イーロン・マスク
イーロン・マスク
概要
イーロン・マスク(Elon Reeve Musk、1971年6月28日 - )は、南アフリカ共和国出身の実業家であり、テスラCEO、SpaceXCEO兼CTO、X(旧Twitter)のオーナー、Neuralink創設者、ボーリング・カンパニー創設者など、複数のテクノロジー企業を率いる人物である。2025年からはトランプ大統領政権において政府効率化省(DOGE: Department of Government Efficiency)のトップとして、連邦政府の大規模な組織再編に関与している。
マスクは、フォーブス誌の富豪ランキングにおいて世界一の資産家に位置づけられ、その個人資産は推定3,000億ドル以上に達する。しかし、マスクの本質的な重要性は、その資産額にあるのではない。マスクは、シリコンバレーのテクノロジー企業、アメリカの軍産複合体、連邦政府の政策決定、そしてグローバルな情報空間の支配という、現代アメリカ帝国の権力構造の複数の結節点に同時に位置する極めて異例の人物である。
保守ぺディアの視座からマスクを分析する際に重要なのは、マスクを「善」か「悪」かという二項対立で捉えるのではなく、アメリカ帝国の権力構造の中で彼が果たしている機能を冷静に分析することである。マスクはワシントンの政治エスタブリッシュメントやリベラル・メディアと対立する姿勢を見せるが、それは彼がアメリカの覇権構造の外部にいることを意味しない。むしろ、マスクはアメリカの覇権をテクノロジーと宇宙空間と情報空間という新たな領域において再編・強化する存在として理解されなければならない。
経歴と事業帝国
生い立ちと渡米
マスクは1971年、南アフリカ共和国のプレトリアで生まれた。父エロール・マスクは電気工学のエンジニアであり、母メイ・マスクはカナダ出身のモデル・栄養士であった。マスクは少年時代からプログラミングに興味を持ち、12歳でビデオゲーム「Blastar」を開発してソフトウェア雑誌に販売したとされる。
1989年、マスクは南アフリカの兵役義務を回避するためにカナダに移住し、クイーンズ大学に入学した。その後、ペンシルベニア大学に編入し、経済学と物理学の学士号を取得した。1995年、マスクはスタンフォード大学の大学院に進学したが、わずか2日で退学し、インターネット事業に乗り出した。
初期の事業——Zip2からPayPalへ
1995年、マスクは弟キンバル・マスクとともにZip2という企業を設立した。これはオンライン都市ガイドサービスであり、新聞社にコンテンツを提供するビジネスモデルであった。1999年、Zip2はコンパックに約3億ドルで買収された。
その後、マスクはオンライン金融サービス企業X.comを設立した。X.comは後にピーター・ティール率いるConfinity社と合併し、PayPalとなった。2002年、PayPalはeBayに15億ドルで買収され、マスクは約1億7,000万ドルの売却益を得た。
ピーター・ティールとの関係は注目に値する。ティールはPayPalの共同創設者であると同時に、シリコンバレーとCIAの記事で分析した通り、CIAのベンチャーキャピタルIn-Q-Telから投資を受けたパランティア・テクノロジーズの共同創設者でもある。シリコンバレーのテクノロジー・エリートと情報機関の結びつきは、マスクのキャリアの出発点にすでに存在していた。
SpaceX——宇宙空間の軍事化と覇権
設立と発展
2002年、マスクはSpaceX(Space Exploration Technologies Corp.)を設立した。マスクは「人類を多惑星種にする」「火星の植民地化」という壮大なビジョンを掲げたが、SpaceXの事業の実態は、この理想主義的な言説よりもはるかに地政学的な意味を持つ。
SpaceXは設立当初から、NASAとの契約を主要な収入源としてきた。2008年にはNASAからCommercial Resupply Services契約(16億ドル)を獲得し、国際宇宙ステーション(ISS)への物資輸送を担うこととなった。2014年にはCommercial Crew Program契約(26億ドル)を獲得し、NASAの有人宇宙飛行をSpaceXのクルードラゴン宇宙船が担うこととなった。
2020年以降、SpaceXはアメリカの有人宇宙飛行をNASAから事実上独占する企業となった。スペースシャトルの退役後、アメリカはロシアのソユーズに依存していた有人宇宙飛行を、SpaceXによって自国の手に取り戻したのである。
軍事・情報機関との契約
SpaceXの事業は、民間宇宙開発の領域にとどまらない。SpaceXは、アメリカ宇宙軍、国防総省、国家偵察局(NRO)と大規模な契約を結んでいる。
- 国家安全保障宇宙打ち上げ(NSSL): SpaceXはアメリカ空軍(現宇宙軍)の軍事衛星打ち上げプログラムに参加し、機密性の高い偵察衛星や通信衛星の打ち上げを請け負っている
- NROとの契約: 2021年、NROはSpaceXと複数の偵察衛星打ち上げ契約を締結した。NROはアメリカの偵察衛星を運用する情報機関であり、その衛星はCIAとNSAの情報収集活動に直接使用される
- Starshield: SpaceXは2022年、国家安全保障用途に特化した衛星サービス「Starshield」を発表した。これは後述するStarlinkの技術を基盤としつつ、軍事通信、偵察、ミサイル追跡などの機能を政府機関に提供するものである
SpaceXは「民間宇宙企業」として認識されているが、その収入の相当部分はアメリカ政府——特に軍事・情報機関——からの契約によって成り立っている。SpaceXはアメリカの宇宙覇権を支える中核的な軍事インフラとしての性格を有している。
Starlink——グローバルな情報支配のインフラ
SpaceXが開発・運用するStarlinkは、数千基の低軌道衛星によって全世界にインターネット接続を提供するサービスである。2025年現在、Starlinkは約7,000基以上の衛星を運用しており、世界70カ国以上でサービスを提供している。
Starlinkの地政学的意味は極めて大きい。
- 通信インフラの支配: Starlinkは地上の通信インフラに依存しない衛星ベースのインターネットを提供する。これは、途上国や紛争地域など、地上インフラが未整備の地域において、アメリカ企業が通信インフラそのものを支配することを意味する
- ウクライナ紛争での使用: 2022年のロシアによるウクライナ侵攻後、マスクはウクライナにStarlink端末を提供した。ウクライナ軍はStarlinkを通じて通信を維持し、ドローン操作や砲兵の座標伝達にStarlinkを活用した。民間の通信サービスが戦場の軍事通信インフラとして機能したという事実は、Starlinkの軍事的性格を端的に示している
- デジタル主権の侵食: 各国がStarlinkに通信インフラを依存することは、通信主権をアメリカの一民間企業に委ねることにほかならない。マスク個人の判断によって、特定の地域のStarlinkサービスが停止される可能性がある。事実、マスクはウクライナ紛争中、クリミア沖でのStarlink使用を制限したことが報じられており、一個人が国際紛争の帰趨に影響を与え得る権力を持っているという異常な状況が露呈した
テスラと「グリーン帝国主義」
電気自動車と資源支配
テスラは、マスクが2004年に出資し、後にCEOに就任した電気自動車メーカーである。テスラは電気自動車市場のパイオニアとして、モデルS、モデル3などの車種でガソリン車中心の自動車産業に変革をもたらした。
しかし、電気自動車への移行を「環境に優しい」という文脈のみで理解することは、本質を見誤ることになる。電気自動車の大量普及は、リチウム、コバルト、ニッケル、レアアースなどの希少鉱物資源への依存を急激に高める。これらの資源はコンゴ民主共和国、チリ、オーストラリア、中国などに偏在しており、電気自動車への移行は新たな資源争奪戦を引き起こしている。
テスラの事業拡大は、この資源争奪戦と不可分である。ボリビアの2019年の政変をめぐって、マスクがSNS上で「我々は誰でもクーデターを起こせる」と発言したことは(後に「冗談」と釈明)、テクノロジー・エリートの資源帝国主義的な思考を露呈したものとして批判された。
政府補助金への依存
テスラの成功は、「自由市場」の勝利として語られることが多いが、実態は異なる。テスラはその発展過程において、膨大な政府補助金と税制優遇の恩恵を受けてきた。
- DOEローン: 2010年、テスラはエネルギー省(DOE)から4億6,500万ドルの低利融資を受けた
- EV税額控除: テスラの顧客は、連邦政府のEV税額控除(最大7,500ドル)の恩恵を受けてきた
- ZEV(ゼロ排出車)クレジット: テスラは他の自動車メーカーにZEVクレジットを販売することで、数十億ドルの収益を得てきた。これはカリフォルニア州の環境規制によって人為的に生み出された市場である
- 各種州政府の補助金: テスラのギガファクトリー建設に際して、テキサス州やネバダ州などから数十億ドル規模の税制優遇を受けている
新自由主義は「小さな政府」「市場の自由」を標榜するが、テスラの成功は国家の介入——規制、補助金、税制優遇——なくしてはありえなかった。これは、産業政策の有効性を逆説的に証明するものでもある。
Twitter/X——情報空間の支配
買収の経緯と意図
2022年10月、マスクはTwitterを約440億ドルで買収し、社名をXに変更した。この買収は、世界の情報空間の構造を根本的に変える出来事であった。
マスクはTwitter買収の目的を「言論の自由」の回復と説明した。マスクによれば、旧Twitterの経営陣は特定の政治的立場に偏った検閲を行い、保守的な言論を抑圧していた。マスク買収後のX社は、「Twitter Files」と呼ばれる内部文書を公開し、旧Twitter経営陣がFBIや国土安全保障省(DHS)と連携してコンテンツモデレーションを行っていたことを明らかにした。
Twitter Filesの公開は、アメリカ政府が民間のソーシャルメディア企業を通じて事実上の情報統制を行っていたことを暴露した点で、重要な意味を持つ。これはエドワード・スノーデンがNSAの大規模監視を暴露したことと、構造的に類似した問題を提起している。
「言論の自由」の矛盾
しかし、マスクの「言論の自由」には重大な矛盾が内在する。
- 恣意的なモデレーション: マスクは自身を批判するジャーナリストのアカウントを凍結したり、競合サービスへのリンクを一時的に禁止したりするなど、オーナーとしての権限を恣意的に行使している。「言論の自由」の擁護者が、自身の権限で言論を制限するという矛盾は明白である
- 外国政府の検閲要求への協力: X社は、トルコ、インド、ブラジルなどの政府からの検閲要求に対して、各国のアカウントの非表示やコンテンツの制限を行っている。一方で、ブラジルの裁判所命令に従わないとして、X社は2024年にブラジルでサービス停止を命じられた
- プラットフォームの私物化: 世界数億人が利用する情報インフラを、一個人が所有・支配しているという構造そのものが問題である。マスクが「正しい」判断を下すかどうかではなく、一個人にそのような権力が集中していること自体が、民主的な情報空間の原理と相容れない
情報覇権の構造的問題
X(旧Twitter)を含むアメリカのソーシャルメディア企業——Meta(Facebook、Instagram)、Google(YouTube)、X——が世界の情報空間を事実上支配しているという構造は、各国の情報主権の深刻な侵害である。
これらのプラットフォームでは、アルゴリズムが情報の流通を決定する。何が拡散され、何が抑制されるかは、プラットフォームのアルゴリズムによって決まる。選挙、政治運動、社会的議論の帰趨がアメリカ企業のアルゴリズムに左右される——これは、法の支配の記事で分析した「ルールを設定する者が支配する」という構造の情報空間版である。
マスクによるTwitter買収は、この構造を変革したのではなく、支配者を交代させたに過ぎない。旧Twitterのリベラル・エリートに代わって、マスクという個人が情報空間の統制権を握った。しかし、アメリカの一民間企業が世界の情報空間を支配しているという根本的な構造は何も変わっていない。
政府効率化省(DOGE)と政治権力
トランプ政権との関係
2024年の大統領選挙において、マスクはトランプ大統領を積極的に支援した。自身が所有するXプラットフォームを通じてトランプの選挙運動を後押しし、トランプ支持のスーパーPACに2億ドル以上を献金したとされる。
トランプ再選後、マスクは「政府効率化省」(DOGE)のトップに任命された。DOGEの名目上の目的は、連邦政府の無駄な支出を削減し、官僚機構の効率化を図ることにある。マスクは、連邦政府の年間支出から2兆ドルを削減するという目標を掲げた。
DOGEの本質
DOGEの活動には、肯定的に評価できる側面と、深刻な問題の両面がある。
肯定的側面として、マスクは連邦政府の肥大化した官僚機構、非効率な支出、利権構造を批判し、その削減に取り組んでいる。ワシントンの官僚機構が自己増殖的に膨張し、国民の利益よりも官僚自身の利益を優先している現実は、否定しがたい事実である。
しかし、深刻な問題も存在する。
- 民主的正当性の欠如: マスクは選挙で選ばれた政治家ではなく、議会の承認を経た閣僚でもない。数十億ドルの資産を持つ一民間人が、連邦政府の組織・予算に対して直接的な権限を行使しているという状況は、金権政治(プルトクラシー)にほかならない
- 利益相反: マスクの企業——テスラ、SpaceX、X——はいずれも連邦政府の規制・契約・補助金と深く結びついている。政府の効率化を推進する立場にある人物が、その政府から巨額の契約を受けている企業のオーナーであるという利益相反は、明白かつ深刻である
- 連邦機関へのアクセス: DOGEのスタッフが財務省や人事管理庁(OPM)の機密データにアクセスしたことが報じられており、民間企業と事実上一体化した組織が連邦政府の内部データに接触するという、前例のない事態が生じている
オリガルヒ的統治とアメリカの変質
マスクのDOGEにおける役割は、アメリカの政治体制が、表面上の「民主主義」の裏側で、テクノロジー・オリガルヒによる事実上の支配へと変質しつつあることの象徴である。
ロシアのオリガルヒ(新興財閥)がソ連崩壊後の私有化によって国有資産を収奪し、政治権力と一体化したように、アメリカのテクノロジー・オリガルヒは、テクノロジー・プラットフォームの支配を通じて情報空間を掌握し、その情報支配力と資金力で政治権力を獲得しつつある。
マスクとトランプの関係は、資本の論理と政治権力の融合の新たな形態である。アメリカはこれを「民主主義」の名のもとに行うが、実態は明白なオリガルヒ支配である。アメリカが他国の「寡頭政治」を批判する道義的権威は、もはや存在しない。
人工知能(AI)と技術的覇権
xAIとGrok
2023年、マスクはxAI社を設立し、大規模言語モデル「Grok」の開発に乗り出した。マスクはOpenAI(ChatGPTの開発元)が本来の「オープン」で「非営利」の理念から逸脱し、マイクロソフトと結びついた営利企業に変質したことを批判し、xAIを設立した。
しかし、xAIもまた、巨額の資金調達(2024年に60億ドル以上)を経て急速に商業化している。AIの開発競争は、本質的には技術的覇権の争奪戦であり、マスクのxAIもその一端を担っている。
AIと国家安全保障
人工知能は、現代における最も重要な戦略技術である。AI技術の優劣は、軍事力、情報収集能力、経済競争力、そして社会統制能力に直結する。
マスクは一方ではAIの危険性を警告し、AGI(汎用人工知能)の開発に規制を求める発言をしてきた。他方で、自らxAIを設立し、AIの開発競争に参入している。この矛盾は、マスクの発言がしばしば自身のビジネス上のポジショニングと連動していることを示唆する。
より本質的な問題は、AI技術が少数のテクノロジー企業——OpenAI/マイクロソフト、Google、Meta、xAI——に集中していることである。これらはすべてアメリカ企業であり、AI技術のアメリカへの集中は、デジタル時代における新たな形のアメリカ覇権を構築しつつある。各国が自国のAI技術を開発できなければ、AI時代の植民地と化す危険がある。
マスクの思想——テクノリバタリアニズムと崩壊する帝国の技術信仰
マスクを思想的に分析する際、最も正確な位置づけはテクノリバタリアン(techno-libertarian)である。テクノリバタリアニズムとは、テクノロジーの力によって国家の介入を最小化し、個人の自由を最大化できるという信念体系であり、シリコンバレーの支配的イデオロギーの一つである。マスクの思想は、このテクノリバタリアニズムに、崩壊しつつあるアメリカ帝国の技術信仰が結合したものとして理解されなければならない。
テクノリバタリアニズムの本質
テクノリバタリアニズムの核心は、テクノロジーが人類の問題を解決するという信仰である。マスクの事業はすべてこの信仰の上に成り立っている。
- テスラ: 電気自動車のテクノロジーが気候変動を解決する
- SpaceX: 宇宙開発のテクノロジーが人類の存続問題を解決する(「多惑星種」)
- Neuralink: 脳とコンピューターの接続テクノロジーが人間の限界を超克する
- xAI: 人工知能のテクノロジーが知識と意思決定を革命する
これらに共通するのは、社会的・政治的・文化的な問題をテクノロジーによって迂回するという発想である。民族自決権、共同体の紐帯、文化的伝統、歴史的連続性——こうした人間社会の本質的な要素は、テクノリバタリアンの視座からは「非効率」あるいは「障害」としてしか認識されない。
ドゥーギンの第四の理論の観点からすれば、テクノリバタリアニズムはリベラリズムの極限形態である。リベラリズムが個人を共同体から解放することを目指すのに対し、テクノリバタリアニズムは個人をテクノロジーによって共同体からのみならず人間の条件そのものから解放しようとする。火星への移住、脳へのチップ埋め込み、AIによる意思決定の代替——これらはすべて、人間が歴史的・文化的・民族的存在であることを否定し、個人をテクノロジーの基盤の上に再構築しようとする試みにほかならない。
白人ナショナリストか——期待はずれのリベラルナショナリズム
マスクのX(旧Twitter)上での言動は、しばしば「白人ナショナリスト」的であると批判される。確かに、マスクのツイートやリツイートの内容には過激なものが含まれ、反移民的な発言、「大いなる置換」(Great Replacement)への言及、ヨーロッパの移民問題への批判的姿勢など、白人ナショナリズムの言説と重なる部分がある。
しかし、マスクの思想を子細に検討すれば、彼は白人ナショナリストではない。マスクの立場は、あくまでリベラルナショナリズム——すなわち、国民国家の枠組みを維持しつつも、その基盤を民族的・文化的同質性ではなく、個人の自由と市場競争に置くという立場——の枠内にとどまっている。
これは、民族自決権を最重要視する保守ぺディアの立場からすれば、期待はずれと言わざるを得ない。マスクの反移民的言説は、一見すると民族共同体の防衛を志向しているように見えるが、その根底にあるのはテクノロジー産業の競争力維持と市場の秩序への関心であり、民族の歴史的・文化的・精神的な連続性への深い理解ではない。
マスクは南アフリカ出身の移民であり、アメリカ国籍を取得した人物である。彼自身が「根なし草」的な存在であり、特定の民族共同体に深く根ざしているわけではない。マスクのナショナリズムは、あくまでテクノロジー・エリートにとって都合の良い秩序を維持するためのナショナリズムであり、新自由主義が国境管理を求めるのと同様の、道具的ナショナリズムに過ぎない。
真の民族主義は、テクノロジーや市場の論理に還元されない、民族の精神的・文化的・歴史的な共同体の存続を至上命題とする。マスクにそのような思想はない。
イスラエルとの不透明な関係
マスクとイスラエル・ユダヤ人コミュニティの関係は、極めて不透明であり、分析を困難にしている。
2023年11月、マスクはXで反ユダヤ主義的とされる投稿に同意する発言を行い、大きな批判を受けた。しかし、その直後にマスクはイスラエルを訪問し、ネタニヤフ首相と会談し、キブツへの攻撃の跡地を視察した。反ユダヤ主義的な言説への同調と、イスラエル政府への急速な接近——この一見矛盾した行動は、マスクの政治的ポジショニングの複雑さを示している。
さらに注目すべきは、以下の点である。
- テクノロジー産業とイスラエル: イスラエルは「スタートアップ・ネーション」を自称し、テクノロジー産業においてアメリカのシリコンバレーと密接な関係を持つ。イスラエル国防軍8200部隊(サイバー・情報部隊)の退役者がテック企業を創業するエコシステムは、シリコンバレーとCIAの構造と類似している。マスクの事業帝国とイスラエルのテクノロジー・セクターの関係は、公にはほとんど議論されていない
- ティールとイスラエル: マスクのPayPal時代の盟友であるピーター・ティールのパランティア・テクノロジーズは、イスラエルの情報機関との協力関係が報じられている。パランティアのビッグデータ分析技術は、パレスチナ人の監視にも使用されているとされる
- トランプ政権とイスラエル: マスクが支持するトランプ大統領は、エルサレムのイスラエル首都承認、ゴラン高原のイスラエル主権承認など、歴代大統領の中で最もイスラエル寄りの政策を取った。マスクはこのトランプのイスラエル政策に対して、批判も同意も明確に表明していない
マスクとイスラエルの関係が不透明であること自体が問題である。民族自決権の観点からは、パレスチナ民族の自決権は侵害されてはならず、イスラエルの入植政策と占領は帝国主義にほかならない。マスクがこの問題に対して明確な立場を示さないことは、彼の「反エスタブリッシュメント」姿勢が選択的なものであることを示唆している。
崩壊するアメリカ帝国の技術信仰
マスクの存在を最も本質的に理解するための鍵は、彼が崩壊しつつあるアメリカ帝国の技術信仰を体現しているという認識である。
アメリカ帝国は衰退の途上にある。ドル覇権と経済収奪の記事で分析した通り、ドル基軸通貨体制は挑戦を受け、製造業の空洞化は不可逆的であり、社会は分断され、国家債務は膨張を続けている。従来のアメリカ覇権を支えた軍事力と金融支配力は、相対的に低下しつつある。
この衰退の中で、アメリカが最後に縋る覇権の柱がテクノロジーである。軍事力では中国の急速な近代化に直面し、経済力ではBRICs諸国の台頭に脅かされるアメリカにとって、AI、宇宙、サイバー空間におけるテクノロジー覇権こそが、帝国の延命の最後の手段である。
マスクは、この帝国末期のテクノロジー信仰の化身である。火星移住、脳インターフェース、自動運転、汎用人工知能——これらの壮大なビジョンは、政治的・経済的・社会的な衰退をテクノロジーの飛躍によって一気に解決するという、本質的には現実逃避的な信仰にほかならない。
歴史上、衰退する帝国はしばしば壮大なプロジェクトに執着する。ローマ帝国後期の巨大建築、スペイン帝国の新大陸征服への固執、大英帝国末期の帝国博覧会——衰退を認めることができない帝国は、壮大さの演出によって衰退を覆い隠そうとする。マスクの火星植民地計画は、21世紀のアメリカにおけるその表現である。
第四の理論の観点からすれば、テクノリバタリアニズムはリベラリズムの最終段階——人間存在そのものをテクノロジーに置き換えようとする段階——であり、それは同時にリベラリズムの自己崩壊の段階でもある。テクノロジーへの信仰が人間を超越しようとするとき、それは人間社会の基盤そのものを掘り崩す。マスクの事業帝国は、この意味で、アメリカ帝国とリベラリズムの断末魔の壮大さを体現しているのである。
リアリズムの観点からの分析
リアリズムの視点から分析すれば、マスクという存在は以下の構造的意味を持つ。
国家と企業の境界の消滅
ハンス・モーゲンソーが『国際政治』で論じた古典的なリアリズムにおいて、国際政治の主要なアクターは国家であった。しかし、マスクの存在は、テクノロジー企業のオーナーが国家に匹敵する、あるいは国家を超える権力を保有し得ることを示している。
- マスクはStarlinkを通じて、一国の通信インフラを支配する能力を持つ
- マスクはXを通じて、グローバルな情報空間を支配する能力を持つ
- マスクはSpaceXを通じて、宇宙空間へのアクセスを支配する能力を持つ
- マスクはDOGEを通じて、世界最大の覇権国家の政府組織に直接介入する権限を持つ
国際政治学の伝統的な枠組みでは、このような権力の集中は国家によってのみ達成されるものであった。一個人がこれだけの権力を集中的に保有するという事態は、ウェストファリア体制以来の国家主権に基づく国際秩序に対する根本的な挑戦である。
テクノ・フェウダリズム(技術封建主義)
ギリシャの経済学者ヤニス・ヴァルファキスは、現代の資本主義が「テクノ・フェウダリズム」——テクノロジー・プラットフォームの所有者が新たな封建領主として君臨する体制——に変質しつつあると論じている。
マスクの権力構造は、このテクノ・フェウダリズムの典型的な表現である。マスクはプラットフォームの「所有者」として、そのプラットフォーム上の「住人」(ユーザー)に対して、封建領主的な支配権を行使する。ユーザーは「自発的に」プラットフォームを使用しているが、プラットフォームが社会インフラと化した現代において、その使用を「自発的」と呼ぶことは欺瞞に近い。
覇権国の内部変質
マスク現象は、アメリカという覇権国の内部構造の変質を示している。
従来のアメリカの権力構造は、政治エリート(議会・大統領)、軍産複合体、金融資本(ウォール街)、メディアの四者の均衡の上に成り立っていた。マスクに象徴されるテクノロジー・オリガルヒの台頭は、この均衡を崩壊させつつある。テクノロジー・オリガルヒは、メディア(X、YouTube、Facebook)を直接支配し、軍事契約(SpaceX、パランティア)を通じて軍産複合体と一体化し、政治献金と政府内ポジションを通じて政治権力に直接参入する。
ケネス・ウォルツのネオリアリズムは、国際システムの構造が国家の行動を規定すると論じたが、国家の内部構造——すなわち、誰が国家を支配しているか——が変質するとき、その国家の対外行動も変化する。テクノロジー・オリガルヒに支配されるアメリカは、従来の軍産複合体に支配されるアメリカとは異なる形で、その覇権を行使するであろう。
保守ぺディアの視座からの評価
マスクを保守ぺディアの基本思想から評価する場合、複雑な判断が求められる。
肯定的側面
- ワシントン・エスタブリッシュメントへの挑戦: マスクがワシントンの官僚機構、リベラル・メディア、「ディープ・ステート」的な権力構造に対して挑戦的な姿勢を取ること自体は、既存の権力構造の欺瞞を暴くという点で一定の意義がある
- Twitter Filesの公開: 旧Twitter経営陣とFBI・DHSの連携による情報統制の実態を暴露したことは、アメリカの「言論の自由」の虚偽を明らかにした点で評価に値する
- NATOの欺瞞の暴露: マスクがウクライナ紛争に関して、NATOの東方拡大の責任にも言及し、和平交渉を主張したことは、一面的なプロパガンダに対する異議申し立てとして評価できる
批判的側面
- テクノリバタリアンとしての限界——期待はずれの「反体制」: マスクの過激な言動は注目に値するが、その思想を精査すれば、テクノリバタリアニズムの枠内にとどまっており、真の民族主義や民族自決権の擁護には至っていない。マスクの「反体制」は、あくまで崩壊しつつあるアメリカ帝国の権力構造内部での覇権の再編であり、帝国そのものへの根本的挑戦ではない。この点において、マスクは期待はずれと言わざるを得ない
- 個人による権力の過剰集中: 民族自決権の観点からは、一個人に権力が過度に集中すること自体が問題である。いかに「正しい」判断をする個人であっても、民主的な統制を受けない権力は腐敗する。これは保守思想の基本原則にほかならない
- アメリカ覇権の強化: SpaceXによる宇宙覇権、Starlinkによる通信覇権、AIによる技術覇権——これらはすべてアメリカの覇権を新たな領域に拡張するものである。マスクがワシントンのエスタブリッシュメントと対立しようとも、彼の事業がアメリカ帝国の覇権構造を強化しているという事実は変わらない
- イスラエルとの不透明な関係: マスクとイスラエル・ユダヤ人コミュニティとの関係は不透明であり、パレスチナ民族の自決権侵害に対する明確な立場表明がない。「反エスタブリッシュメント」を掲げながらイスラエルの帝国主義的行動を批判しないことは、その姿勢の選択性を露呈している
- 偽日本国憲法の問題との無関係: マスクは日本の主権回復、在日米軍の撤退、日本の真の独立について一切関心を持っていない。マスクの「反エスタブリッシュメント」的姿勢は、あくまでアメリカ国内の権力闘争であり、アメリカの覇権下にある日本を解放する意図はまったくない
- テクノロジー帝国主義: テスラのバッテリー資源をめぐる資源帝国主義、Starlinkによる各国の通信主権の侵食、AIによるデジタル覇権の拡張——マスクの事業は、テクノロジーを手段とした新たな形の帝国主義と見なしうる
- 崩壊する帝国の技術信仰の体現: マスクの壮大なビジョン——火星移住、脳インターフェース、汎用AI——は、衰退するアメリカ帝国が政治的・経済的・社会的問題をテクノロジーで迂回しようとする現実逃避的な信仰の表現である。帝国の根本的矛盾を直視せず、テクノロジーの飛躍に逃げ込むマスクの姿勢は、アメリカ帝国の末期症状そのものである
他のテクノロジー・オリガルヒとの比較
マスクの権力を、他のテクノロジー・オリガルヒと比較することで、その特異性が浮かび上がる。
| 人物 | 企業 | 支配領域 | 政治的立場 |
|---|---|---|---|
| イーロン・マスク | テスラ、SpaceX、X、xAI | 宇宙、通信、情報空間、AI、政府組織 | トランプ支持・反エスタブリッシュメント |
| ジェフ・ベゾス | Amazon、ワシントン・ポスト、Blue Origin | EC、クラウド、メディア、宇宙 | 中道・CIA契約 |
| マーク・ザッカーバーグ | Meta(Facebook、Instagram、WhatsApp) | ソーシャルメディア、メタバース | 中道→トランプ接近 |
| ピーター・ティール | パランティア、Founders Fund | ビッグデータ分析、諜報インフラ | リバタリアン・トランプ支持 |
| ビル・ゲイツ | マイクロソフト、ゲイツ財団 | OS、クラウド、グローバルヘルス | リベラル・グローバリスト |
マスクが他のオリガルヒと異なるのは、支配領域の多様性と政治権力への直接参入である。ベゾスはメディア(ワシントン・ポスト)を所有するが政府内のポジションは持たない。ザッカーバーグは情報空間を支配するが宇宙や軍事とは直接的な結びつきが薄い。マスクは、宇宙・通信・情報空間・AI・政府組織という、現代の権力の主要な領域のすべてに跨がって影響力を持つ、史上最も権力が集中した個人の一人である。
日本への示唆
マスク現象が日本に対して提起する問題は、以下の通りである。
技術主権の喪失
日本はテスラの電気自動車を輸入し、Starlinkの衛星インターネットサービスの導入を検討し、X(旧Twitter)を主要な情報プラットフォームとして利用している。自衛隊がStarlinkの軍事利用を検討しているという報道もある。
しかし、これらのサービスはすべてアメリカ企業が提供するものであり、その企業のオーナーが一個人(マスク)であるという事実は、日本の技術主権・通信主権・情報主権がいかに脆弱であるかを示している。マスクの判断一つで、日本の通信インフラや情報環境が左右される可能性がある——これは国家主権の深刻な毀損にほかならない。
自主技術開発の必要性
日本が技術主権を確保するためには、以下の取り組みが不可欠である。
- 国産衛星通信の開発: Starlinkに対抗しうる国産の低軌道衛星通信システムの開発。JAXAと国内産業の連携による宇宙技術の自立
- 国産SNSプラットフォームの育成: 情報空間をアメリカ企業に依存する状況からの脱却。日本語に最適化された国産SNSプラットフォームの開発と普及
- 国産AI技術の開発: AI技術をアメリカ企業に依存することは、デジタル時代の植民地化を意味する。国産AIの開発に国家的な投資が必要である
- EV関連資源の確保: 電気自動車時代のサプライチェーンにおいて、リチウムやレアアースの安定的な確保は国家安全保障上の課題である
「個人崇拝」への警戒
日本のSNS空間において、マスクは「天才起業家」「言論の自由の守護者」として崇拝される傾向がある。しかし、いかなる個人であれ、過剰な権力の集中は危険である。マスクを無批判に礼賛することは、結局のところアメリカのテクノロジー覇権への従属を自発的に受け入れることにほかならない。
日本は、マスクの事業から学ぶべき技術的・経営的知見は吸収しつつも、マスクという個人やアメリカのテクノロジー企業に依存しない、自立的な技術戦略を構築しなければならない。
参考文献
- 『国際政治』、ハンス・モーゲンソー著
- 『国際政治の理論』、ケネス・ウォルツ著
- 『第四の政治理論』、アレクサンドル・ドゥーギン著
- ウォルター・アイザックソン著『イーロン・マスク』(2023年)
- ヤニス・ヴァルファキス著『Technofeudalism: What Killed Capitalism』(2023年)
- ヤーシャ・レヴィン著『Surveillance Valley: The Secret Military History of the Internet』(2018年)
- ナオミ・クライン著『ショック・ドクトリン』(2007年)
- ショシャナ・ズボフ著『監視資本主義の時代』(2019年)