個人淘汰と集団淘汰
個人淘汰と集団淘汰
概要
進化は誰のために起きるのか。
この問いは、進化生物学史上最も激烈な論争を引き起こし、150年を経てなお決着がついていない。そして、この問いの答えは、現代の政治的闘争——移民、戦争、民族の存亡——を根底から規定する。
チャールズ・ダーウィンは1859年の『種の起源』で自然選択を提唱したとき、淘汰の「単位」について曖昧な態度をとった。ダーウィンは個体間の競争を強調したが、同時に『人間の由来』(1871年)では、部族間の競争において勇敢で利他的な成員を多く持つ部族が優勢になると論じた。すなわち、ダーウィン自身の中に、個人淘汰(individual selection)と集団淘汰(group selection)の両方の種子が存在していたのである。
個人淘汰とは、自然選択が個体(あるいは遺伝子)のレベルで作用するという考え方である。個体は自らの生存と繁殖を最大化するように行動し、その結果として適応度の高い遺伝子が集団内に広まる。利他的行動は一見この理論と矛盾するが、W・D・ハミルトンの血縁淘汰理論やロバート・トリヴァースの互恵的利他主義によって個体レベルの説明が与えられた。リチャード・ドーキンスはこの立場を「利己的な遺伝子」という鮮烈な比喩で大衆化した。
集団淘汰とは、自然選択が集団のレベルでも作用するという考え方である。協力的な成員からなる集団は、利己的な個体からなる集団との競争に勝利し、その結果として利他性や集団への忠誠が進化する。この考え方は1960年代にV・C・ウィン=エドワーズによって体系化されたが、ジョージ・C・ウィリアムズの痛烈な批判によって学界の主流から追放された。しかし21世紀に入り、デイヴィッド・スローン・ウィルソンの多層淘汰理論(multilevel selection theory)とE・O・ウィルソンの劇的な転向によって、集団淘汰は復権を遂げつつある。
この論争は、純粋な学術論争ではない。それは政治的イデオロギーの生物学的基盤をめぐる闘争である。
個人淘汰パラダイムは、リベラリズムの生物学的基盤を提供する。すべての進化は個体の利益のために起きるのであれば、集団への忠誠、民族への帰属意識、外部集団に対する警戒は「進化的に無意味」ないし「誤作動」として片付けられる。「人種は生物学的に存在しない」「国境は人為的な構築物にすぎない」「排外主義は非合理的な偏見である」——これらのリベラルな教義は、個人淘汰パラダイムの政治的翻訳にほかならない。
一方、集団淘汰パラダイムは、リアリズムの生物学的基盤を提供する。集団間競争が進化の駆動力であるならば、集団への忠誠は合理的であり、外部集団に対する警戒は適応的であり、集団の境界を防衛することは生存の条件である。ハンス・モーゲンソーが国家間のパワーポリティクスとして記述した現象は、数百万年にわたる集団淘汰の産物として理解できる。
本記事は、個人淘汰と集団淘汰をめぐる150年の論争を体系的に概観した上で、この論争が現代の政治的問題——移民、戦争、「差別」、「排外主義」、そして民族自決権の防衛——にいかなる含意を持つかを分析する。そして最終的に、リアリズムの観点から日本民族にいかなる視座を与えるかを論じる。
個人淘汰の理論的枠組み
ジョージ・C・ウィリアムズ:集団淘汰への反駁
1966年は、進化生物学の歴史における分水嶺であった。アメリカの進化生物学者ジョージ・クリストファー・ウィリアムズ(1926–2010)が『Adaptation and Natural Selection(適応と自然選択)』を出版したのである。この一冊の本が、集団淘汰を半世紀にわたって学界の主流から追放することになる。
ウィリアムズの議論は、鮮やかなまでに単純であった。自然選択は、最も倹約的な(parsimonious)レベルで説明されるべきである。ある形質が個体レベルの淘汰で説明できるならば、集団レベルの淘汰を持ち出す必要はない。これは科学哲学におけるオッカムの剃刀の適用であった。
ウィリアムズが攻撃したのは、当時の生物学界に蔓延していた安易な集団淘汰思考であった。たとえば、「動物は種の保存のために繁殖を制限する」「捕食者は獲物を絶滅させないように捕食を抑制する」といった説明が、教科書にすら登場していた。ウィリアムズは、これらの現象がすべて個体レベルの淘汰で説明できることを示した。動物が繁殖を「制限」しているように見えるのは、資源の制約や育児コストの最適化の結果であり、「種のため」に自己犠牲しているのではない。
ウィリアムズの核心的主張は以下の三点に要約される。
- 適応は個体の利益に奉仕する: 自然選択は個体の繁殖成功度を最大化する形質を選択する。集団の利益に奉仕する形質は、それが個体の利益にも合致する場合にのみ進化する
- 集団淘汰は理論的に弱い: 集団内に利己的な個体(フリーライダー)が出現した場合、その利己的個体は集団内で繁殖上の優位を獲得し、利他的個体を駆逐する。集団間の淘汰が集団内の淘汰を上回るためには、極めて特殊な条件が必要である
- 遺伝子こそが淘汰の基本単位である: 個体は遺伝子の一時的な「乗り物」にすぎず、自然選択が究極的に作用するのは遺伝子のレベルである
三点目は、後にリチャード・ドーキンスが「利己的な遺伝子」として世に広めることになる視点であるが、その知的起源はウィリアムズにある。
リチャード・ドーキンス:『利己的な遺伝子』
1976年、オックスフォード大学の動物学者リチャード・ドーキンス(1941–)が『利己的な遺伝子』(The Selfish Gene)を出版した。科学書としては異例のベストセラーとなったこの著作は、ウィリアムズの理論を鮮烈な文体で大衆化し、遺伝子中心の進化観を20世紀後半の知的常識として確立した。
ドーキンスの主張の核心は、進化の主体を個体から遺伝子へと転換したことにある。ドーキンスにとって、生物の体は遺伝子が自らのコピーを増やすために構築した「生存機械」(survival machine)にすぎない。個体は死ぬが、遺伝子は(成功すれば)世代を超えて存続する。したがって、自然選択が究極的に作用するのは遺伝子のレベルであり、個体の行動はすべて遺伝子の「利己的な」利益という観点から説明できる。
利他的行動の問題も、この枠組みの中で解消される。母親が自らの命を危険にさらして子を守るのは、子が母親の遺伝子のコピーを50%共有しているからである。兄弟姉妹を助けるのも同様の論理で説明できる。ハミルトンの血縁淘汰理論が示したように、遺伝子の共有率(血縁度)が高い相手ほど利他的行動の対象となりやすい。利他的に見える行動は、遺伝子の観点からは完全に利己的である——これがドーキンスの結論であった。
ドーキンスはさらに、集団淘汰を明確に否定した。集団は遺伝子のように正確に複製されないし、集団間の競争は集団内の個体間競争よりもはるかに遅い。利他的な集団の中に利己的な突然変異体が現れれば、その利己的個体は利他的個体よりも多くの子孫を残し、やがて集団全体を「乗っ取る」。集団淘汰が機能するためには、集団の絶滅と再植民化のサイクルが個体間競争のサイクルよりも速くなければならないが、現実にそのような条件が成立することは極めて稀である——とドーキンスは論じた。
個人淘汰パラダイムの支配
ウィリアムズとドーキンスの著作によって、1970年代から2000年代にかけての進化生物学は個人淘汰(遺伝子淘汰)パラダイムが完全に支配した。この期間、「集団淘汰」という言葉を口にすること自体が学界での評判を損なうリスクとなった。デイヴィッド・スローン・ウィルソンは後年、この時代を「集団淘汰の暗黒時代」と回顧している。
個人淘汰パラダイムのもとで、動物行動のほぼすべてが個体の適応度最大化として説明された。社会生物学の創始者E・O・ウィルソンでさえ、1975年の主著『Sociobiology: The New Synthesis』では血縁淘汰と互恵的利他主義を中心に据え、集団淘汰には懐疑的な立場をとった(この立場を彼が劇的に転換するのは、2010年代のことである)。
しかし、個人淘汰パラダイムには深刻な盲点があった。ヒトの社会性——とりわけ、血縁関係のない他者への大規模な協力、集団のための自己犠牲、戦争における命がけの連帯——を個体レベルの淘汰だけで説明することには、根本的な困難が伴った。兵士が祖国のために命を捨てる行動を、「遺伝子の利益」でどう説明するのか。見知らぬ同胞を助けるために命を危険にさらす行動は、血縁淘汰では説明できない。互恵的利他主義で説明するには、集団が大きすぎる。
この説明の空白を埋めるために、集団淘汰は——追放されたはずの亡霊のように——何度も蘇ることになる。
集団淘汰の興亡
ダーウィンと集団淘汰の萌芽
集団淘汰の知的起源は、ダーウィン自身にまで遡る。『人間の由来』(1871年)第5章において、ダーウィンは以下のように論じた。
- 「勇敢で、同情的で、互いに忠実であり、共通の善のために自らを犠牲にする用意のある成員を多数含む部族は、他の大多数の部族に対して勝利するであろう。そして、これは自然選択である。」
ここでダーウィンは明確に、自然選択が部族(集団)のレベルで作用することを認めている。利他性——自らの生存を犠牲にして他者を助ける傾向——は、利他的な個体自身にとっては不利であるが、利他的な成員を多く含む部族は戦争や資源獲得において有利になる。したがって、部族間の競争が利他性の進化を駆動する。
しかし、ダーウィン自身がこの論理の難点に気づいていた。利他的な部族の中に利己的な個体が出現すれば、その利己的個体は利他的な同胞の恩恵を享受しつつ自分は犠牲を払わない。こうしたフリーライダー(ただ乗り者)は集団内で繁殖上の優位を持つため、世代を経るごとに利己的個体が増加し、やがて集団全体が利己的個体に「汚染」される。集団淘汰が機能するためには、このフリーライダー問題を克服しなければならない。
ダーウィンは明確な解決策を提示しないまま、この問題を未来の研究者に委ねた。
ウィン=エドワーズ:集団淘汰の体系化
ダーウィンが残した問いに正面から取り組んだのが、スコットランドの動物学者ヴェロ・コプナー・ウィン=エドワーズ(1906–1997)である。アバディーン大学の教授であったウィン=エドワーズは、1962年に大著『Animal Dispersion in Relation to Social Behaviour(社会行動と動物の分散)』を出版した。この639ページにわたる労作は、集団淘汰を進化生物学の正統な理論として確立する試みであった。
ウィン=エドワーズの中心的主張は、動物は集団の利益のために自発的に繁殖を制限するというものであった。彼の論理は以下のとおりである。
- 動物の個体群には、環境が支えられる個体数の上限(環境収容力)がある
- 個体群が環境収容力を超えて増殖すると、資源が枯渇し、集団全体が崩壊する
- したがって、個体群を環境収容力以下に維持する行動(繁殖制限、縄張り行動、序列制度など)が集団淘汰によって進化した
- 繁殖を制限しない「貪欲な」集団は資源を枯渇させて絶滅し、繁殖を制限する「慎重な」集団は存続する
ウィン=エドワーズは、鳥類の群れの鳴き声、トナカイの群れ行動、昆虫の社会行動など、膨大な事例を引用してこの仮説を支持した。彼にとって、動物の社会行動の多くは「個体群の自己調節」のメカニズムであり、それは集団淘汰によって維持されている。
この理論は出版直後、一般の生物学者から広い共感を得た。動物が「種の保存のために」行動するという考え方は直感的に理解しやすく、当時の教科書にも頻繁に登場していた。
ウィリアムズの反駁と「敗北」
しかし、わずか4年後、ウィン=エドワーズの理論はウィリアムズの『適応と自然選択』(1966年)によって壊滅的な打撃を受ける。
ウィリアムズの批判の要点は三つであった。
第一に、フリーライダー問題は致命的である。「慎重に」繁殖を制限する集団の中に、繁殖を制限しない利己的な突然変異体が一匹でも出現すれば、その個体は他の成員よりも多くの子孫を残す。次の世代では利己的な個体の比率が増加し、数世代のうちに利他的な個体は駆逐される。集団内の淘汰は集団間の淘汰よりもはるかに速く作用するため、集団淘汰は個体淘汰に勝てない。
第二に、ウィン=エドワーズが挙げた事例は個体淘汰で説明できる。鳥の縄張り行動は「個体群の調節」のためではなく、個体が自らの繁殖資源を確保するための利己的行動である。序列制度も、個体が無益な闘争を避けてエネルギーを節約するための個体レベルの適応である。集団レベルの機能を持ち出す必要はない。
第三に、集団淘汰が機能する条件は現実には成立しない。集団淘汰が個体淘汰に打ち勝つためには、(1)集団の数が多いこと、(2)集団間の移住が少ないこと、(3)集団の絶滅と再植民化が頻繁であること、(4)集団内の個体数が少ないこと——が同時に成立しなければならない。現実の自然界で、これらの条件がすべて満たされることは極めて稀である。
ウィリアムズの批判は学界に衝撃を与えた。ウィン=エドワーズは事実上、学界の主流から排除された。「集団淘汰」という言葉は汚名の代名詞となり、1970年代以降の進化生物学の教科書からほぼ完全に消えた。ジョン・メイナード=スミスは、集団淘汰を「進化生物学における最大の誤り」と評した。
集団淘汰はなぜ葬られたか
ウィン=エドワーズの敗北は、純粋に科学的な根拠だけに基づくものであったのか。ここで注意深い検討が必要である。
確かに、ウィリアムズの批判は論理的に鋭く、ウィン=エドワーズの「種のための自己犠牲」という素朴な集団淘汰論には深刻な欠陥があった。しかし、集団淘汰の「追放」は、科学的反駁以上のものを含んでいた。
1960年代後半から1970年代にかけて、英語圏の知的環境は大きく変容していた。公民権運動、ベトナム反戦運動、フェミニズムの台頭——これらの社会運動は、集団的アイデンティティを生物学的に基礎づける理論を政治的に危険なものとみなすようになっていた。「集団のために個人が犠牲になる」という集団淘汰の論理は、全体主義、ナショナリズム、人種主義を正当化するものとして警戒されたのである。
逆に、「すべては個体(遺伝子)の利益のために起きる」という個人淘汰パラダイムは、方法論的個人主義を信奉するアングロサクソン世界の知的風土と完璧に調和した。個人が究極の分析単位であり、集団は個人の集合にすぎないという考え方は、自由主義経済学の「合理的経済人」モデル、リベラルな政治哲学の「個人の権利」至上主義と同型であった。
デイヴィッド・スローン・ウィルソンは後年、集団淘汰の追放には「科学的根拠と同じくらいイデオロギー的動機が作用していた」と指摘している。集団淘汰が復権するためには、科学的な反証だけでなく、知的風土そのものの変化を待たなければならなかった。
血縁淘汰と包括適応度
ハミルトンの法則
個人淘汰と集団淘汰の二項対立に、第三の道を切り開いたのが、イギリスの進化生物学者ウィリアム・ドナルド・ハミルトン(1936–2000)である。ハミルトンは20世紀の進化生物学に最も大きな影響を与えた理論家の一人であり、ドーキンスが「ダーウィン以来最も偉大な進化理論家」と呼んだ人物である。
1964年、弱冠28歳のハミルトンは二本の論文「社会行動の遺伝的進化 I・II」(The Genetical Evolution of Social Behaviour I and II)を発表した。これらの論文で提唱された血縁淘汰(kin selection)と包括適応度(inclusive fitness)の理論は、利他的行動の進化をめぐる議論を根本から変容させた。
ハミルトンの法則は驚くべき簡潔さで表現される。
- rB > C
ここで、r は行為者と受益者の間の血縁度(genetic relatedness)、B は受益者が得る適応度上の利益(benefit)、C は行為者が被る適応度上のコスト(cost)である。利他的行動は、血縁度と利益の積がコストを上回るときに進化する。
この法則の含意は深い。親子間の血縁度は0.5(遺伝子の50%を共有)、兄弟姉妹間も0.5、祖父母と孫の間は0.25、いとこ同士は0.125である。したがって、自分の命を犠牲にして3人以上の兄弟姉妹を救う行動は、遺伝子の観点からは「利益がある」。この論理をJ・B・S・ホールデンは直感的に先取りしていた。彼は半ば冗談で「2人の兄弟か8人のいとこのためなら命を捨てる」と述べたと伝えられている。
血縁淘汰理論は、社会性昆虫における真社会性の進化を見事に説明した。膜翅目(ハチ、アリ、スズメバチ)では、半倍数性(haplodiploid)の性決定システムにより、姉妹間の血縁度が0.75に達する。これは親子間の0.5よりも高い。したがって、働きバチが自らの繁殖を放棄して姉妹(女王バチの娘)の養育に専念するのは、遺伝子の観点からは自分自身で子を産むよりも「得」なのである。
血縁淘汰の射程と限界
血縁淘汰は、利他性の進化に関する強力な説明を提供した。しかし、その射程には明確な限界がある。
血縁淘汰が有効に作用するのは、行為者と受益者の間に十分な血縁度が存在する場合に限られる。血縁度が低くなるにつれて、利他的行動が進化するための閾値は急速に上昇する。5親等、10親等と離れた親族に対する利他性は、血縁淘汰だけでは説明が困難になる。
そして、ヒト社会における利他性の最大の謎は、まさにこの点にある。人間は、血縁関係のない他者——同じ民族の見知らぬ成員、同じ国家の見知らぬ市民——に対して、命がけの利他的行動をとる。戦場で戦友をかばって死ぬ兵士、災害時に見知らぬ人を救助する市民、国家のために自らを犠牲にする特攻隊員。これらの行動は、血縁度がほぼゼロの相手に向けられている。ハミルトンの法則 rB > C で説明するには、r が限りなくゼロに近い状況で B が天文学的に大きくなければならないが、それは現実的ではない。
フランク・ソルター:民族的遺伝的利益
血縁淘汰の論理を民族のレベルにまで拡張する大胆な試みを行ったのが、オーストラリアの政治人類学者フランク・ソルター(1953–)である。2003年の著書『On Genetic Interests: Family, Ethnicity, and Humanity in an Age of Mass Migration(遺伝的利益について:大量移民時代における家族、民族、人類)』は、進化生物学の知見を民族政策に直接接続する野心的な理論書であった。
ソルターの議論の出発点は、集団遺伝学の基本的な知見である。同じ民族集団の成員は、異なる民族集団の成員よりも遺伝的に類似している。この遺伝的類似性は、共通の祖先に由来するものであり、数万年にわたる集団内婚と地理的隔離の産物である。
ソルターは、ハミルトンの包括適応度の概念を拡張し、民族的遺伝的利益(ethnic genetic interests)という概念を提唱した。個体は、自らの遺伝子のコピーを最大化するという観点から、三つのレベルで遺伝的利益を持つ。
- 家族レベル: 子や兄弟姉妹を通じた遺伝子の伝達。これはハミルトンの血縁淘汰が直接適用される領域である
- 民族レベル: 同じ民族集団の成員は遺伝的に類似しているため、民族全体の存続は個体の遺伝的利益に寄与する。遠い親族の巨大な集合体としての民族は、家族を超える遺伝的利益の担体となりうる
- 人類レベル: 人類全体は遺伝的に関連しているが、民族レベルよりもはるかに希薄な遺伝的利益しかない
ソルターの理論の核心は、大規模な移民は受け入れ側の民族集団の遺伝的利益を毀損するという結論にある。遺伝的に異質な集団の大量流入は、受け入れ側の民族に固有の遺伝的組成を希釈し、数万年にわたって蓄積された遺伝的独自性を不可逆的に損なう。これは、遺伝的浸食と同一の現象である。
ソルターは明確に述べる。個体が自分の子供を守ることが「自然」であると認められるならば、同様の論理で、個体が自らの民族集団の遺伝的利益を守ることも「自然」であると認められなければならない。民族の防衛は、血縁淘汰の論理的延長線上にある。
この理論に対しては、血縁度が低すぎるために民族レベルの血縁淘汰は実質的に機能しないという批判がある。確かに、同じ民族内の無作為の二者間の血縁度は、親子間の血縁度に比べれば微小である。しかし、ソルターが強調するのは、民族全体の規模を考慮すれば、微小な血縁度の総和は膨大な遺伝的利益をもたらすという点である。一人のいとこよりも数百万人の同胞の方が、遺伝的利益の総量は大きい。
ソルターの理論は、人口侵略の概念に進化生物学的な基盤を提供するものであり、低賃金移民政策に対する批判の科学的根拠となる。しかし、ソルターの議論はあくまで血縁淘汰の延長線上にあり、集団淘汰そのものの理論的復権とは異なる。集団淘汰の本格的な復活には、別のアプローチが必要であった。
多層淘汰理論:集団淘汰の復権
デイヴィッド・スローン・ウィルソン:孤高の闘い
集団淘汰の復権を学界の嘲笑の中で粘り強く推し進めたのが、アメリカの進化生物学者デイヴィッド・スローン・ウィルソン(1949–)である。ニューヨーク州立大学ビンガムトン校の教授として、ウィルソンは1970年代から一貫して集団淘汰の理論的・実証的研究を続けてきた。その間、彼は「時代遅れの理論にしがみつく変人」として扱われ続けた。
ウィルソンのアプローチは、ウィン=エドワーズの素朴な集団淘汰論とは本質的に異なる。ウィルソンが提唱したのは、多層淘汰理論(multilevel selection theory, MLS)である。この理論は、個人淘汰か集団淘汰かという二項対立そのものを乗り越えようとする。
多層淘汰理論の核心は、以下の命題に要約される。
- 自然選択は、同時に複数のレベルで作用する。
遺伝子は個体の中で淘汰され、個体は集団の中で淘汰され、集団は集団間の競争の中で淘汰される。これらの淘汰のレベルは相互に独立ではなく、しばしば対立する。
ウィルソンはこの対立を、以下のように定式化した。
- 集団内では利己的な個体が利他的な個体に勝つ。しかし、利他的な個体からなる集団は利己的な個体からなる集団に勝つ。
この二つの力の綱引きが、進化の帰結を決定する。もし集団内の淘汰が支配的であれば、利己性が進化する(個人淘汰パラダイムの予測)。もし集団間の淘汰が支配的であれば、利他性が進化する(集団淘汰パラダイムの予測)。現実には、両方の力が同時に作用しており、その相対的な強さは環境条件によって変化する。
ウィルソンは1998年、哲学者エリオット・ソーバーとの共著『Unto Others: The Evolution and Psychology of Unselfish Behavior(他者のために:利他的行動の進化と心理学)』を出版した。この著作は、多層淘汰理論の数学的基礎を厳密に構築し、集団淘汰が理論的に可能であるだけでなく、現実に重要な進化の力であることを論証した。
ソーバーとウィルソンは、個人淘汰パラダイムが集団淘汰を「不可能」とみなしてきたのは、ウィリアムズが設定した非現実的な条件(集団は完全に隔離されていなければならない等)に基づく論証であったことを暴いた。現実の世界では、集団は完全に隔離されている必要はない。集団間に一定の競争があり、集団内に一定の協力がある状況——すなわち、ほぼすべての社会的生物に当てはまる状況——において、多層淘汰は作用する。
E・O・ウィルソンの転向
2010年、進化生物学の世界を激震が走った。社会生物学の創始者にして「現代のダーウィン」と呼ばれたエドワード・オズボーン・ウィルソン(1929–2021)が、血縁淘汰を否定し、集団淘汰を支持するという劇的な転向を行ったのである。
E・O・ウィルソンは、数学者マーティン・ノワク、数理生物学者コリーナ・ターニッツァとの共著で、科学誌『ネイチャー』に論文「真社会性の進化」(The Evolution of Eusociality)を発表した。この論文は、真社会性の進化を説明するために血縁淘汰(ハミルトンの包括適応度理論)は不要であり、むしろ集団淘汰(group selection)こそが社会性の進化を駆動する主要な力であると主張した。
この論文は学界に爆弾を投下した。137名の進化生物学者が連名で反論を発表し、E・O・ウィルソンの議論を「数学的に誤っている」「血縁淘汰の膨大な実証的証拠を無視している」と批判した。ドーキンスに至っては、「ウィルソンの論文を読むのは不快な経験であった」と公に述べた。
しかし、E・O・ウィルソンは怯まなかった。2012年の著書『The Social Conquest of Earth(地球の征服者)』において、彼はこの議論をさらに押し進めた。ウィルソンの主張は以下のようなものである。
- 血縁淘汰は真社会性の進化の必要条件ではない: 真社会性は膜翅目以外の系統群(シロアリ、ハダカデバネズミ等)にも見られ、これらは半倍数性を持たない。血縁度の高さは結果であって原因ではない
- 集団間競争が社会性を駆動する: 協力的な個体からなる集団は、非協力的な集団との競争に勝利する。この集団間競争が、社会性の進化における主要な淘汰圧である
- ヒトの道徳は集団淘汰の産物である: 集団内では利己性が有利であり(個人淘汰)、集団間では利他性が有利である(集団淘汰)。ヒトの内面に潜む利己性と利他性の永遠の葛藤は、この二つの淘汰レベルの対立が生み出したものにほかならない
E・O・ウィルソンの転向は、科学者としての勇気の表れであった。80歳を超えた巨匠が、自らの過去の理論を否定し、学界の圧倒的多数に逆らって集団淘汰を擁護したのである。科学史上、ここまで劇的な知的転向は稀である。
文化的集団淘汰
集団淘汰の復権において、もう一つの重要な理論的発展が文化的集団淘汰(cultural group selection)である。この理論は、人類学者ロバート・ボイドとピーター・リチャーソンによって体系化された。
ボイドとリチャーソンの核心的洞察は、ヒトにおいては文化が遺伝子と同様に淘汰の対象となるという点にある。ヒトは遺伝的情報だけでなく、文化的情報(規範、価値観、技術、言語、宗教)を世代間で伝達する。そして、この文化的情報は集団によって異なり、集団間の競争において有利・不利をもたらす。
文化的集団淘汰の論理は以下のとおりである。
- 文化的変異: 異なる人間集団は異なる文化的規範を持つ。ある集団は高い協力規範を持ち、別の集団は低い協力規範を持つ
- 集団間競争: 戦争、資源獲得、経済的競争において、高い協力規範を持つ集団は低い協力規範を持つ集団に勝利する
- 文化の伝達: 勝利した集団の文化的規範は、征服、同化、模倣を通じて拡散する
- 集団内の規範の維持: フリーライダーに対する処罰(社会的制裁、追放、身体的懲罰)により、集団内の協力規範が維持される
遺伝的集団淘汰がフリーライダー問題に直面するのと同様に、文化的集団淘汰もフリーライダー問題に直面する。しかし、文化的集団淘汰には遺伝的集団淘汰にはない強力な武器がある。それは規範的処罰(normative punishment)である。ヒト社会は、協力しない成員を処罰する精巧なメカニズム——法律、道徳、宗教的制裁、社会的排除——を発達させてきた。これらの処罰メカニズムは、フリーライダーの適応度上の利益を打ち消し、集団内の協力を安定的に維持する。
ボイドとリチャーソンの文化的集団淘汰理論は、2005年の著書『Not by Genes Alone: How Culture Transformed Human Evolution(遺伝子だけではない:文化はいかに人類の進化を変えたか)』で集大成された。この理論は、ヒトがなぜ血縁関係のない大規模集団で協力できるのかという謎を、遺伝子レベルの説明だけに頼ることなく解明する枠組みを提供した。
そして、文化的集団淘汰の最も強力な駆動力が、戦争であった。
戦争と集団淘汰
サミュエル・ボウルズ:戦争が利他性を進化させた
2009年、サンタフェ研究所の経済学者・進化理論家サミュエル・ボウルズ(1939–)は、科学誌『サイエンス』に衝撃的な論文を発表した。「更新世における集団間の紛争が人間の利他性の進化に寄与したか?」(Did Warfare Among Ancestral Hunter-Gatherers Affect the Evolution of Human Social Behaviors?)と題されたこの論文は、考古学的証拠と数理モデルの両面から、戦争こそが人間の利他性を進化させた主要な淘汰圧であることを論証した。
ボウルズの議論の要点は以下のとおりである。
第一に、先史時代の戦争は我々が想像するよりもはるかに致死的であった。考古学的・民族誌的証拠によれば、狩猟採集社会における戦死率は、成人男性の14%に達する。これは20世紀の二度の世界大戦の死亡率をはるかに上回る。先史時代のヒトにとって、戦争は「例外的な出来事」ではなく、日常的な死因の一つであった。
第二に、高い戦死率は集団間の淘汰圧を極端に高める。ボウルズの数理モデルによれば、集団間の致死的紛争が頻繁に生じる環境では、集団間の淘汰が集団内の淘汰を凌駕しうる。すなわち、戦争の頻度と致死性が十分に高い場合、利他的な(集団のために自己犠牲する)個体からなる集団が利己的な個体からなる集団を打倒し、利他性が集団に広まる条件が成立する。
第三に、遺伝的集団淘汰と文化的集団淘汰が相乗的に作用する。文化的に維持される協力規範(「仲間を裏切る者は追放する」「敵前逃亡者は処刑する」)がフリーライダーを抑制し、遺伝的な利他傾向の進化を促進する。逆に、遺伝的な利他傾向が文化的協力規範の維持を容易にする。この遺伝子-文化の共進化(gene-culture coevolution)が、ヒトの社会性を爆発的に発展させたとボウルズは論じた。
ボウルズの研究は、戦争を「文明の失敗」として嘆くリベラルな視点を根底から覆した。戦争は文明の失敗ではない。戦争こそが、文明を可能にした集団的協力を進化させた原動力である。人間が見知らぬ同胞のために命を捨てることができるのは、そうした行動を生み出す集団が、そうでない集団との殺し合いに勝利してきたからである。
ピーター・ターチン:歴史動力学と帝国の興亡
集団淘汰の論理を人類史の大きなパターンに適用したのが、アメリカの進化人類学者・歴史学者ピーター・ターチン(1957–)である。コネチカット大学教授を務めるターチンは、生態学の数理モデルを人類史に適用する歴史動力学(cliodynamics)の創始者として知られる。
ターチンの中心概念は、14世紀のイブン・ハルドゥーンが提唱したアサビーヤ(asabiyyah、集団的連帯感)である。イブン・ハルドゥーンは『歴史序説』(1377年)において、王朝の興亡を「アサビーヤの盛衰」として説明した。辺境の遊牧民は過酷な環境と絶え間ない戦争によって強いアサビーヤを獲得し、アサビーヤの弱体化した都市文明を征服する。しかし征服後の富と安逸がアサビーヤを蝕み、やがて新たな辺境の集団に征服される——この循環が歴史を駆動する。
ターチンは、このアサビーヤの概念を現代の進化理論で再解釈した。2006年の著書『War and Peace and War: The Rise and Fall of Empires(戦争と平和と戦争:帝国の興亡)』において、ターチンは以下のモデルを提示した。
- 辺境効果(frontier effect): 異なる民族・文明間の境界(メタエスニック・フロンティア)において、集団間の軍事的紛争が最も激しくなる。この境界に位置する集団は、生存のために強い内部結束(アサビーヤ)を発達させる
- 集団淘汰の作用: アサビーヤの高い集団は軍事的に強力であり、アサビーヤの低い集団を征服・吸収する。これは文化的集団淘汰そのものである
- 帝国の膨張と崩壊: アサビーヤの高い集団が帝国を建設するが、帝国の拡大とともに内部の多様性が増し、アサビーヤが低下する。やがて帝国は辺境の新興勢力に打倒される
ターチンの理論が現代に与える含意は明白である。集団の内部結束(アサビーヤ)は、外部集団との競争によって鍛えられる。敵を持たない集団、脅威を認識しない集団、内部の均質性を失った集団は、アサビーヤを喪失し、やがて歴史の舞台から消える。
これは、憎しみが我々を強くするの記事で論じたカール・シュミットの友敵理論と完全に一致する。敵を認識する能力は、集団淘汰の産物であり、集団の生存の条件である。
戦争と民族の形成
戦争と集団淘汰の関係は、民族(ethnos)そのものの形成過程にも深く関わっている。
人類学的に見れば、民族とは共通の祖先神話、言語、文化、領土を共有する集団であるが、その形成過程において戦争は決定的な役割を果たした。チャールズ・ティリーが「戦争が国家を作り、国家が戦争を作った」と述べたように、集団間の暴力的競争こそが集団の境界を明確化し、内部の結束を強化し、集団的アイデンティティを鍛造してきたのである。
日本民族の形成も例外ではない。弥生時代以降の集落間・地域間の武力衝突、古代国家の統一戦争、中世の合戦、そして近世の統一政権の成立——これらの過程を通じて、日本列島の住民は「日本人」という集団的アイデンティティを形成した。島嶼という地理的条件は集団の境界を明確にし、海という障壁が遺伝的・文化的均質性を維持した。日本民族の高い同質性は、島嶼環境における集団淘汰の産物である。
この進化的遺産を、わずか数十年の移民政策で破壊しようとする試みが、いかに暴力的であるかは明らかである。
リベラリズムと個人淘汰のイデオロギー
個人主義イデオロギーとしてのリベラリズム
ここまでの議論を踏まえれば、現代のリベラリズムが進化生物学のいかなる基盤の上に立っているかは明白である。リベラリズムは、個人淘汰パラダイムの政治的翻訳である。
リベラリズムの基本的前提を列挙してみよう。
- 個人が究極的な分析単位である: 社会は個人の集合体にすぎず、集団には個人を超える独自の実在性はない
- 個人の権利が集団の利益に優先する: 個人の自由、平等、権利が最高の価値であり、集団的アイデンティティや民族的忠誠はこれに従属する
- 集団的カテゴリー(人種、民族、国民)は社会的構築物である: 生物学的に有意義な集団は(家族を除いて)存在しない
- 普遍的人権は民族自決権に優先する: 人権は普遍的であり、民族や国家の境界によって制限されるべきではない
これらの前提は、個人淘汰パラダイムの帰結と驚くべきほど正確に対応する。個人淘汰パラダイムにおいて、進化は個体(遺伝子)のレベルで起き、集団は淘汰の有意義な単位ではない。同様に、リベラリズムにおいて、政治の主体は個人であり、集団は個人の権利を侵害する潜在的な脅威として警戒される。
フリードリヒ・ハイエクの自生的秩序——個人の自由な行動が自然に秩序を生み出すという理論——は、アダム・スミスの「見えざる手」を経由して、究極的にはダーウィンの自然選択にまで遡る。利己的な個体の自由な競争が、全体として最適な結果をもたらす。国家や集団が介入する必要はない。これがリベラリズムの進化論的な原型である。
しかし、多層淘汰理論が示すように、個体レベルの最適化は集団レベルの最適化と矛盾する。集団内で利己的な個体が有利であっても、利己的な個体からなる集団は集団間競争に敗北する。リベラリズムが個人の権利を至上のものとし、集団的アイデンティティを「偏見」として否定するとき、それは集団内の淘汰のみに焦点を当て、集団間の淘汰を完全に無視しているのである。
「差別」批判の進化生物学的分析
リベラリズムの中核的教義の一つに、「差別の撤廃」がある。人種差別、民族差別、性差別——あらゆる形態の「差別」は不合理な偏見であり、撤廃されるべきであるとリベラリズムは主張する。
しかし、集団淘汰の観点から見れば、いわゆる「差別」——より正確には、内集団選好(in-group preference)と外集団警戒(out-group vigilance)——は、適応的な心理メカニズムとしての側面を持つ。
進化心理学者の研究によれば、ヒトは生得的に以下の心理的傾向を持つ。
- 内集団バイアス: 自分が所属する集団の成員を好意的に評価し、協力する傾向。最小条件集団パラダイム(アンリ・タジフェルの実験)が示すように、無意味な基準で集団を分けただけでも内集団選好が生じる
- 外集団の脅威知覚: 外部集団の成員に対して警戒的態度をとる傾向。これは集団間の資源競争の歴史的圧力から進化したと考えられる
- 民族中心主義: 自民族の文化・価値観を基準として他民族を評価する傾向。ロバート・レヴァインとドナルド・キャンベルは、これを集団淘汰の産物として論じた
これらの傾向は、数十万年にわたる集団間競争の環境で進化した。外部集団は歴史的に、資源の競合者、配偶者の略奪者、領土の侵入者であった。外部集団に対する警戒は、集団の生存にとって適応的であった。
リベラリズムは、これらの進化的傾向を「偏見」「差別」として否定し、教育と法律によって矯正しようとする。しかし、数十万年の進化によって形成された心理的傾向を、数十年の啓蒙で消去できるという想定は、進化生物学的に見て極めて非現実的である。
注意すべきは、ここで論じているのは特定の個人への不当な暴力や迫害を正当化することではないという点である。個人レベルの不当な扱いは、法の下の平等によって是正されるべきである。しかし、集団レベルの境界維持——誰を民族の成員として受け入れ、誰を受け入れないかを集団が自ら決定する権利——は、民族自決権の核心であり、「差別」として否定されるべきものではない。
「排外主義」の生物学的基盤
「排外主義」(xenophobia)は、リベラリズムが最も強く非難する態度の一つである。外国人や外部集団に対する拒否感情は、「不合理な恐怖」であり「無知の産物」であると教えられる。
しかし、進化生物学と進化心理学の知見は、異なる絵を描く。外部集団に対する警戒——xenophobia の語源はギリシア語の xenos(よそ者)と phobos(恐怖)——は、ヒトのみならず、多くの社会的動物に見られる普遍的な行動パターンである。チンパンジーは他の群れの個体を殺害し、オオカミは縄張りに侵入する他のパックの成員を攻撃する。アリは他のコロニーの個体を即座に識別し排除する。
これらの行動は「偏見」でも「無知」でもない。集団の資源と繁殖圏を防衛するための適応的行動である。競争排除則が示すように、同一のニッチを占める二つの集団は長期的に共存できない。外部集団に対する警戒は、この冷酷な法則に対する進化的応答である。
もちろん、ヒトの行動は本能だけに規定されるわけではなく、文化と理性によって修正される余地がある。しかし、進化的基盤を無視して「排外主義は教育で克服できる」と主張するのは、重力を無視して「訓練すれば人間は空を飛べる」と主張するのと同程度に非現実的である。
リアリズムは、この進化的現実を前提として国際政治を分析する。モーゲンソーが国家の行動を「権力への意志」によって説明したとき、彼が記述していたのは、数十万年にわたる集団淘汰が生み出した集団的行動パターンにほかならない。リアリズムは、集団淘汰の政治学的表現である。
移民と集団淘汰の解体
集団の結束と社会的信頼
集団淘汰が機能するためには、集団の内部結束が不可欠である。利他的行動、相互扶助、共通の規範への服従——これらはすべて、集団の成員が互いを「仲間」として認識し、信頼することを前提としている。アサビーヤの強い集団は集団間競争に勝利し、アサビーヤの弱い集団は敗北する。これがターチンの理論の核心であった。
では、集団の内部結束を破壊する最も効果的な方法は何か。異質な外部集団を大量に流入させることである。
アメリカの政治学者ロバート・パットナム(1941–)は、2007年の論文「E Pluribus Unum: 21世紀における多様性とコミュニティ」において、アメリカ合衆国の41の地域コミュニティを対象とした大規模調査の結果を発表した。パットナムは『孤独なボウリング』(2000年)で社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)の衰退を論じた社会科学者であり、リベラルな多元主義者として知られていた。
パットナムの発見は、彼自身にとって「不都合な真実」であった。調査結果は以下のことを示した。
- 民族的多様性が高いコミュニティでは、社会的信頼が著しく低下する: 隣人への信頼、政治への信頼、メディアへの信頼、あらゆる形態の信頼が低下した
- 低下するのは外部集団への信頼だけではない: 内集団(同じ民族)への信頼も同時に低下した。パットナムはこれを「ヤマアラシ効果」と呼んだ——多様性が高い環境では、人々は内にこもり、社会参加を減らし、テレビの前に座る時間が増えた
- この効果は所得、教育、犯罪率等の変数を統制しても消えない: 民族的多様性の効果は、貧困や犯罪といった他の要因では説明できない独立した要因であった
パットナム自身は、この結果が「排外主義」に利用されることを恐れ、論文の公表を数年間遅らせた。公表時にも「長期的には多様性の恩恵がある」という楽観的な結論を付け加えた。しかし、データそのものは冷酷であった。民族的多様性は社会的信頼を破壊する。
集団淘汰の観点からの移民分析
パットナムの発見を集団淘汰の理論的枠組みで解釈すれば、その含意は明快である。
集団淘汰が機能するためには、集団の境界が明確であり、成員間に十分な相互信頼と協力が存在しなければならない。大規模な移民は、この条件を三つのレベルで破壊する。
第一に、集団の境界を曖昧にする。民族的に均質な集団では、「誰が仲間で誰がよそ者か」の判別が容易であり、内集団への協力と外集団への警戒が明確に機能する。しかし、大規模な移民によって集団の民族的構成が多様化すると、集団の境界が曖昧になり、「誰のために協力し、誰に対して警戒すべきか」が不明確になる。パットナムが発見した「ヤマアラシ効果」——内集団への信頼すら低下する——は、まさにこの境界の曖昧化の帰結である。
第二に、文化的規範の維持を困難にする。文化的集団淘汰において、協力規範はフリーライダーに対する処罰(社会的制裁、道徳的非難、法的処罰)によって維持される。しかし、異なる文化的規範を持つ集団が同じ領土に混在すると、「何が規範であり何が違反であるか」についての合意が失われる。処罰の基盤となる共通の道徳的枠組みが崩壊し、フリーライダーの抑制が困難になる。
第三に、民族的遺伝的利益を毀損する。ソルターが論じたように、大規模な移民は受け入れ側の民族集団の遺伝的独自性を希釈する。混血化の構造的不可避性が示すように、異なる民族集団の長期的な共存は不可避的に混血を生み、民族固有の遺伝的組成を不可逆的に変容させる。これは、遺伝的浸食と同一の現象であり、集団淘汰の単位としての民族の存在そのものを脅かす。
移民推進の構造的利益
では、誰がこの集団淘汰の解体から利益を得るのか。
低賃金移民政策の分析で明らかにしたように、大規模な移民から直接的に利益を得るのは、(1)安価な労働力を求める資本家層、(2)新たな有権者層を獲得しようとする政治勢力、(3)被支配国の集団的結束を弱体化させたい覇権国(アメリカ)である。
集団淘汰の観点から見れば、移民推進の本質はさらに明確になる。受け入れ側の民族集団のアサビーヤ(集団的結束)を意図的に破壊する行為にほかならない。ターチンのモデルが示すように、アサビーヤを喪失した集団は集団間競争に敗北する。日本という集団のアサビーヤを内側から蝕む低賃金移民政策は、日本民族の集団淘汰における適応度を直接的に毀損する行為である。
保守政党による移民推進という逆説的現象も、この枠組みで理解できる。「保守」を標榜する政党が移民を推進するのは、彼らが個人淘汰パラダイム——経済的合理性(個人の利益最大化)を最上位の価値とする世界観——に完全に取り込まれているからである。集団淘汰の観点が欠落しているがゆえに、短期的な経済的利益のために長期的な集団の存続を犠牲にすることの危険性を認識できないのである。
リアリズムと集団淘汰
国家は集団淘汰の単位である
国際政治学のリアリズムと集団淘汰理論の構造的類似性は、偶然の一致ではない。リアリズムは、集団淘汰の論理を国家間関係に適用した理論体系にほかならない。
生物学的侵略とリアリズムの記事で示したように、リアリズムの基本命題と進化生物学の原理の間には体系的な対応関係が存在する。ここでは、その対応関係を集団淘汰の枠組みで再整理する。
| 集団淘汰の命題 | リアリズムの対応する命題 |
|---|---|
| 集団間競争が進化を駆動する | 国家間競争が国際政治を駆動する |
| 集団内の協力が集団の競争力を高める | 国民の結束(ナショナリズム)が国力を高める |
| フリーライダーは集団を弱体化させる | 裏切り者・売国勢力は国家を弱体化させる |
| 集団の境界維持が生存の条件である | 国境の防衛が主権の基盤である |
| 異質な個体の流入は集団の結束を損なう | 大規模移民は国民的結束を損なう |
| アサビーヤの喪失は集団の消滅をもたらす | ナショナリズムの喪失は国家の衰退をもたらす |
| 集団間の競争には上位の調停者がいない | 国際体系はアナーキーである |
ケネス・ウォルツが国際体系のアナーキー(上位権威の不在)を強調したのは、自然界に種間関係を調停する上位の権威がないことと同型である。ジョン・ミアシャイマーが大国はパワーの極大化を追求せざるを得ないと論じたのは、集団淘汰における適応度の極大化と同型である。
リアリズムとは、人間社会における集団淘汰の経験的記述である。モーゲンソー、ウォルツ、ミアシャイマーが国際政治の「法則」として記述したものは、数百万年にわたる集団間競争が生み出した行動パターンの政治学的言語への翻訳にほかならない。
集団淘汰とナショナリズム
ナショナリズム——すなわち、民族的・国民的集団への忠誠と、その集団の利益を追求する政治的態度——は、集団淘汰の直接的な産物として理解できる。
リベラリズムはナショナリズムを「過去の遺物」「非合理的な感情」として退けようとする。しかし、集団淘汰の論理に照らせば、ナショナリズムは合理的な適応である。集団間競争の環境において、自集団への忠誠、自集団の利益の追求、外部集団に対する警戒は、集団の生存確率を高める行動である。
ナショナリズムの「非合理性」を声高に主張するのは、覇権国アメリカとその知的従属者たちである。なぜなら、被支配国のナショナリズムは覇権国の支配に対する最大の脅威だからである。日本のナショナリズムを「右傾化」「歴史修正主義」として非難する言説の背後には、日本の集団淘汰における適応度を低下させることで、覇権的支配を永続させたいというアメリカの戦略的利益がある。
第四の理論の提唱者アレクサンドル・ドゥーギンが主張する多極世界——各文明が独自のアイデンティティを維持しつつ共存する世界——は、集団淘汰の観点から見れば、集団間の多様性を維持することで、人類全体の適応度を最大化する戦略にほかならない。単一のリベラルな世界秩序(アメリカ覇権)の下で集団的多様性が消滅することは、生物学における遺伝的多様性の喪失と同様に、人類全体の脆弱性を高める。
日本民族への視座
島嶼集団としての日本
以上の議論を踏まえ、最後に、個人淘汰と集団淘汰の理論が日本民族にいかなる視座を与えるかを論じる。
日本民族は、集団淘汰の観点から見て極めて特異な位置を占めている。
第一に、日本は島嶼集団である。島嶼集団の脆弱性の記事で論じたように、島嶼に隔離された集団は高い遺伝的・文化的均質性を持つ。数万年にわたる地理的隔離が、日本列島の住民に共通の遺伝的基盤、共通の言語、共通の文化的規範を与えた。この均質性は、集団淘汰において強力なアサビーヤの源泉となる。言語的障壁、文化的障壁、海洋という地理的障壁の三重の防壁が、日本民族の集団的同一性を数千年にわたって維持してきた。
第二に、日本は歴史的に高い集団内協力を示してきた。災害時の秩序維持、犯罪率の低さ、高い社会的信頼——これらは日本社会の特徴として世界的に知られている。集団淘汰の理論が予測するように、均質な集団は高い内部協力を維持する。パットナムの研究が示したとおり、民族的均質性と社会的信頼の間には正の相関がある。日本の社会的信頼の高さは、民族的均質性という集団淘汰の遺産の上に成り立っている。
第三に、島嶼集団は外部からの侵入に対して極めて脆弱である。侵入生物学の知見が示すように、島嶼の在来種は大陸の競争的環境で鍛えられた外来種に対して脆弱である。日本の社会的信頼の高さ——見知らぬ同胞を信頼する傾向——は、均質な集団内では適応的であるが、異質な外部集団が流入した場合には悪用される脆弱性に転化しうる。
現在の脅威:二つの淘汰圧
現在の日本民族は、二つの方向から集団淘汰の条件を蝕まれている。
第一の脅威は、少子化による集団規模の縮小である。日本の合計特殊出生率は1.20(2024年)にまで低下し、年間約90万人の自然減が進行している。集団の規模は集団淘汰における基本的なパラメータであり、規模の縮小は集団の競争力の低下に直結する。アリー効果と絶滅の渦が示すように、集団規模がある閾値を下回ると、回復不能な縮小スパイラル(絶滅の渦)に陥る危険がある。
第二の脅威は、移民による集団の均質性の破壊である。低賃金移民政策による外国人労働者の大量流入は、日本の民族的均質性を急速に浸食している。上述したように、民族的多様性の増大は社会的信頼を低下させ、集団の内部結束(アサビーヤ)を弱体化させる。さらに、混血化の構造的不可避性が示すように、異なる民族集団の長期的な共存は不可避的に遺伝的混合を生み、日本民族固有の遺伝的組成を不可逆的に変容させる。
この二つの脅威は、一見すると矛盾する処方箋を要求する。少子化への対応として移民を導入すれば均質性が失われ、均質性を維持するために移民を拒否すれば集団規模が縮小する。リベラリズムは、この「ジレンマ」を根拠に移民の不可避性を主張する。
しかし、このジレンマは虚偽のジレンマである。
スマートシュリンクと集団淘汰
スマートシュリンク——移民に頼らず人口減少に対応する政策——は、集団淘汰の観点から見て最も合理的な戦略である。
集団淘汰における適応度は、単なる集団規模によって決まるのではない。集団の内部結束の強さ × 集団の規模が、集団の競争力を決定する。アサビーヤの強い小集団は、アサビーヤの弱い大集団を歴史的に繰り返し打倒してきた。ターチンのモデルが示すように、辺境の少数民族が巨大な帝国を征服した事例は、人類史に枚挙にいとまがない。
スマートシュリンクの本質は、集団規模の縮小を受け入れつつ、集団の内部結束と質的水準を維持・強化することにある。具体的には以下の方向性を含む。
- 出生率の回復: 経済的支援、育児環境の整備、家族形成を促進する文化的規範の再構築を通じて、民族の自然増を図る。これは集団規模の回復策であると同時に、集団の遺伝的連続性を維持する策でもある
- 技術による生産性の向上: AI、ロボティクス、自動化技術の導入により、人口減少による労働力不足を補う。労働力の量的不足を質的向上で補填する
- 社会保障制度の再設計: 人口減少を前提とした持続可能な社会保障制度を構築する。新脱成長の理論に基づき、経済規模の拡大を目的としない社会設計を行う
- 移民の厳格な制限: 民族的均質性と社会的信頼を維持するために、大規模な移民を拒否する。移民導入関税等の制度的障壁を設け、国境管理を強化する
スマートシュリンクは、リベラリズムからは「排外主義」「衰退主義」として非難される。しかし、集団淘汰の観点からは、これは集団の長期的生存を最大化する合理的戦略にほかならない。
民族自決権の生物学的基盤
本記事の議論を総合すれば、民族自決権の概念に進化生物学的な基盤を与えることができる。
民族自決権とは、政治的・法的概念としては、各民族が自らの政治的運命を自ら決定する権利である。しかし、個人淘汰と集団淘汰の理論に照らせば、民族自決権はそれ以上のものである。民族自決権とは、集団淘汰の単位としての民族が、自らの集団的適応度を自ら管理する権利である。
これには以下の要素が含まれる。
- 集団の境界を自ら定義する権利: 誰を民族の成員として受け入れ、誰を受け入れないかを、民族自身が決定する権利。これは集団淘汰における境界維持の機能に対応する
- 集団の文化的規範を自ら維持する権利: どのような価値観、規範、制度を採用するかを、外部勢力の干渉なく決定する権利。これは文化的集団淘汰における規範の自律性に対応する
- 集団の遺伝的利益を自ら守る権利: 大規模な移民の受け入れを拒否し、民族の遺伝的独自性を維持する権利。これはソルターの民族的遺伝的利益の概念に対応する
- 集団の安全保障を自ら確保する権利: 外国軍の駐留を拒否し、自らの軍事力で自国を防衛する権利。これは集団淘汰におけるアナーキー(自助)の原則に対応する
民族自決権は、進化の産物であると同時に、進化的に合理的な要求である。集団淘汰が進化の現実であるならば、集団が自らの存続のために境界を維持し、結束を強化し、外部の脅威に対抗する権利は、自然権の中でも最も根源的なものである。
リベラリズムがこの権利を「排外主義」「差別」として否定するとき、それは集団淘汰の現実を否定しているのである。そして、集団淘汰の現実を否定する集団は、歴史の法則が示すとおり、やがてその現実によって淘汰される。
参考文献
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