贈与論

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贈与論

概要

贈与論Essai sur le don、1925年)は、フランスの社会学者・人類学者マルセル・モース(Marcel Mauss、1872年 - 1950年)による古典的著作であり、人類社会における贈与(gift)と返礼(counter-gift)の構造を分析した、20世紀社会科学の最も重要な著作の一つである。モースはこの著作において、贈与が単なる物の移動ではなく、社会的紐帯を創出し維持する全体的な社会現象(fait social total)であることを明らかにした。

贈与論の意義は、経済学が前提とする「合理的な個人による等価交換」という人間像を根底から覆した点にある。モースが実証的に示したのは、人類社会の経済活動が、利潤最大化を目指す個人の合理的計算によってではなく、贈与・受領・返礼という三つの義務によって組織されてきたという事実である。市場交換はこの長い歴史のなかで極めて最近に登場した特殊な形態にすぎず、贈与こそが人類社会の経済活動の原型である。

この洞察は、新自由主義が推進する市場原理主義——すべての人間関係を市場取引に還元しようとするイデオロギー——に対する根源的な批判の基盤を提供する。贈与論は、人間が「経済的合理人」(ホモ・エコノミクス)ではなく、社会的紐帯のなかに「埋め込まれた」存在であることを論証した。カール・ポランニーが経済の「埋め込み」を論じた半世紀前に、モースはすでにその核心を看破していたのである。

マルセル・モースの生涯と思想的背景

エミール・デュルケームの甥として

マルセル・モースは1872年、フランスのヴォージュ県エピナルに生まれた。母方の伯父はエミール・デュルケーム(Émile Durkheim、1858年 - 1917年)であり、モースは幼少期からデュルケーム社会学の直接的影響下で育った。デュルケームは社会学の創始者の一人であり、社会的事実(fait social)を個人心理に還元せず社会そのものの次元で分析する方法論を確立した。モースはこの方法論を継承し、さらに民族学的・人類学的な実証研究へと発展させた。

ボルドー大学およびパリ大学で哲学・宗教学・サンスクリット語を学んだモースは、デュルケームが主宰する雑誌『社会学年報』(L'Année sociologique)の中心的な寄稿者となった。モースの学問的特徴は、フィールドワークは行わなかったものの、世界中の民族学的報告書を徹底的に収集・分析し、そこから普遍的な社会法則を導き出す比較方法にあった。

第一次世界大戦と知的喪失

第一次世界大戦(1914年 - 1918年)は、モースの知的生涯に壊滅的な打撃を与えた。師であり伯父であるデュルケームは1917年に死去し、『社会学年報』の若い寄稿者たちの多くが戦死した。フランスの社会学界は一世代分の人材を失った。モースはこの喪失のなかで、デュルケーム学派の遺産を一人で継承し発展させる使命を担った。

『贈与論』が1925年に発表されたことは偶然ではない。第一次世界大戦は、ヨーロッパ文明の自己破壊であり、利潤追求と帝国主義的競争がもたらした惨禍であった。モースが贈与という主題を選んだ背景には、市場的・功利的な人間関係の対極にある、社会的連帯の原理を探求しようとする知的動機があった。戦争が破壊した社会的紐帯を、どのようにして再構築するか。贈与論は、この切実な問いへの回答でもあった。

コレージュ・ド・フランスと知的遺産

モースは1931年にコレージュ・ド・フランスの社会学講座教授に就任し、フランス人類学の基盤を築いた。モースの弟子にはクロード・レヴィ=ストロースがおり、レヴィ=ストロースはモースの贈与論を構造主義的に再解釈して人類学を革新した。モースの影響は、ジョルジュ・バタイユの蕩尽論、ピエール・ブルデューの象徴資本論、そしてカール・ポランニーの互酬論へと広がり、20世紀の社会科学全体に深い刻印を残した。

『贈与論』の中心命題:三つの義務

贈与の義務

モースが『贈与論』において提示した最も根本的な命題は、贈与が三つの義務——与える義務(obligation de donner)、受け取る義務(obligation de recevoir)、返す義務(obligation de rendre)——によって構成されるということである。

第一の義務、「与える義務」は、共同体の成員が他の成員に対して贈り物をしなければならないという社会的規範である。これは「気前のよさ」や「善意」の問題ではなく、社会的義務である。贈与しない者は、共同体から排除される。メラネシアの社会においては、首長が惜しみなく贈与する能力こそが権威の源泉であった。贈与を渋る首長は「顔を失い」、地位を喪失する。

日本における「お歳暮」「お中元」の慣習は、この贈与の義務の典型的な表現である。年末年始に世話になった人へ贈り物を届けることは、単なる習慣ではなく、社会的紐帯を維持するための義務的行為である。贈与を怠る者は「礼儀知らず」として社会的評価を失う。

受領の義務

第二の義務、「受け取る義務」は、贈り物を差し出された者はそれを拒絶してはならないという規範である。贈与の拒絶は、贈与者に対する侮辱であり、社会関係の拒絶を意味する。贈り物を受け取ることは、贈与者との社会的関係を承認し、その関係の継続に同意する行為にほかならない。

北アメリカのクワキウトル族(クワクワカワクゥ族)の社会においては、ポトラッチ(potlatch)の場で贈り物を拒絶することは、戦争に等しい敵対行為とみなされた。受領の拒絶は、相手の社会的地位を否定し、関係の断絶を宣言する行為であった。

この原理は、国際政治においても機能する。外交における贈答は、国家間の友好関係を表現する儀礼であるが、贈答の拒絶は敵意の表明として解釈される。贈与と受領は、戦争と平和を分かつ境界線なのである。

返礼の義務

第三の義務、「返す義務」は、贈り物を受け取った者が、適切な時期に適切な対価をもって返礼しなければならないという規範である。返礼しない者は、贈与者に対して「借り」を負い続け、社会的に従属的な地位に置かれる。

ここに贈与と市場交換の決定的な差異がある。市場交換においては、対価が即座に支払われ、取引は完結する。売買が成立した瞬間に、買い手と売り手の間の関係は消滅する。これに対し、贈与においては、返礼までの「時間差」が社会的紐帯を持続させる装置として機能する。贈与から返礼までの間、贈与者と受領者は互いに結びつけられた関係のなかにある。返礼が即座に行われれば、それは贈与ではなく市場交換に転化してしまう。

モースが発見したこの「時間差」の原理は、極めて重要な含意を持つ。市場交換は関係を消滅させ、贈与は関係を創出する。市場社会が人間関係を希薄にするのは、すべての取引が等価交換として即座に完結し、人間と人間の間に持続的な紐帯が生まれないからにほかならない。

贈与と返礼の構造:ハウの概念

物に宿る霊力「ハウ」

モースが『贈与論』において、返礼の義務の根拠を説明するために援用した中心的概念が、マオリ族の「ハウ」(hau)である。ハウとは、物に宿る霊力、あるいは「物の精霊」を意味する。

モースは、マオリ族の長老タマティ・ラナイピリ(Tamati Ranaipiri)が民族学者エルスドン・ベスト(Elsdon Best)に語った証言を引用する。ラナイピリの説明によれば、ある人物Aが物をBに贈り、BがそれをCに贈った場合、CがBに返礼として贈った物には、元の贈与者Aの「ハウ」が宿っている。したがって、BはCから受け取った物をAに返さなければならない。なぜなら、その物にはAのハウが含まれており、ハウは本来の持ち主のもとに帰ろうとするからである。ハウを自分のもとに留め置くことは危険であり、病気や死をもたらすと信じられていた。

モースにとって、ハウの概念は単なる「未開社会の迷信」ではなく、贈与の根源的な構造を表現するものであった。贈与された物には、贈与者の人格の一部が付着している。物を受け取ることは、贈与者の人格の一部を受け入れることであり、返礼しないことは、他者の人格の一部を不当に領有し続けることを意味する。贈与とは、物の移動であると同時に、人格の移動である

「全体的給付」としての贈与

モースはハウの概念を手がかりに、贈与が単なる経済取引ではなく「全体的給付」(prestation totale)であることを論じた。全体的給付とは、経済的・法的・宗教的・美的・道徳的な諸側面が分化せずに一体となっている社会現象を指す。

近代社会においては、経済活動は法律・宗教・道徳から切り離された独立の領域として存在する。商品を購入するとき、我々は売り手の宗教的信条にも道徳的人格にも関心を持たない。取引は純粋に経済的なものとして完結する。

しかし、贈与においてはこの分離が存在しない。贈与は同時に、経済行為(財の移転)であり、法的行為(義務の発生)であり、宗教行為(霊力の交換)であり、政治行為(権力関係の設定)であり、道徳行為(名誉と威信の表現)である。モースはこれを「全体的社会現象」(fait social total)と呼んだ。

この概念は、近代経済学が「経済」を社会の他の領域から切り離して分析することの限界を示している。カール・ポランニーが後に「経済の脱埋め込み」として批判したのは、まさにこの分離——経済活動を社会関係全体から引き剥がし、自律的な領域として扱うこと——であった。モースの全体的給付の概念は、経済が社会に「埋め込まれた」状態の具体的な姿を描写するものにほかならない。

贈与における時間と信頼

贈与の構造において、時間は決定的な役割を果たす。この点は、贈与と市場交換の本質的差異を理解するうえで極めて重要である。

市場交換においては、取引は同時的である。商品と代金は即座に交換され、取引の当事者は互いに対する義務から解放される。取引が完了した瞬間に、関係は消滅する。市場交換の時間構造は「点」であり、持続性を持たない。

これに対し、贈与の時間構造は「線」である。贈与から返礼までの間には、必ず時間的間隔が存在する。この間隔の間、贈与者と受領者は「借り」と「貸し」の関係に置かれ、社会的紐帯が維持される。返礼が即座に行われることは、むしろ無礼とされる場合がある。なぜなら、即座の返礼は「借りを作りたくない」という拒絶の意思表示であり、贈与関係そのものの否定を意味するからである。

ピエール・ブルデューは後にこの時間的間隔の意義を精緻に分析し、贈与と返礼の間の時間差こそが、贈与を市場交換から区別する本質的要素であると論じた。即座の返礼は等価交換に転化し、返礼の不在は搾取に転化する。贈与が贈与として成立するためには、適切な時間差が不可欠なのである。

この時間差は、信頼(trust)を前提とし、また信頼を産出する。贈与者は、受領者がいずれ返礼するであろうという信頼のもとに贈与する。受領者は、贈与者が返礼を気長に待ってくれるであろうという信頼のもとに受領する。贈与は信頼を前提とし、信頼を再生産する循環的な装置である。市場交換がこの信頼を必要としないのは、即座の等価交換によって「裏切り」のリスクが排除されるからである。市場は信頼の代替物であり、信頼なき社会における取引の方法にほかならない。

贈与の非対称性と権力

モースの分析が示すもう一つの重要な側面は、贈与の本質的な非対称性である。贈与は、表面上は友好と寛大さの表現であるが、その構造のなかには権力関係が内在している。

返礼できないほどの贈与を受けた者は、贈与者に対して従属的な地位に置かれる。贈与者は受領者に対して道徳的優位を獲得し、受領者は「借り」を負ったまま、贈与者の影響下に入る。このメカニズムは、ポトラッチにおいて最も顕著な形で発現する。ポトラッチにおいて首長が膨大な財を贈与するのは、相手が返礼できないほどの贈与によって、相手を道徳的・社会的に圧倒するためである。

この贈与の権力構造は、国際政治においても明瞭に観察される。アメリカが戦後日本に対して行った「援助」——ガリオア・エロア資金による経済復興支援——は、形式上は「贈与」であったが、その実態は、返礼不可能な贈与によって日本を従属的地位に固定する権力装置であった。返礼できない贈与を受けた者は、贈与者に対して永続的な「恩義」を負い、自律的な判断を制約される。「恩知らず」という烙印を避けるために、受領者は贈与者の意向に逆らえなくなる。

贈与は、平和の手段であると同時に、支配の手段である。モースが明らかにしたこの二面性は、国際関係における「援助」の本質を理解するうえで不可欠な視座を提供する。

ポトラッチ:蕩尽と破壊の贈与

北西海岸インディアンの闘争的贈与

モースが『贈与論』において最も詳細に分析した事例が、北アメリカ北西海岸の先住民族——クワキウトル族(クワクワカワクゥ族)、トリンギット族ハイダ族——における「ポトラッチ」(potlatch)の慣習である。ポトラッチとは、チヌーク・ジャーゴンで「与える」「食べさせる」を意味し、首長が対抗する首長に対して、膨大な量の財を贈与し、あるいは公然と破壊する儀礼的な祝宴を指す。

モースの分析は、フランツ・ボアズ(Franz Boas)による詳細な民族誌的記録に基づいている。ボアズが記録したクワキウトル族のポトラッチにおいては、首長が大量の銅板、毛布、キャンドルフィッシュの油、カヌーなどを対抗する首長に贈与した。贈与を受けた首長は、それを上回る量の財を返礼しなければならない。返礼できなければ、その首長は名誉を失い、社会的地位を剥奪された。

ポトラッチの最も極端な形態においては、首長は財を贈与するのではなく、公衆の面前で破壊する。貴重な銅板を海に投げ込み、毛布を焼き、キャンドルフィッシュの油を火にくべて大火災を起こす。対抗する首長がそれ以上の破壊を行えなければ、破壊した首長が勝者となる。

ポトラッチの論理:名誉と威信の経済

西洋近代の経済学からすれば、ポトラッチは「非合理」の極致に見える。財を蓄積するのではなく破壊する。利潤を追求するのではなく蕩尽する。しかしモースは、ポトラッチが独自の合理性を持つことを明らかにした。

ポトラッチの論理において、財の蓄積は恥辱であり、財の放出こそが名誉である。首長の権威は、どれだけ多くの財を所有しているかによってではなく、どれだけ多くの財を贈与し、あるいは破壊できるかによって測られる。蓄積は吝嗇の証であり、放出は偉大さの証である。

この論理は、市場経済の論理とは根本的に対立する。市場経済において富は蓄積の対象であり、蓄積された富は資本として投資され、さらなる富を生み出す。ポトラッチにおいて富は放出の対象であり、放出された富は名誉と威信という「象徴資本」(ブルデューの概念)に変換される。市場経済は経済資本の論理に従い、贈与経済は象徴資本の論理に従う

モースはポトラッチを「闘争的贈与」(prestation agonistique)と呼んだ。ポトラッチは戦争の代替物である。贈与によって相手を圧倒することは、武力によって相手を打倒することの儀礼的な等価物にほかならない。モースの表現を借りれば、ポトラッチとは「財産の戦争」であり、「毛布を敷き詰めた戦場で行われる戦争」である。

カナダ政府によるポトラッチの禁止

ポトラッチの歴史において見過ごせない事実は、カナダ政府が1885年から1951年まで、ポトラッチを法律で禁止したことである。カナダ政府とキリスト教宣教師は、ポトラッチを「浪費」「非合理」「野蛮」として禁止し、違反者を逮捕・投獄した。

この禁止は、帝国主義の文化的側面を端的に示している。ポトラッチの禁止は、先住民族の固有の経済体系を破壊し、市場経済に強制的に組み込むための政策であった。贈与と蕩尽に基づく経済体系を「非合理」として否定し、蓄積と利潤追求に基づく市場経済を「合理的」として強制する。「合理性」の名の下に行われた文化的ジェノサイドにほかならない。

先住民族の経済体系を破壊した上で、その土地と資源を「市場」に開放する。これは、ポランニーが分析したイギリスのエンクロージャーと構造的に全く同一であり、アメリカが新自由主義の名の下に各国の経済的自律性を破壊する構造とも同一である。

クラ交易:円環する贈与

トロブリアンド諸島の交換体系

モースが『贈与論』で分析したもう一つの重要な事例が、トロブリアンド諸島を中心とするメラネシアの島々における「クラ」(Kula)交易である。この事例は、ブロニスワフ・マリノフスキ(Bronisław Malinowski)の名著『西太平洋の遠洋航海者』(Argonauts of the Western Pacific、1922年)によって詳細に記録された。

クラ交易とは、メラネシアの複数の島々を結ぶ環状の交換体系であり、二種類の貴重品——腕輪(ムワリ、mwali)と首飾り(ソウラヴァ、soulava)——が、互いに逆方向に島から島へと循環する。腕輪は反時計回りに、首飾りは時計回りに、数年をかけて環状のルートを一巡する。

クラ交易の最も重要な特徴は、交換される貴重品は「所有」されるのではなく「保持」されるという点にある。腕輪も首飾りも、受け取った者のもとに永久にとどまることはない。一定期間保持された後、次の交換相手に贈与される。貴重品はいわば「旅をする物」であり、特定の個人や集団に帰属することなく、島々の間を永遠に循環し続ける。

クラの社会的機能

クラ交易において循環する貴重品には、それ自体としての「使用価値」はほとんどない。腕輪も首飾りも、装飾品としてはほとんど用いられず、日常的な消費の対象でもない。貴重品の「価値」は、その物が辿ってきた歴史——かつて誰の手を経たか、どのような名前を持つか——によって規定される。著名な首長の手を経た貴重品ほど高い威信を帯び、それを一時的にでも保持することは、保持者の名誉と地位を高める。

クラ交易の機能は、経済的というよりも政治的・社会的である。クラによって結ばれた島々の首長たちは、互いに「クラ・パートナー」としての関係を持ち、この関係は世代を超えて継承される。クラ・パートナー同士は、相互に安全な航海を保障し、敵対行為を自制し、食料や情報を交換する。クラ交易は、島々の間に平和的な秩序を創出する装置であった。

モースが注目したのは、クラ交易がマリノフスキーの言う「純粋な贈与」(返礼を期待しない一方的な贈与)ではなく、贈与と返礼の義務によって構成された体系的な交換であるという点であった。クラにおいては、腕輪を受け取った者は首飾りで返礼しなければならない(あるいはその逆)。返礼の義務を怠る者は、クラの環から排除され、社会的ネットワークを失う。

クラと共同体の安全保障

クラ交易の本質を、国際政治学の枠組みで再解釈すれば、それは贈与による安全保障体制にほかならない。海上に散在する島嶼社会にとって、他の島々との敵対は生存の危機を意味する。航海中に敵対的な島に上陸すれば殺害される。交易が途絶すれば、自給できない資源(石、黒曜石、食料など)が枯渇する。

クラ交易は、この安全保障上の課題に対する、贈与を手段とした制度的解決であった。貴重品の循環的交換は、島々の間に恒常的な平和関係を創出し、航海の安全を保障し、副次的な交易(ギムワリ、gimwali)——日常的な物々交換——を可能にした。

ここに、贈与と市場交換の機能的差異が明確に現れる。市場交換は取引の完結とともに関係を消滅させるが、贈与は関係を持続させ、安全保障を提供する。市場的な一回限りの取引では、島々の間に持続的な平和を構築することはできない。返礼の義務という「借り」が常に存在し続けることこそが、関係の持続を保障するのである。

贈与経済と市場経済の比較

モースの贈与論が提示する最も根源的な問いは、贈与経済と市場経済はいかなる点で異なるのか、そして市場経済への移行によって人類社会は何を失ったのかという問題である。以下では、贈与と市場交換の構造的差異を体系的に比較する。

関係の創出と関係の消滅

贈与と市場交換の最も根本的な差異は、人間関係に対する効果にある。

贈与は関係を創出する。贈与する行為は、贈与者と受領者の間に社会的紐帯を生み出す。返礼の義務が両者を結びつけ、この関係は返礼が完了するまで——さらに言えば、新たな贈与が繰り返されることによって永続的に——維持される。贈与の連鎖が繰り返されるほど、関係は強化される。

市場交換は関係を消滅させる。代金の支払いによって、買い手と売り手の間の一切の義務は消滅する。取引が完了した瞬間に、両者は「赤の他人」に戻る。市場においては、取引相手の人格は無関係であり、重要なのは商品の品質と価格のみである。市場交換は、人間と人間の関係を、物と物の関係に還元する

この差異は、共同体の存続にとって決定的な意味を持つ。共同体とは、成員間の持続的な社会的紐帯によって構成される。贈与の反復は共同体を再生産するが、市場交換の反復は共同体を生産しない。市場化が進行するほど、共同体は解体する。なぜなら、人間関係がすべて市場交換(等価交換の即時完了)に置き換えられるとき、人間と人間を結びつける持続的な紐帯は消滅するからである。

人格と物の分離不可能性と分離

贈与と市場交換の第二の構造的差異は、人格と物の関係にある。

贈与において、物は贈与者の人格から分離されない。モースがハウの概念を通じて示した通り、贈与された物には贈与者の「人格の一部」が付着している。贈り物を受け取ることは、贈与者との人格的関係に入ることを意味する。このため、誰から贈り物を受け取るかは、極めて重大な選択である。不適切な人物からの贈与を受け取ることは、その人物との社会的関係を承認することを意味するからである。

市場交換において、商品は売り手の人格から完全に分離される。商品の価値は、その物理的性質と市場における需給関係によって規定される。誰がその商品を製造し、誰が販売しているかは、商品の「価値」とは無関係である。市場交換は、物を人格から引き剥がし、純粋な「商品」に変換する

カール・ポランニーが「擬制商品」として批判したのは、まさにこの人格と物の分離を、本来分離できないもの(土地・労働・貨幣)にまで拡張する行為である。土地は共同体の生活の場であり(人格から分離できない)、労働は人間の活動そのものであり(人格そのものである)、貨幣は共同体の信用の表現である(共同体の人格から分離できない)。これらを「商品」として扱うことは、ハウを無視して物を流通させることと同じである。

等価性の原理と非等価性の原理

市場交換は等価交換の原理に基づく。商品と代金は等価であり、この等価性が取引の成立条件である。等価交換においては、どちらの当事者も「得をした」とも「損をした」とも感じないことが理想とされる。

贈与は非等価性の原理に基づく。贈与と返礼は、原則として等価ではない。むしろ、返礼は受け取ったものよりもわずかに多くなければならない(あるいは、そのように感じられなければならない)。この非等価性が、贈与の連鎖を駆動する。もし贈与と返礼が厳密に等価であれば、それは市場交換と区別がつかなくなる。

ポトラッチにおいて、返礼が受け取った量を上回らなければならないのは、この非等価性の原理の極端な表現である。受け取ったものと同量の返礼は、「精算」すなわち関係の終了を意味する。それ以上の返礼は、関係の継続と、自らの優位の主張を意味する。

この非等価性は、一見すると「不合理」に見える。しかし、非等価性こそが贈与関係を持続させるエンジンなのである。等価交換は関係を終結させ、非等価交換は関係を持続させる。常にわずかな「借り」が残り続けることが、次の贈与を促し、関係の連鎖を生み出す。

匿名性と人格性

市場交換の特徴は、匿名性(anonymity)にある。市場においては、取引相手が誰であるかは原則として無関係である。同じ商品が同じ価格で提供される限り、取引相手がAであろうとBであろうと差異はない。現代の電子商取引においては、買い手と売り手は一切の人格的接触なしに取引を完了する。

贈与の特徴は、人格性(personality)にある。贈与は、特定の人格と特定の人格の間で行われる。誰に贈るか、何を贈るか、いつ贈るかは、すべて当事者間の人格的関係によって規定される。贈り物は、贈与者の受領者に対する理解と配慮を表現するものであり、不適切な贈り物は関係の理解の欠如として否定的に評価される。

日本の「お歳暮」「お中元」において、贈り物の選択が極めて慎重に行われるのは、贈り物が贈与者の人格と受領者に対する理解の表現だからである。コンビニエンスストアで買った安価な商品を無造作に贈ることは、関係の軽視として受け取られる。逆に、相手の嗜好や状況を的確に反映した贈り物は、関係の深さと理解の深さを表現する。

市場が匿名の空間であるのに対し、贈与は人格の空間である。新自由主義が推進する市場化とは、人格の空間を匿名の空間に置き換えることにほかならない。共同体のなかで名前と顔を持った人間同士が営む贈与の関係が、名前も顔もない匿名の「消費者」と「供給者」の関係に置き換えられる。この匿名化こそが、共同体を解体する核心的なメカニズムである。

比較の総括

贈与と市場交換の構造的差異を、以下に整理する。

項目 贈与経済 市場経済
人間関係 関係を創出し持続させる 関係を消滅させる
人格と物 分離不可能(ハウ) 完全に分離(商品化)
等価性 非等価(わずかな「借り」が残る) 等価(即時精算)
時間構造 持続的(贈与→返礼の時間差) 瞬間的(即時完了)
当事者 人格的(誰であるかが重要) 匿名的(誰でもよい)
信頼 信頼を前提とし再生産する 信頼を不要にする(契約で代替)
共同体 共同体を再生産する 共同体を解体する
富の意味 放出するもの(名誉) 蓄積するもの(資本)
目的 社会的紐帯の維持 利潤の最大化

この比較が示す結論は明白である。市場経済は、贈与経済が果たしていた社会的機能——共同体の再生産、信頼の創出、人格的関係の維持——を体系的に破壊する。市場化が進行するほど、共同体は空洞化する。新自由主義がすべての人間関係を市場取引に還元しようとするとき、共同体を構成する社会的紐帯のすべてが消滅する。

ゲマインシャフトの贈与とゲゼルシャフトの市場

贈与はゲマインシャフトの血液である

フェルディナント・テンニースが提示したゲマインシャフトとゲゼルシャフトの対立は、モースの贈与論が分析した贈与と市場交換の対立と、構造的に正確に対応する。

ゲマインシャフト(共同体)とは、血縁・地縁・精神的紐帯に基づく有機的な人間結合であり、「本質意志」(Wesenwille)——計算によらない愛着・習慣・信仰——によって結ばれた社会である。ゲゼルシャフト(利益社会)とは、契約・利害計算に基づく機械的な人間結合であり、「選択意志」(Kürwille)——合理的打算——によって結ばれた社会である。

贈与はゲマインシャフトの経済的表現にほかならない。ゲマインシャフトにおいて、人間関係は本質意志に基づく——すなわち、利害計算を超えた愛着と義務の感覚に基づく——ものであり、この関係を物質的に表現し再生産するのが贈与と返礼の体系である。贈与は「得になるから贈る」のではなく、「関係がそうさせるから贈る」のである。贈り物の選択には、相手への配慮と理解が込められる。これはまさに本質意志の発動である。

市場交換はゲゼルシャフトの経済的表現にほかならない。ゲゼルシャフトにおいて、人間関係は選択意志に基づく——すなわち、利害計算と合理的打算に基づく——ものであり、すべての取引は費用対効果の計算によって決定される。市場における取引相手の選択は、「誰であるか」ではなく「いくらで売るか」によって決まる。人格は無関係であり、重要なのは価格と品質のみである。

したがって、贈与体系の破壊はゲマインシャフトの破壊であり、市場交換の浸透はゲゼルシャフト化にほかならない。新自由主義が推進する市場化とは、テンニースの用語で言えばゲマインシャフトをゲゼルシャフトに置き換えることであり、モースの用語で言えば贈与を市場交換に置き換えることである。結論は同一である。共同体は解体される

ゲゼルシャフトにおける贈与の疑似形態

興味深いのは、ゲゼルシャフト化が進行した社会においても、贈与の「形式」は残存するが、その「本質」が変質するという現象である。

企業間の「接待」や「贈答」は、形式上は贈与であるが、その動機は本質意志ではなく選択意志——すなわち利益獲得の打算——に基づいている。接待の目的は人格的関係の構築ではなく、取引の獲得であり、接待費は「投資」として計上される。これは贈与の外形をまとった市場交換であり、ゲゼルシャフト的な贈与の疑似形態である。

同様に、現代の「ふるさと納税」は返礼品を目当てに行われる「投資」であり、贈与の外形をまといながらも、その実態は市場的な費用対効果の計算に基づいている。これは贈与の名による市場交換の浸食であり、ゲマインシャフト的な贈与の論理がゲゼルシャフト的な市場の論理に置き換えられる過程の具体的な表現にほかならない。

ゲマインシャフトの「貸し借り」と信用

ゲマインシャフトにおける贈与の体系は、共同体内部の「貸し借り」のネットワークとして機能する。この「貸し借り」は、金融的な債権債務とは本質的に異なるものである。

ゲマインシャフトの「貸し借り」は、人格的信頼に基づく。返済期限も利子率も契約書もない。「借り」は共同体の記憶のなかに保持され、適切な時期に適切な形で「返される」。この不定形の「貸し借り」が、共同体の成員を相互に結びつける紐帯として機能する。

ゲゼルシャフトの債権債務は、契約に基づく。返済期限、利子率、担保、不履行時の制裁が明文化される。当事者の人格は無関係であり、重要なのは契約条件のみである。債権債務は人格から完全に切り離された「商品」として売買される(債権の証券化)。

ゲマインシャフトの「貸し借り」が共同体を結合するのに対し、ゲゼルシャフトの債権債務は当事者を支配する。共同体内部の「借り」を返す行為は関係の再確認であるが、金融機関への債務返済は関係の清算である。近代金融の発展は、人格的な「貸し借り」を非人格的な債権債務に置き換える過程であり、贈与体系の金融化(ゲゼルシャフト化)にほかならない。

返礼なき贈与と怒りの構造

返礼の不在が生む「正当な怒り」

モースの贈与論が明らかにした三つの義務のなかで、最も破壊的な結果をもたらすのは、返礼の義務の不履行である。贈与に対して返礼がなされないとき、贈与者のなかには深い怒りが生じる。この怒りは個人的な感情の問題ではなく、社会的秩序の根幹に関わる構造的な問題である。

贈与は贈与者の人格の一部を含んでいる(ハウの概念)。返礼がなされないことは、贈与者の人格が軽視されたことを意味する。さらに、返礼の不在は社会関係の一方的な断絶——すなわち、共同体の規範に対する侵犯——を意味する。贈与の体系において、返礼の拒否は宣戦布告に等しい行為であった。

北西海岸インディアンのポトラッチにおいて、返礼できない者が社会的地位を剥奪されたのは、返礼の不在が共同体の秩序に対する脅威と見なされたからである。返礼しない者は、「借り」を踏み倒す者であり、共同体の規範を無視する者であり、したがって共同体から排除されるべき者であった。

国際関係における「返礼なき収奪」と怒り

この構造を国際関係に適用すれば、現代世界における「反米感情」の構造が明瞭になる。

アメリカは、自由貿易と市場開放を世界中に「贈与」した——とアメリカ自身は主張する。しかし、この「贈与」に対するアメリカの期待する「返礼」は、各国の市場開放、規制緩和、アメリカ企業の利益保障、そして政治的従属であった。つまり、アメリカの「贈与」は返礼を強制するポトラッチ型の権力装置であった。

しかし、問題はそこにとどまらない。アメリカは各国に対して「贈与」を行ったと称するが、実際にはアメリカこそが各国から一方的に収奪してきた側面がある。ドル覇権を通じた富の吸い上げ、知的財産権を通じた技術的支配、軍事力を背景にした政治的従属の強制。これらは贈与ではなく、返礼なき一方的な収奪である。

収奪された側には、モースが分析した「返礼なき贈与」に対する怒りと同質の怒りが蓄積される。しかし、この怒りは「反米」「反グローバリズム」「ポピュリズム」といったレッテルによって非合理的な感情として片づけられる。モースの枠組みから見れば、この怒りは全く正当なものである。互酬の原理が破壊されたとき、怒りは必然的に生じる

日本国民の怒りと「恩知らず」の論理

日本において、アメリカの内政干渉や構造改革要求に対する怒りが表面化しにくいのは、前述の「返礼不可能な贈与」の構造が機能しているからである。「戦後復興を助けてもらった」「安全保障を提供してもらっている」という贈与の言説が、日本国民の怒りを抑圧する装置として機能する。

アメリカの要求に逆らおうとする者は、「恩知らず」「反米」というレッテルを貼られる。モースの枠組みで見れば、これは贈与者が受領者の自律性を封じるためのメカニズムにほかならない。返礼不可能な贈与を押し付け、その「恩」を盾にして受領者の自由を奪う。これがポトラッチ型の支配の本質である。

しかし、互酬の原理が破壊され続ければ、怒りは必ず噴出する。日本における反米保守の台頭は、カール・ポランニーが分析した「社会の自己防衛運動」(二重運動)であると同時に、モースの枠組みで言えば互酬を回復しようとする共同体の本能的反応である。

債権・債務と贈与:貸し借りの二つの論理

贈与的「貸し借り」と金融的債権の分岐

贈与と債権は、ともに「貸し借り」の関係を生み出すが、その性質は根本的に異なる。この差異を理解することは、現代の金融資本主義を批判的に分析するうえで不可欠である。

贈与的「貸し借り」は、以下の特徴を持つ。

  • 不定形性:返礼の時期、形態、規模は明確に規定されない。「適切な時期に適切な形で返す」という漠然とした義務が存在するのみである
  • 人格性:「貸し借り」は特定の人格間の関係であり、第三者に譲渡できない。AがBに対して負う「借り」を、Cが引き受けることはない
  • 共同体的記憶:「貸し借り」は契約書ではなく、共同体の集合的記憶のなかに保持される
  • 関係強化:「貸し借り」の存在が、当事者間の関係を持続させ強化する。「貸し借り」のない関係は、関係がないに等しい

金融的債権は、以下の特徴を持つ。

  • 定形性:返済の時期、利率、条件が契約で明確に規定される
  • 非人格性:債権は人格から切り離され、第三者に自由に売買される(債権の証券化)。AがBに対して持つ債権を、Cに売ることができる
  • 文書的記録:債権は契約書、証券、デジタルデータとして記録される
  • 関係消滅:債務の返済は関係の消滅を意味する。完済した瞬間に、債権者と債務者の関係は終了する

贈与的「貸し借り」が共同体を維持する接着剤であるのに対し、金融的債権は支配の道具である。外部の債権者が共同体の内部に持つ債権は、その共同体に対する権力を意味する。カール・ポランニーが指摘した通り、外部者が受け取った貨幣により、受け取った者はその共同体に対する債権を得る。この債権が土地の購入に転化するとき、共同体は自らの生存基盤を失う。

国家間の「貸し借り」と従属関係

国家間の関係においても、贈与的「貸し借り」と金融的債権の差異は決定的である。

かつて、国家間の関係は贈与的な互酬によって組織されていた。外交使節の交換、儀礼的な贈答、婚姻同盟。これらは国家間の「貸し借り」を創出し、平和的関係を維持する装置であった。

現代の国際関係において、この贈与的互酬は金融的債権関係に置き換えられた。日本が大量の米国債を保有していることは、形式上は日本がアメリカに対して「貸し」を持つことを意味する。しかし実態は逆である。ドル建ての債権は、ドルの価値をアメリカが操作できる以上、実質的にはアメリカが日本を支配する道具である。債権を持つ者が債務者を支配するのではなく、基軸通貨を支配する者が債権者を支配する

この転倒は、贈与の論理では決して生じない。贈与的「貸し借り」において、「貸し」を持つ者は道徳的優位を持つ。ポトラッチにおいて、贈与した首長が威信を獲得するように、「貸し」を持つことは名誉である。しかし金融的債権においては、「貸し」を持つことが従属を意味しうる。日本は世界最大の対外純資産国でありながら、その富をアメリカに収奪され続けている。これは、贈与の論理が金融の論理に置き換えられたことの帰結にほかならない。

日本社会における贈与の伝統と解体

日本の贈答文化:共同体を維持する装置

日本社会は、世界でも最も精緻な贈答文化を発達させた社会の一つである。お歳暮、お中元、年賀状、冠婚葬祭の祝儀・不祝儀、入学祝い・就職祝い、お見舞い、引越しの挨拶、手土産、お裾分け。日本人の生活は、贈与と返礼の網の目によって組織されている。

モースの贈与論の枠組みで分析すれば、これらの慣習は「全体的給付」の現代的表現にほかならない。お歳暮を贈る行為は、同時に経済的行為(財の移転)であり、社会的行為(関係の再確認)であり、道徳的行為(感謝の表現)であり、儀礼的行為(季節の節目の遵守)である。お歳暮は「商品」ではなく「贈り物」であり、そこには贈与者の人格と、受領者に対する配慮が込められている。

日本の冠婚葬祭における祝儀・不祝儀の体系は、モースが分析した三つの義務を完璧に体現している。与える義務:結婚式や葬儀に際して、関係者は祝儀・不祝儀を贈らなければならない。贈らない者は、社会的関係の放棄とみなされる。受け取る義務:祝儀・不祝儀を辞退することは、関係の拒絶を意味する。返す義務:祝儀・不祝儀を受けた者は、将来、相手に同様の機会が生じた際に返礼しなければならない。

この体系が維持される限り、共同体の成員は互いに「借り」と「貸し」の網の目に結ばれ、持続的な社会関係が再生産される。日本の農村共同体や、都市部においても近隣関係がかろうじて維持されている地域においては、この贈与の体系が共同体の基盤として機能してきた。

互助と講:日本における互酬の制度

日本の伝統社会には、贈与論が分析する互酬の原理を制度化した仕組みが数多く存在した。

(ゆい)は、農村共同体における相互扶助の制度であり、田植えや屋根の葺き替えなどの大規模な作業を、村落の成員が交互に助け合う仕組みであった。結においては、労働は「商品」として売買されるのではなく、「贈与」として提供され、後日「返礼」される。労働が市場から切り離され、共同体の互酬関係のなかに「埋め込まれた」状態。これはポランニーが論じた「埋め込まれた経済」の典型的な事例である。

頼母子講(たのもしこう)・無尽は、共同体の成員が定期的に一定額を拠出し、くじや入札によって順番に大きな資金を受け取る相互金融の仕組みであった。頼母子講において、貨幣は銀行を介さずに共同体の内部で循環する。これは、貨幣が共同体に「埋め込まれた」状態であり、貨幣の擬制商品化に対する共同体的な防壁であった。

村八分は、共同体の規範に違反した者を社会的に排除する制度であるが、その実態は贈与関係からの排除であった。村八分にされた者は、火事と葬式の二つを除いて、一切の社会的交流から遮断される。すなわち、贈与と返礼の網の目から排除される。村八分の過酷さは、贈与関係が共同体の存立基盤であることを逆説的に証明している。

新自由主義による贈与の体系的破壊

戦後日本の高度経済成長期においては、贈与の伝統は企業社会のなかに「再埋め込み」された。終身雇用は、労働者と企業の間に市場交換を超えた贈与的関係を創出した。企業は労働者に雇用保障という「贈与」を提供し、労働者は忠誠と献身という「返礼」を提供した。この関係は、市場の需給によって決定される「等価交換」ではなく、長期的な互酬関係であった。

年功序列も贈与の論理に基づいている。若年期の低賃金は企業に対する「贈与」であり、中高年期の高賃金は企業からの「返礼」である。この時間差のある非等価交換こそが、モースが分析した贈与の構造そのものであり、労働者と企業を長期にわたって結びつける紐帯であった。

しかし、1980年代以降のアメリカによる構造改革要求は、この贈与的関係を体系的に破壊した。年次改革要望書が要求した労働市場の「柔軟化」とは、終身雇用という贈与的関係を、市場交換に置き換えることにほかならなかった。非正規雇用の拡大は、労働が純粋な「商品」として即時的に売買される状態を作り出した。非正規労働者と企業の間には、贈与と返礼の関係は存在しない。労働は市場価格で売買され、不要になれば廃棄される。非正規雇用の拡大は、労働における贈与関係の破壊である。

日本の贈答文化自体も衰退の一途をたどっている。お歳暮・お中元の市場規模は年々縮小し、年賀状の発行枚数は激減している。近隣関係は希薄化し、冠婚葬祭の簡素化が進んでいる。贈与が衰退し、市場交換がそれに代替するとき、共同体は溶解する。人々は互いに「借り」も「貸し」もない匿名の個人となり、社会的紐帯を失う。

この贈与の衰退は、自然発生的な「近代化」の帰結ではない。アメリカが推進した新自由主義が、すべての人間関係を市場取引に還元しようとした結果である。共同体の「非効率な」慣習——贈答、互助、年功——を「合理化」の名の下に解体し、すべてを市場の論理に従わせる。これは、カナダ政府がポトラッチを「浪費」として禁止したのと同じ構造である。共同体を維持する贈与の体系を「非合理」として破壊し、市場経済に強制的に組み込む。

「援助」という名のポトラッチ:国際関係と贈与の権力構造

帝国の贈与:返礼不可能な「援助」

モースの贈与論は、国際政治における「援助」(foreign aid)の本質を分析するための強力な枠組みを提供する。

国際関係において、大国が小国に対して行う「援助」は、表面上は人道的動機に基づく「善意の贈与」として表現される。しかし、モースの分析が明らかにした通り、贈与には常に返礼の義務が伴う。そして、返礼不可能な贈与は、受領者を贈与者に対して従属させる権力装置として機能する。

アメリカの対日「援助」は、この構造を典型的に示している。戦後の占領期において、アメリカは食糧援助(ガリオア・エロア資金)を通じて日本の戦後復興を「支援」した。この「援助」は日本国民に対して、アメリカへの「恩義」の感覚を植え付けた。「アメリカに助けてもらった」「アメリカのおかげで復興できた」という言説は、返礼不可能な贈与が生み出す従属意識の表現にほかならない。

モースの枠組みで分析すれば、この「援助」は帝国のポトラッチである。ポトラッチにおいて、首長が圧倒的な贈与によって相手を社会的に従属させるように、アメリカは圧倒的な「援助」によって日本を政治的に従属させた。日本はアメリカに「返礼」できない以上、アメリカに対して永続的な「恩義」を負い、アメリカの要求に逆らえなくなる。「援助」は、武力に代わる支配の手段なのだ。

ODAと新植民地主義

同じ構造は、先進国によるODA(政府開発援助)全般に見出される。先進国が発展途上国に対して行う「援助」は、モースの贈与論の枠組みで見れば、返礼不可能な贈与による従属関係の構築にほかならない。

ODAを受け取った国は、援助供与国に対して「恩義」を負い、政治的・経済的な「返礼」を求められる。援助の条件として市場開放、規制緩和、民営化が要求される。返礼不可能な「贈与」を受けた者が、贈与者の意向に逆らえなくなるというモースのメカニズムが、そのまま国際関係において再現されている。

真の対等な関係は、互酬的な贈与——すなわち返礼が可能な範囲での相互的な交換——によってのみ構築される。クラ交易が島々の間に対等な平和関係を創出したのは、交換が相互的であり、一方的な従属を生まなかったからである。国際関係においても、一方的な「援助」ではなく、互酬的な協力——各国が自らの得意分野で他国に貢献し、その貢献が相互に認知される——こそが、真の平和と主権の相互尊重を実現する。

各国の贈与と返礼の文化:比較分析

日本の「半返し」:均衡維持の知恵

日本の贈答文化において、最も特徴的な原理が「半返し」(はんがえし)である。祝儀・不祝儀を受けた者は、受け取った額のおよそ半分の金額に相当する品物を返礼する。結婚祝い、出産祝い、香典の返礼(香典返し)のいずれにおいても、この「半額程度」の返礼が慣習として定着している。

モースの枠組みから見れば、半返しは極めて精緻な社会的装置である。半返しは、贈与関係を対等に維持しつつ、関係を持続させる仕組みにほかならない。

全額を返礼すれば、それは「精算」であり、関係の拒否を意味する。「あなたに借りを作りたくない」というメッセージとなる。返礼がなければ、受領者は贈与者に対して従属的な「借り」を負い続ける。半返しは、この両極端を巧妙に回避する。半分を返すことで感謝と敬意を表しつつ、半分の「借り」を残すことで関係の持続を保障する

この半返しの原理は、ポトラッチの過剰な返礼(受け取った以上を返す)とは対照的である。ポトラッチが競争的・闘争的な贈与であるのに対し、半返しは協調的・均衡的な贈与である。ポトラッチは優位を争う贈与であり、半返しは対等を維持する贈与である。日本の贈与文化は、贈与の権力的側面を意図的に抑制し、関係の水平的な維持に焦点を当てている。

中国の「関係」(グアンシ):贈与による人脈構築

中国社会における「関係」(グアンシ、guānxì)は、贈与と返礼の体系が現代社会においても強力に機能している事例である。関係とは、人格的な信頼と互酬的な義務に基づく人脈ネットワークであり、ビジネス、政治、日常生活のあらゆる場面で決定的な役割を果たす。

関係の構築と維持は、贈与——贈り物、宴席への招待、便宜の提供——を通じて行われる。関係においては、贈与に対する返礼の義務(「人情」、rénqíng)が厳格に遵守され、返礼しない者は「面子」(メンツ)を失い、ネットワークから排除される。

モースの枠組みで見れば、関係は贈与体系の現代的な発現形態である。しかし、中国の関係には日本の半返しとは異なる特徴がある。関係においては、贈与の規模は関係の重要度に比例して拡大し、ポトラッチ的な競争的要素を含む。ビジネスにおける「紅包」(賄賂的な贈与)は、この競争的贈与の極端な形態であり、西洋的な法の下では「腐敗」として批判されるが、贈与論の枠組みからは、贈与による人格的関係の構築という、市場交換以前の経済原理の残存として理解すべきものである。

アラブ・イスラーム世界の「ワクフ」と施し

イスラーム世界における「ワクフ」(waqf、宗教的寄進)とザカート(zakat、喜捨)は、贈与の原理が宗教的制度として体系化された事例である。

ワクフとは、不動産や財産を宗教的・公共的目的のために永久に寄進する制度であり、寄進された財産は売買・相続の対象から除外される。モースの擬制商品論とカール・ポランニーの枠組みで見れば、ワクフは土地の擬制商品化に対する制度的防壁である。ワクフとして寄進された土地は、市場から永久に引き揚げられ、共同体の公共的利用に供される。

ザカートは、富裕者が所得の一定割合を貧者に施す義務であり、イスラームの五行の一つに数えられる。ザカートは市場交換ではなく、贈与的な再分配であり、共同体内部の格差を是正し、社会的結束を維持する装置である。

これらイスラーム的制度は、市場原理主義とは根本的に異なる経済倫理に基づいている。財は共同体に帰属し、個人は管理者にすぎないという原理は、日本の伝統的な土地観(土地は先祖から預かったもの)とも共鳴する。

日本に「縁故」が少ないのはなぜか

興味深い問題は、中国の関係やアラブ社会のワスタ(仲介的人脈)と比較して、なぜ日本では縁故主義(ネポティズム)が相対的に弱いのかという点である。贈与体系が共同体の基盤であるならば、日本にもより強い縁故主義が発展してもよいはずである。

この問いに対する一つの回答は、日本の贈与体系が水平的互酬(半返し)を基調としていることに求められる。中国の関係やアラブのワスタが、垂直的な庇護=被庇護関係(パトロン=クライアント関係)を構築するのに対し、日本の贈答文化は対等な関係の水平的維持を志向する。半返しの原理は、過剰な「借り」の蓄積を防ぎ、一方が他方を支配する垂直関係の形成を抑制する。

第二の回答は、日本の近代化過程において、共同体内部の互酬が制度化・組織化されたことに求められる。終身雇用年功序列は、個人的な縁故を企業制度に昇華させたものである。個人のコネではなく、企業という組織が贈与的関係の枠組みを提供した。人格的な縁故主義の代わりに、組織的な互酬(企業への忠誠と引き換えの雇用保障)が発達した。

しかし、この組織的互酬が新自由主義的改革によって破壊された現在、日本は人格的縁故も組織的互酬も失った「二重の喪失」の状態にある。中国やアラブ社会では、市場化が進行しても人格的な贈与ネットワーク(関係、ワスタ)が共同体の紐帯として機能し続けている。日本はそのような紐帯すら持たないまま、市場の匿名性のなかに投げ出されている。これこそが、日本社会の孤立化と無縁社会化の構造的原因である。

贈与圏とブロック経済:共同体の内と外

贈与は共同体の内部で循環する

モースの贈与論とポランニーの経済人類学が共通して示す最も重要な原理は、共同体の内部と外部で、経済の論理が異なるということである。

共同体の内部においては、贈与と互酬の原理が支配する。成員は相互に贈与し、返礼し、「貸し借り」のネットワークによって結ばれる。この贈与の循環は、共同体を再生産し、信頼を創出し、社会的紐帯を維持する。

共同体の外部との間では、異なる原理が適用される。外部との交換は、警戒と慎重さをもって行われる。外部者に対して、共同体内部と同じ無条件の贈与を行うことはない。外部との交換は、等価的であるか、あるいは自集団に有利な条件で行われることが期待される。共同体の内部は贈与の空間であり、外部は市場ないし戦争の空間である

クラ交易が示す通り、共同体間の贈与(クラの貴重品交換)は平和関係を創出するが、それは特定のパートナーとの間でのみ成立する特権的な関係であり、すべての他者に開かれたものではない。贈与圏は選択的であり、すべての他者との間に互酬関係を構築することはできない。

ブロック経済は「贈与圏」の近代的形態である

この内外の区別を国際経済に適用すれば、「ブロック経済」の論理が浮かび上がる。ブロック経済とは、特定の国家群が互いに優遇的な貿易条件を設定し、ブロック外部との交易に対しては保護関税や規制を設ける体制である。

モースの贈与論の枠組みで見れば、ブロック経済とは「贈与圏」の近代的形態にほかならない。ブロック内部の国家間では、互酬的な関係——相互に優遇的な貿易条件を「贈与」し合う——が成立する。ブロック外部に対しては、この互酬は適用されない。これはまさに、共同体の内と外で交易条件に差を設けるというポランニーの原則の、国家間レベルでの実践である。

1930年代のスターリング・ブロック(イギリス連邦)、フラン・ブロック(フランス植民地圏)、大東亜共栄圏(日本)は、いずれも贈与圏の形成の試みとして理解できる。これらのブロックが形成された背景には、自由貿易体制の崩壊——すなわち、グローバルな市場交換がもたらす不均衡と搾取に対する各国の自己防衛運動——があった。

「自由貿易」は贈与圏の強制的解体である

アメリカが主導する「自由貿易」体制——GATTWTO——の本質は、各国が形成した贈与圏(ブロック経済、保護主義的経済圏)を強制的に解体し、すべての国をアメリカ中心の単一の市場交換体系に組み込むことにある。

「自由貿易」は、共同体の内と外の区別を撤廃する。すべての国に対して同一の貿易条件を適用する「最恵国待遇」の原則は、贈与圏の形成を禁止することにほかならない。特定の国との間に互酬的な関係を構築し、その関係をブロック外部に対して閉じることは「差別的」として排斥される。

しかし、モースとポランニーが明らかにした通り、共同体の内と外の区別は、共同体の存続にとって不可欠である。内部の贈与的関係を外部にも無差別に拡張すれば、共同体は溶解する。日本の土地が中国資本に買われ、日本の雇用が外国人労働者に置き換えられるのは、「内」と「外」の区別が撤廃されたからにほかならない。

売買の決定権は誰にあるのか

贈与論の視座から、市場における売買の決定権の問題を検討することは極めて重要である。

贈与経済においては、何を贈り、何を受け取るかの決定権は、共同体の規範と当事者の人格的判断に属する。贈与する物の選択は、関係の性質、相手の人格、社会的文脈によって規定される。贈与は共同体のなかに「埋め込まれた」行為であり、市場的な「最高値の買い手に売る」という論理は適用されない。

市場経済においては、売買の決定権は形式上は「市場参加者」すなわち売り手と買い手に属する。しかし実態は異なる。グローバルな市場においては、売買の条件を決定する権力は覇権国と多国籍資本に集中している。日本の土地を中国人が買えるのは、日本人がそれを「自由に」選択したからではなく、アメリカが日本に対してGATS協定による土地自由化を強制したからである。日本人が日本の土地を外国人に売るかどうかの「決定権」は、実際にはアメリカの内政干渉によって奪われている。

共同体の売買の決定権を回復すること——すなわち、何を売り、何を売らないか、誰と取引し、誰と取引しないかを、共同体自身が決定すること——は、主権の回復と同義である。贈与論の枠組みで言えば、贈与圏の自律的な形成と維持が、共同体の自己決定権の経済的表現にほかならない。

福祉社会と贈与:互酬の制度化

モースの福祉社会論

モースは『贈与論』の結論部において、贈与の原理を近代社会に適用する可能性を論じ、福祉国家の萌芽的形態を積極的に評価した。モースにとって、社会保険——失業保険、健康保険、年金——は、贈与と互酬の原理の近代的制度化にほかならなかった。

社会保険の論理は、市場交換の論理とは根本的に異なる。市場交換においては、サービスを受ける者がその対価を直接支払う(受益者負担の原則)。これに対し、社会保険においては、健康な者が病める者のために、若者が老人のために、富裕者が貧者のために拠出する。給付と負担の間に等価交換の関係はない。社会保険は、共同体の成員間の互酬的な贈与——「今、健康な私が病者に贈り、将来、病気になった私が他の健康な者から受け取る」——として機能する。

この互酬は、個人間の直接的な贈与ではなく、国家を媒介とした間接的な贈与である。ポランニーの用語で言えば「再分配」(中心的権威を通じた財の集中と再配分)の形態をとる。しかしその原理は、モースが分析した贈与の三つの義務——与える義務(保険料の拠出)、受け取る義務(給付の受領)、返す義務(回復後の社会への貢献)——と構造的に同一である。

新自由主義による福祉の市場化

新自由主義が推進する福祉の「改革」——医療の民営化、年金の個人口座化、社会保障の削減——の本質は、福祉における贈与的互酬を市場交換に置き換えることにある。

「受益者負担」の原則を福祉に適用すれば、「自分が受けるサービスの対価は自分で払う」ことになり、互酬は消滅する。個人口座化された年金は、もはや世代間の互酬ではなく、個人の「投資」にすぎない。医療の民営化は、医療を「商品」に変え、購買力のない者を排除する。これは贈与体系の市場化であり、福祉の脱埋め込みにほかならない。

モースの視座から見れば、福祉国家の縮小は、近代社会に残された最後の贈与的制度の破壊を意味する。市場化によって贈答文化が衰退し、終身雇用が解体され、地域共同体が消滅した社会において、社会保険は共同体の成員が互いに結びつく最後の制度的紐帯であった。その福祉すら市場化されるとき、社会は完全にゲゼルシャフト化し、人間を結びつけるものは何も残らない。

贈与の進化的基盤:なぜ人間は贈り物をするのか

互酬的利他主義と集団淘汰

モースの贈与論は、人類学的・社会学的な分析であったが、その知見は進化生物学の観点からも裏づけられている。人間が贈与を行うのは、それが種の存続に有利であったからである。

進化生物学における「互酬的利他主義」(reciprocal altruism)の理論は、ロバート・トリヴァース(Robert Trivers)が1971年に提唱したものである。この理論によれば、個体が他の個体に対して利他的行動(贈与)を行い、後に返礼を受け取ることで、双方の適応度(生存と繁殖の確率)が向上する。互酬的利他主義は、繰り返しの相互作用が期待できる安定した集団——すなわちゲマインシャフト——においてのみ進化しうる。

集団淘汰の枠組みで見れば、贈与の体系を発達させた集団は、そうでない集団よりも生存に有利であった。贈与と互酬によって結束した集団は、資源の共有、危機時の相互扶助、集団的な防衛において優位に立つ。贈与は、集団の生存戦略として進化したのである。

「裏切り者検出」と返礼の強制

互酬的利他主義が安定して機能するためには、「フリーライダー」(ただ乗りする者、贈与を受け取りながら返礼しない者)を検出し排除する能力が不可欠である。進化心理学者のレダ・コスミデスジョン・トゥービーは、人間の脳が「社会契約の違反者」(裏切り者)を検出するための特化した認知モジュールを持つことを実験的に示した。

モースが分析した「返礼しない者への怒り」と社会的制裁は、この進化的な「裏切り者検出」メカニズムの文化的表現にほかならない。贈与に対して返礼しない者——フリーライダー——に対する怒りは、個人的な感情ではなく、互酬的利他主義を維持するために自然淘汰によって形成された心理的適応である。村八分は、このフリーライダー排除メカニズムの制度化である。

匿名社会における互酬の崩壊

重要なのは、互酬的利他主義は繰り返しの相互作用が期待できる小規模な集団においてのみ安定するということである。相手と再び会う見込みがなければ、フリーライドは合理的な戦略となり、互酬は崩壊する。

市場社会の匿名性は、まさにこの条件を破壊する。大都市において、同じ相手と繰り返し相互作用する機会は少ない。取引は一回限りの匿名的なものとなり、フリーライドのリスクが増大する。これに対処するために、市場社会は法律・契約・裁判所という「制度的な裏切り者検出装置」を発達させた。しかし、これらの制度は共同体の人格的信頼の代替物にすぎず、コストがかかり、不完全である。

市場社会が進化的に新しい不安定な形態であるのに対し、贈与に基づくゲマインシャフトは進化的に安定した戦略(ESS)である。人間が数百万年かけて適応した社会環境は、顔見知りの小集団における互酬的な関係であり、匿名の大衆社会ではない。市場社会における孤立、不信、精神的不調の蔓延は、人間が進化的に適応していない環境に置かれていることの症候である。

贈与の体系を回復することは、「懐古趣味」ではなく、人間の進化的本性に適合した社会環境を再建することにほかならない。

贈与論と他の思想家

クロード・レヴィ=ストロースによる構造主義的再解釈

クロード・レヴィ=ストロースは、モースの弟子であり、モースの贈与論を構造主義的に再解釈した。レヴィ=ストロースは、モースのハウの解釈——物に宿る霊力が返礼を強制する——を批判し、贈与の義務の根拠を交換の構造そのものに求めた。

レヴィ=ストロースにとって、贈与の義務を説明するために「ハウ」という先住民の概念に訴えることは、説明を必要とする現象を、先住民の意識によって説明する循環論法にすぎない。贈与が義務であるのは、物に霊力が宿るからではなく、人間の精神には交換を行う構造が先天的に備わっているからである。交換の原理は、言語における音韻の二項対立と同様、人間の無意識的な精神構造に基づく。

レヴィ=ストロースは『親族の基本構造』(1949年)において、インセスト・タブー(近親婚の禁止)を「女性の交換」の構造として分析した。近親婚の禁止は、集団内部での「自給自足」を禁じ、他の集団との間で女性を交換することを強制する規則である。この交換によって、集団間に同盟関係が生まれる。婚姻は、女性を媒介とした集団間の贈与にほかならない。

レヴィ=ストロースのこの分析は、贈与が個人間の行為ではなく、集団間の構造的な交換の一形態であることを明らかにした。贈与は人間社会の最も基本的な構造原理であり、言語、婚姻、経済のすべてがこの交換の構造のうえに構築されている。

ジョルジュ・バタイユの蕩尽論

ジョルジュ・バタイユ(Georges Bataille、1897年 - 1962年)は、モースのポトラッチ分析に触発されて、独自の「蕩尽」(dépense)の概念を展開した。バタイユの主著『呪われた部分』(La Part maudite、1949年)は、人類社会における過剰エネルギーの消費を論じたものであり、モースの贈与論を宇宙的な次元に拡張した著作である。

バタイユにとって、ポトラッチにおける財の破壊は「非合理」ではなく、生命のエネルギーが蓄積の限界を超えたときに必然的に生じる「蕩尽」の表現であった。すべての生命体は太陽からのエネルギーを受け取り、そのエネルギーを成長と生存に消費する。しかし、消費しきれないエネルギーの余剰は、何らかの形で放出されなければならない。この放出が「蕩尽」であり、祝祭、戦争、宗教的犠牲、そしてポトラッチは、すべてこのエネルギーの蕩尽の形態である。

バタイユの分析が重要なのは、蓄積の論理を絶対化する近代経済学に対する根源的な批判を含んでいるからである。近代経済学は、蓄積(貯蓄・投資・成長)を善とし、消費(とりわけ「浪費」)を悪とする。しかしバタイユは、蓄積がある限界を超えたとき、それは必然的に破壊的な形で放出されると警告した。蓄積の暴走は、戦争という最も破壊的な蕩尽をもたらす。第一次世界大戦と第二次世界大戦は、資本主義的蓄積の暴走がもたらした破局的な蕩尽にほかならない。

ポトラッチが提示する代替案は、制御された蕩尽——蓄積を一定の限度で止め、余剰を儀礼的・祝祭的な形で消費すること——である。これは、成長至上主義に対する根源的な批判であり、新脱成長スマートシュリンクの思想とも通底する。

カール・ポランニーとの接合

モースの贈与論とカール・ポランニーの経済人類学は、相互に補完する関係にある。

ポランニーが「互酬」(reciprocity)と呼んだ経済統合の形態は、モースの贈与論が分析した贈与と返礼の体系にほかならない。ポランニーは、市場交換以外の経済統合の形態として「互酬」と「再分配」を提示したが、互酬の概念の実証的基盤を提供したのがモースの贈与論であった。

両者の分析を統合すれば、以下の構図が浮かび上がる。人類社会の経済は、本来、贈与と返礼(互酬)の体系として共同体に「埋め込まれて」いた。市場経済は、この贈与的関係を解体し、等価交換の論理に置き換えることで、経済を共同体から「脱埋め込み」した。市場化とは、贈与経済の破壊にほかならない。

ポランニーが「大転換」と呼んだ歴史的過程を、モースの贈与論の枠組みで再記述すれば、それは贈与に基づく社会から、市場交換に基づく社会への転換——すなわち、人格的関係に基づく経済から、匿名的関係に基づく経済への転換——である。この転換は、共同体の解体を不可避的にもたらす。

マルセル・モースの政治的含意

モースは『贈与論』の結論部において、自らの分析の政治的含意を明示的に論じている。モースは、完全な市場経済も完全な計画経済も人間社会にとって有害であり、贈与と互酬の原理を現代社会に再導入する必要があると主張した。

モースは、社会保険制度——失業保険、健康保険、年金——を、贈与の原理の近代的表現として肯定的に評価した。社会保険は、共同体の成員が相互に「贈与」し合う仕組みであり、市場交換の論理(受益者負担、等価交換)とは異なる原理に基づいている。モースにとって、社会保険は近代社会における互酬の制度化であった。

モースの政治的立場は、カール・ポランニーと同様に、市場の廃絶ではなく市場の社会への再埋め込みを志向するものであった。モースは市場そのものを否定したのではなく、市場がすべての社会関係を支配する状態——すなわち、贈与的関係が市場交換に完全に置き換えられた状態——を批判した。

結論

マルセル・モースの贈与論は、人類社会の経済活動が本来、市場交換ではなく贈与と返礼の体系として組織されてきたことを実証的に明らかにした。贈与は単なる物の移動ではなく、社会的紐帯を創出し維持する「全体的社会現象」であり、共同体の存立基盤にほかならない。

贈与と市場交換の比較が示すのは、市場経済が贈与経済の社会的機能——共同体の再生産、信頼の創出、人格的関係の維持——を体系的に破壊するということである。市場交換は関係を消滅させ、贈与は関係を創出する。贈与はゲマインシャフトの血液であり、市場交換はゲゼルシャフトの潤滑油である。新自由主義がすべての人間関係を市場取引に還元しようとするとき、共同体を構成する社会的紐帯のすべてが溶解する。

贈与の原理は人間の進化的本性に深く根ざしている。互酬的利他主義は集団の生存戦略として自然淘汰によって形成された。返礼なき贈与に対する怒りは、フリーライダーを排除し互酬の体系を維持するための心理的適応である。市場社会の匿名性は、人間が進化的に適応していない環境を作り出し、孤立と不信の蔓延をもたらす。

日本社会が発達させてきた精緻な贈答文化——半返しに代表される水平的互酬——、結や頼母子講に代表される互助の制度、終身雇用に代表される贈与的な労使関係は、共同体を再生産するための装置であった。これらがアメリカの構造改革要求によって体系的に解体されたことは、贈与体系の強制的な破壊にほかならない。

国際関係においても、贈与の原理は作動する。アメリカの「援助」は返礼不可能なポトラッチ型の支配であり、「自由貿易」は贈与圏(ブロック経済)の強制的解体である。共同体の内と外で交易条件に差を設けること——すなわち、贈与圏を自律的に形成し維持すること——は、共同体の存続にとって不可欠な原則である。

モースの贈与論は、カール・ポランニーの「埋め込み」論、テンニースのゲマインシャフト論と相まって、市場原理主義に対する最も根源的な批判の基盤を提供する。共同体を再建するとは、贈与の原理を再建することである。互酬と信頼に基づく人間関係を、市場の匿名性に対して回復すること。福祉社会の互酬的制度を維持すること。共同体の内と外の区別を回復し、売買の決定権を共同体自身の手に取り戻すこと。これが、モースの贈与論が現代に突きつける課題にほかならない。

参考文献

関連項目