己批判的な文明論のほうが知的誠実さにおいて優れている。

ドゥーギン:第四の理論と多極世界

アレクサンドル・ドゥーギン(1962年-)の第四の理論は、トインビーの文明論を最もラディカルに政治的プログラムへと転化したものと評価できる。

トインビーとドゥーギンが共有する根本的な認識は、文明は一つではなく複数であるということである。西洋文明が自らの価値観を「普遍的」と称して全世界に押し付けることは、他の文明の固有性を否定する帝国主義的行為にほかならない。この認識において、トインビーの歴史的分析とドゥーギンの政治哲学は深く合致する。

しかし、両者の間には決定的な差異もある。トインビーは学問的・分析的な歴史家であり、その文明論は記述的・比較的なものであった。ドゥーギンはトインビーの分析を、積極的な政治的行動のプログラムへと転化した。ドゥーギンの第四の理論は、自由主義・共産主義・ファシズムに続く「第四の政治理論」として、各文明がそれぞれの原理に基づいて独自の発展を追求する多極世界の構築を目指す。

トインビーが「文明は一つではない」と観察したのに対し、ドゥーギンは「文明は一つであってはならない」と主張する。トインビーの知的遺産は、ドゥーギンの第四の理論を通じて、現代の反グローバリズム・反覇権主義運動の知的基盤の一つとして機能している。

イブン・ハルドゥーンとの共鳴

トインビーの文明論は、14世紀のイブン・ハルドゥーンの『歴史序説』(ムカッディマ)と深い共鳴を示す。

イブン・ハルドゥーンが提唱したアサビーヤ(集団連帯意識)の概念は、トインビーの「創造的少数者」による文明の牽引と、その衰退による文明の崩壊という図式と構造的に対応する。アサビーヤは安楽の中で弛緩し、困難と外敵との闘争の中で鍛えられる。これはトインビーの「挑戦と応戦」の論理と同一である。

イブン・ハルドゥーンのアサビーヤ論は、保守ぺディアの憎しみが我々を強くするの記事で論じた通り、外敵の認識が集団の結束を強化するという命題を支持するものである。トインビーの文明論もまた、挑戦なき安楽が文明を衰退させることを繰り返し論じている。両者の知的遺産は、安楽と従属が民族を滅ぼし、挑戦と闘争が民族を鍛えるという真理を、異なる時代と文明から証言するものである。

結論

アーノルド・トインビーは、西洋文明の内部から西洋帝国主義を告発し、文明の多元性を学問的に論証した20世紀最大の歴史家の一人である。

トインビーの文明論が現代日本に突きつけるメッセージは明白である。民族の神話を忘れ、挑戦への応戦を放棄し、外部勢力の支配に安住する文明は、自殺的に衰退する。戦後日本はまさにこの衰退の軌道上にある。

しかしトインビーの理論は、同時に一条の希望をも提示する。文明の衰退は不可避ではない。創造的少数者が新たな挑戦に応戦するならば、文明は再生しうる。「隠遁と復帰」のリズムが示すように、強制された隠遁の期間を能動的な精神的鍛錬に転化するならば、復帰の可能性は開かれている。

日本民族に求められているのは、トインビーの言う「創造的少数者」としての覚醒である。アメリカの支配を直視し、民族の神話と歴史的記憶を回復し、偽日本国憲法という精神的な枷を打ち砕き、主権国家として国際社会に復帰すること。それが、トインビーの文明論が日本民族に示す道である。

参考文献

関連項目