ヘンリー・キッシンジャー

提供:保守ペディア
ナビゲーションに移動 検索に移動

ヘンリー・キッシンジャー

概要

ヘンリー・アルフレッド・キッシンジャー(Henry Alfred Kissinger, 1923年5月27日 - 2023年11月29日)は、アメリカ合衆国の政治家・外交官・政治学者であり、20世紀後半のアメリカ外交政策を設計した中心人物である。ニクソン政権で国家安全保障問題担当大統領補佐官(1969-1975年)および国務長官(1973-1977年)を務め、フォード政権でも国務長官を続投した。

キッシンジャーは「リアリスト」を自認し、リアルポリティーク(現実主義外交)の実践者として知られる。米中国交正常化デタント(米ソ緊張緩和)、中東シャトル外交など、冷戦期アメリカ外交の転換点のほとんどにキッシンジャーの手が加わっている。1973年にはノーベル平和賞を受賞した。

しかし、キッシンジャーの「リアリズム」とは、学術的なリアリズム(国際政治学における権力と国益の冷静な分析)とは似て非なるものである。ハンス・モーゲンソーケネス・ウォルツのリアリズムが国家間の権力構造を客観的に分析する理論であるのに対し、キッシンジャーの「リアリズム」はアメリカの覇権を維持・拡大するための実践的手法にほかならない。キッシンジャーは国際秩序の分析者ではなく、アメリカ帝国の秩序の設計者であった。

本記事は、キッシンジャーの経歴と外交政策を保守ぺディアの視座、すなわち民族自決権の擁護と反帝国主義の原則から分析する。キッシンジャーが「秩序」と呼んだものの正体、すなわちアメリカの覇権的利益を「国際秩序」として偽装する構造を解明する。

経歴と思想形成

亡命と軍歴

キッシンジャーは1923年、バイエルン州フュルトのユダヤ系ドイツ人家庭に生まれた。ナチス反ユダヤ主義迫害により、1938年に一家でアメリカに亡命した。この経験は、キッシンジャーの世界観を決定的に形成した。秩序が崩壊するとき何が起こるかを身をもって知ったキッシンジャーは、「秩序の維持」を外交の最高目標とするようになった。

第二次世界大戦ではアメリカ陸軍に従軍し、防諜部隊(Counter Intelligence Corps)で活動した。ドイツ語を母語とするキッシンジャーは、占領下のドイツでナチス残党の捜索と尋問に従事した。この軍歴は、情報と権力の関係、そして占領統治の実務をキッシンジャーに教えた。

ハーバード大学と学術的基盤

戦後、ハーバード大学に入学したキッシンジャーは、政治学を専攻し博士号を取得した。博士論文は『回復された世界平和:メッテルニヒ、カスルレーと和解の問題、1812-1822年』(A World Restored, 1957年)として出版された。

この著作は、ナポレオン戦争後のヨーロッパでメッテルニヒカスルレーが構築したウィーン体制を分析したものである。キッシンジャーはメッテルニヒの手法に深く共鳴した。メッテルニヒは、革命的変化を抑制し、勢力均衡を通じて既存の秩序を維持した。キッシンジャーにとって、外交の本質は正義の実現ではなく、秩序の維持であった。

この「秩序の維持」という思想が、キッシンジャー外交の核心にある。しかし問題は、キッシンジャーが維持しようとした「秩序」とは何かである。メッテルニヒの時代には、ヨーロッパ列強間の勢力均衡が秩序であった。キッシンジャーの時代には、アメリカの覇権そのものが「秩序」と同義であった。キッシンジャーが秩序の破壊を恐れたのは、それが人類普遍の安定を脅かすからではなく、アメリカの優越的地位を脅かすからであった。

核戦略と政策サークルへの参入

1957年に出版した『核兵器と外交政策』(Nuclear Weapons and Foreign Policy)は、キッシンジャーを一躍政策論壇の中心に押し上げた。この著作でキッシンジャーは、大量報復戦略(アイゼンハワー政権の核戦略)を批判し、限定的な核使用を含む「柔軟反応戦略」を提唱した。

この著作により、キッシンジャーは外交問題評議会(CFR)をはじめとするワシントンの政策エスタブリッシュメントに認知された。ネルソン・ロックフェラーのアドバイザーとなり、共和党の外交政策ブレーンとして影響力を拡大していった。学者から政策立案者への転身は、キッシンジャーが権力そのものに強い志向を持っていたことを示している。

外交政策の分析

米中国交正常化:反ソ連のための中国カード

キッシンジャー外交の最も劇的な成果とされるのが、1971年の秘密訪中と1972年のニクソン訪中に至る米中国交正常化である。キッシンジャーは中ソ対立を利用し、中国をソ連に対する地政学的カウンターウェイトとして活用する戦略を構想した。

この戦略は、勢力均衡の観点からは合理的であった。しかし、この「合理性」は徹底してアメリカの利益の観点から計算されたものである。米中接近は、台湾(中華民国)という同盟国を事実上切り捨てることで実現した。台湾は国連の議席を失い(1971年の国連総会決議2758)、国際社会において外交的に孤立した。アメリカが台湾に負っていた安全保障上の義務は、ソ連封じ込めという「大きな目標」のために犠牲にされた。

キッシンジャーの米中接近は、同盟国の利益を大国間の地政学的計算に従属させるアメリカ外交の本質を示している。アメリカにとって同盟国とは、利用価値がある限りにおいて維持され、より大きな戦略目標のためには容赦なく犠牲にされる存在にすぎない。日本もまた、米中接近の際に事前通告なしに衝撃を受けた(いわゆる「ニクソン・ショック」)。アメリカの「同盟国」がいかに脆弱な地位にあるかを、この事件は明確に示している。

デタントと軍備管理:覇権の安定化

キッシンジャーはニクソンとともに、ソ連とのデタント(緊張緩和)を推進した。1972年の第一次戦略兵器制限交渉(SALT I)とABM条約は、米ソ間の核軍備を一定の枠内に管理する枠組みを構築した。

デタントは「平和のための外交」として語られるが、その本質はアメリカの覇権を脅かさない範囲で競争を管理することにあった。キッシンジャーのデタントは、ソ連との全面核戦争を回避しつつ、アメリカの戦略的優位を維持する手段であった。ソ連が核戦力において対等に近づいた1960年代末の状況下で、核軍備管理はアメリカにとって合理的な選択であった。なぜなら、際限のない軍拡はアメリカの経済的負担を増大させ、かえってアメリカの総合的国力を弱体化させかねなかったからである。

デタントは同時に、米ソ二極体制を固定化し、第三世界の民族自決運動を米ソ対立の文脈に閉じ込める効果を持った。キッシンジャーにとって、アフリカやアジアの民族解放運動は、それ自体の正当性を持つ政治運動としてではなく、ソ連の影響力拡大の手段として認識された。民族の自決よりも大国間の秩序が優先される。これがキッシンジャーの「リアリズム」であった。

チリ・クーデター:民族自決権の否定

キッシンジャーの帝国主義的外交を最も端的に示すのが、1973年のチリ・クーデターにおける役割である。1970年、チリでサルバドール・アジェンデが民主的選挙により社会主義政権を樹立した。キッシンジャーはこれを容認しなかった。

キッシンジャーの言葉は有名である。「チリの有権者が無責任であるからといって、チリが社会主義に向かうのを傍観する理由はない」("I don't see why we need to stand by and watch a country go Communist due to the irresponsibility of its own people")。この一言に、キッシンジャー外交の本質が凝縮されている。民主的な選挙で選ばれた政府であっても、アメリカの地政学的利益に反する場合は排除される。民族自決権は、アメリカの覇権的利益に従属する

アメリカはCIAを通じてチリの経済を意図的に混乱させ(「経済を悲鳴を上げさせろ」というニクソンの指示)、1973年9月11日のピノチェトによる軍事クーデターを支援した。アジェンデは死亡し、その後ピノチェト軍事独裁政権のもとで数千人が殺害・拷問・失踪させられた。アメリカはこの独裁政権を支持し続けた。

チリの事例は、アメリカの「民主主義の促進」が欺瞞であることを明確に示している。民主的に選ばれた政府が打倒され、軍事独裁政権がアメリカの支持のもとで樹立された。キッシンジャーにとって重要だったのは、チリ国民の民主的意思ではなく、チリがアメリカの勢力圏内にとどまることであった。

中東シャトル外交とペトロダラー体制

1973年の第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争)は、キッシンジャーに中東外交の主導権を握る機会を与えた。キッシンジャーは、エジプト・イスラエル間を往復する「シャトル外交」を展開し、停戦と兵力引き離し協定を仲介した。

この外交の戦略的意図は明確であった。第一に、ソ連を中東の和平プロセスから排除すること。サダト大統領のエジプトをソ連の影響圏から引き離し、アメリカ側に取り込むことに成功した。第二に、アメリカが中東の「誠実な仲介者」として振る舞うことで、域内諸国に対するアメリカの影響力を最大化すること。

ペトロダラーと超帝国主義の記事で詳述したとおり、キッシンジャーは1974年にサウジアラビアとの秘密協定を締結し、石油取引のドル建て決済を確保した。このペトロダラー体制は、ドルの基軸通貨としての地位を石油によって裏付ける仕組みであり、アメリカの金融覇権の基盤となった。ブレトンウッズ体制の崩壊(1971年のニクソン・ショック)後、金との兌換を失ったドルは、石油という新たな裏付けを得ることで覇権通貨としての地位を維持した。キッシンジャーは、軍事と外交だけでなく、通貨・金融の覇権構造の設計者でもあった。

インドシナ戦争:秘密爆撃と民間人殺害

ベトナム戦争においてキッシンジャーは、1973年のパリ和平協定の交渉でノーベル平和賞を共同受賞した。しかし、この「和平」に至る過程でキッシンジャーが遂行した政策は、平和とは正反対のものであった。

1969年から1973年にかけて、アメリカはカンボジアに対して秘密爆撃作戦(オペレーション・メニューおよびオペレーション・フリーダム・ディール)を実施した。この爆撃は議会にも国民にも秘匿されたまま行われた。推定50万トン以上の爆弾がカンボジアに投下され、数万人から数十万人の民間人が犠牲となった。キッシンジャーはこの秘密爆撃の主要な推進者であった。

カンボジアの爆撃と内戦の激化は、農村部の社会構造を破壊し、クメール・ルージュの台頭を促進する一因となった。クメール・ルージュは1975年にプノンペンを陥落させ、ポル・ポト政権のもとで推定170万人以上が虐殺された。キッシンジャーの秘密爆撃がカンボジアのジェノサイドの直接的原因であるとまでは言えないが、社会的基盤を破壊し、過激派の台頭を助けたことは歴史的事実として認められている。

東ティモールについても同様である。1975年、インドネシアのスハルト政権が東ティモールに軍事侵攻した際、キッシンジャーとフォード大統領はインドネシアを訪問中であり、事実上の承認を与えた。東ティモールでは、インドネシアの占領下で人口の約3分の1にあたる推定10万人以上が死亡した。キッシンジャーは、反共の同盟国であるインドネシアとの関係を優先し、東ティモール民族の自決権を黙殺した。

バングラデシュ独立戦争:パキスタンの虐殺の容認

1971年のバングラデシュ独立戦争においても、キッシンジャーの外交は民族自決権の否定として機能した。東パキスタン(現バングラデシュ)の独立運動をパキスタン軍が武力弾圧し、推定30万人から300万人の民間人が殺害されたとされる。

キッシンジャーとニクソンは、米中接近の秘密外交チャンネルとしてパキスタンを利用していたため、パキスタンへの批判を抑制した。ダッカのアメリカ総領事アーチャー・ブラッドは、パキスタン軍による虐殺を報告する「ブラッド電報」をワシントンに送り、アメリカ政府の沈黙を「道義的破産」と批判した。キッシンジャーはブラッドを更迭した。民族の虐殺よりも大国間外交のチャンネル維持が優先されたのである。

リアリズムの観点からの分析

キッシンジャーの「リアリズム」と学術的リアリズムの乖離

キッシンジャーは「リアリスト」として広く認知されているが、学術的リアリズムの観点からキッシンジャーの外交を分析すると、重大な乖離が浮かび上がる。

ハンス・モーゲンソーは、リアリズムの核心を「国益(national interest)を権力(power)の観点から定義する」ことに置いた。モーゲンソーにとって、リアリズムとは特定の国家の覇権を正当化する理論ではなく、すべての国家の行動を権力の観点から冷静に分析する理論であった。モーゲンソーはベトナム戦争を激しく批判し、アメリカの軍事介入がアメリカ自身の国益に反すると論じた。リアリズムの創始者が、アメリカの帝国主義的行動を批判していたのである。

ケネス・ウォルツの構造的リアリズムも、キッシンジャーの外交とは本質的に異なる。ウォルツは、国際システムのアナーキー構造が国家の行動を制約すると論じた。この理論に基づけば、アメリカもまた国際システムの構造に制約される一つの国家にすぎず、覇権的行動は長期的にはバランシング(対抗均衡)を招く。ジョン・ミアシャイマーは、アメリカのリベラル覇権路線が過剰拡張をもたらし、アメリカ自身の国力を衰退させると批判した。

キッシンジャーの「リアリズム」は、これらの学術的リアリズムとは異質である。キッシンジャーは国際秩序を客観的に分析する立場をとりながら、その「秩序」の内容をアメリカの覇権と同一視した。ウォルツやミアシャイマーが警告した過剰拡張の危険を、キッシンジャーは体系的に無視した。キッシンジャーにとってリアリズムは分析道具ではなく、アメリカの帝国的行動を正当化する修辞的装置であった。

「秩序」の名のもとの帝国主義

キッシンジャーの外交思想の中核にある「秩序」概念を批判的に検討しなければならない。キッシンジャーの最後の大著『国際秩序』(World Order, 2014年)は、ウェストファリア体制以来の国際秩序の歴史を論じたものであるが、その結論は、アメリカが国際秩序の維持者としての役割を果たし続けるべきであるというものであった。

ここに、キッシンジャー思想の根本的な欺瞞がある。「秩序」は中立的な概念ではない。秩序とは、ある特定の権力配置を固定化し、それを「正常」「安定」として正当化する言説的装置である。キッシンジャーが維持しようとした「秩序」とは、アメリカが世界の頂点に立つ権力配置にほかならない。この「秩序」は、チリの民主主義を破壊し、カンボジアを爆撃し、東ティモールの虐殺を容認し、バングラデシュの独立運動を妨害することで維持された。キッシンジャーの「秩序」の維持とは、アメリカ帝国の利益の維持と同義であった。

法の支配の記事で分析したように、帝国は常に自らの支配を普遍的な秩序として偽装する。ローマ帝国の「パクス・ロマーナ」、大英帝国の「パクス・ブリタニカ」、そしてアメリカの「パクス・アメリカーナ」。キッシンジャーが「秩序」と呼んだものは、アメリカ版の「パクス」にすぎない。この「秩序」を脅かす者は、チリの民主的に選ばれた大統領であれ、カンボジアの農民であれ、容赦なく排除された。

日本への含意

キッシンジャー外交は、日本にとって直接的な教訓を含んでいる。

第一に、1971年の「ニクソン・ショック」は、日本がアメリカにとって犠牲にしうる同盟国であることを明確に示した。キッシンジャーは、米中接近を日本に事前通告しなかった。日本は、アメリカの地政学的計算の中で通知される必要すらない存在であった。ジャパンハンドラーが構築した「日米同盟」の実態は、アメリカが日本を管理する一方的な関係であり、日本の利益がアメリカの戦略的計算に従属する構造である。キッシンジャーの行動は、この構造を裏付けている。

第二に、キッシンジャーが設計したペトロダラー体制は、日本を含む世界各国をドル覇権のもとに組み込む金融的従属構造の基盤となった。日本は石油をドルで購入しなければならず、そのためにドルを稼がなければならず、そのためにアメリカ市場へのアクセスを維持しなければならない。この連鎖は、日本の経済的自律性を構造的に制約している。

第三に、キッシンジャーの「秩序」概念は、アメリカ軍の日本駐留を正当化する論理と直結している。アメリカの「秩序」を維持するためには、アジアにおける軍事的プレゼンスが必要であり、そのために在日アメリカ軍の駐留が不可欠であるという論理構造である。しかし、この「秩序」はアメリカの覇権的利益の別名であり、日本の民族自決権はこの「秩序」の中で構造的に否定されている。

他の外交思想家との比較

メッテルニヒとの比較:保守主義か帝国主義か

キッシンジャーはメッテルニヒを外交の模範としたが、両者の間には決定的な差異がある。メッテルニヒの外交は、ヨーロッパの多極的な勢力均衡の維持を目的としていた。メッテルニヒは、オーストリアがヨーロッパを支配する一極覇権を目指したのではなく、主要国間の均衡を通じて秩序を維持しようとした。

キッシンジャーの外交は、これとは本質的に異なる。キッシンジャーが維持しようとしたのは多極的均衡ではなく、アメリカの一極覇権であった。キッシンジャーは勢力均衡を語りながら、その均衡の頂点には常にアメリカが位置していた。メッテルニヒの外交は保守主義的であったが、キッシンジャーの外交は帝国主義的であった。

ビスマルクとの比較:自制の有無

ビスマルクは、ドイツ統一後の外交において、獲得した地位を維持するための慎重な同盟外交を展開した。ビスマルクは、ドイツの過剰な拡張が周辺国のバランシングを招くことを理解しており、意識的に自制を実践した。

キッシンジャーにはこの自制が欠如していた。キッシンジャーの外交は、世界中のあらゆる場所でアメリカの影響力を拡大し、アメリカに敵対的な政権を排除することを目指した。チリ、カンボジア、バングラデシュ、東ティモール。キッシンジャーの外交には地理的限界がなかった。ウォルツやミアシャイマーのリアリズムが警告する「過剰拡張」(overextension)の典型が、キッシンジャーの外交にほかならない。

評価と遺産

キッシンジャーの死後(2023年11月29日、100歳で死去)、彼の評価は大きく分かれている。アメリカの外交政策エスタブリッシュメントはキッシンジャーを「20世紀最大の外交戦略家」として称賛する。一方、チリ、カンボジア、東ティモール、バングラデシュなど、キッシンジャーの外交の犠牲となった国々からは、「戦争犯罪人」として激しく批判されてきた。クリストファー・ヒッチンズは著書『キッシンジャー裁判』(The Trial of Henry Kissinger, 2001年)において、キッシンジャーを戦争犯罪と人道に対する罪で訴追すべきであると論じた。

保守ぺディアの視座からは、キッシンジャーの外交はアメリカ帝国主義の理論的・実践的完成形として評価される。キッシンジャーは、「リアリズム」「秩序」「勢力均衡」という学術的概念を借用しながら、その内容をアメリカの覇権的利益で満たし、アメリカの帝国主義的行動に知的正当性を与えた。キッシンジャーの「リアリズム」は、アメリカの覇権を自然化し、アメリカの帝国的行動を「秩序の維持」として正当化する、最も洗練されたイデオロギー装置であった。

キッシンジャーが設計した外交構造、すなわちペトロダラー体制、日米同盟の非対称的構造、中東への介入主義は、21世紀に入っても基本的に維持されている。キッシンジャーの遺産を問うことは、アメリカ帝国の構造そのものを問うことにほかならない。

参考文献

関連項目