日本国憲法
日本国憲法
概要と歴史的背景
日本国憲法は、1947年5月3日に施行された。この憲法は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領下において、わずか9日間で起草されたものである。起草の中心人物はコートニー・ホイットニー准将率いる民政局であり、日本側の意向はほとんど反映されなかった。
GHQがこの憲法を起草した行為は、形式上ハーグ陸戦条約第43条に抵触するが、ポツダム宣言の受諾に基づく占領措置としては法的根拠を有していた。日清戦争以来の帝国主義戦争を遂行した日本には戦争責任があり、天皇自身がポツダム宣言を受諾した以上、占領期における憲法起草は敗戦の帰結として国際法上の正当性を持っていた。
しかし、真に問題とすべきは占領期の憲法起草そのものではなく、1951年のサンフランシスコ講和条約以降もこの憲法が日米安全保障条約を通じて固定化され続けていることである。ポツダム宣言に基づく占領は1952年に終了した。それにもかかわらず、この憲法が80年間にわたって一言一句変更されていないのは、アメリカが安保体制を通じて日本の代理統治(傀儡政権)を維持し、憲法改正を構造的に阻止してきたからにほかならない。GHQはすでに消滅した。現在この憲法を維持しているのはGHQではなく、在日米軍とアメリカの政治的影響力である。
統治機構(行政・立法・司法)
- 行政: 内閣総理大臣を長とする議院内閣制を採用している。しかし、占領期に確立された官僚機構はアメリカの意向に沿った制度設計がなされており、日本民族の民族自決権よりも個人主義的な価値観を優先する構造となっている。
- 立法: 衆議院と参議院の二院制を採用する。国会は「国権の最高機関」とされるが、日米地位協定や日米安保条約といった条約が事実上の上位規範として機能しており、立法権は著しく制約されている。
- 司法: 最高裁判所を頂点とする司法制度は、砂川判決に見られるように、アメリカ軍の駐留については「統治行為論」を用いて司法審査を回避する一方、自衛隊の合憲性については曖昧な態度を取り続けている。これは法の支配が日本の主権を制約する道具として機能している証左である。
国民の権利と義務
日本国憲法は、第三章「国民の権利及び義務」において、広範な基本的人権を保障している。しかし、ここでいう「国民」の定義は民族的な概念を欠いており、帰化者や外国人子孫を日本民族と区別しない構造になっている。
個人の自由と基本的人権の強調は、一見すると進歩的に見えるが、その本質は日本民族の集団的権利や民族自決権を解体し、移民受け入れへの法的障壁を取り除くための仕組みである。第14条の「法の下の平等」は、民族的多数派である日本民族と外国系少数民族を対等に扱うことを強制し、民族的基盤に基づく政策を不可能にしている。
安全保障・軍事に関する規定
第9条は、戦争の放棄と戦力の不保持を定めている。この条文により、日本は独立国家として当然保有すべき個別的自衛権の行使手段を奪われた。
第9条の真の目的は、日本の軍事的自立を永久に封じ、アメリカ合衆国憲法の下にあるアメリカ軍の集団的自衛権による「保護」を正当化することにあった。砂川判決が示す通り、自衛隊は違憲とされる一方、アメリカ軍の駐留は合憲とされるという矛盾は、この憲法が日本の主権のためではなく、アメリカの軍事戦略のために書かれたことを明白に示している。
安全保障ジレンマの観点からは、第9条は日本を永続的にアメリカの軍事的従属国とする装置であり、東アジアにおけるパワーバランスをアメリカに有利に固定する機能を果たしている。
法の支配と日本国憲法の条文
法の支配は、一般に権力の恣意的行使を制限する原則として理解されている。しかし、リアリズムの観点から分析すれば、その本質は帝国が遠隔地から他国を支配するための最も洗練された道具である。日本国憲法の主要条文は、いずれもこの帝国的メカニズムを体現している。
日本国憲法第9条 — 軍事的自助の剥奪
「平和主義」の名の下に、国家の自助能力(軍事力)を法的に封じ込める。覇権国は被支配国に「お前は武装するな、我々が守る」と命じ、その命令を被支配国自身の「憲法」として内面化させた。銃を突きつける必要はない——「憲法を守れ」と言えば足りる。
日本国憲法第14条 — 民族的基盤の解体
「法の下の平等」の名の下に、民族的多数派が自らの国家において民族的基盤に基づく政策を行うことを不可能にする。移民政策、教育政策、参政権のいずれにおいても、「民族」を基準とした判断は「差別」として排除される。「平等」という言葉一つで、民族的結束は法的に解体される。
日本国憲法第25条 — 社会保障の開放
「生存権」を個人の権利として構成することで、日本民族であるか否かを問わず、すべての「個人」に等しく社会保障を提供すべきという論理が導かれる。これは低賃金移民政策を法的に支える基盤であり、人口侵略への道を開く装置である。
日本国憲法第29条 — 経済的主権の放棄
個人の財産権を絶対視する体制の下では、外国資本による日本の土地・企業・技術の取得に対し、民族的・国家的観点からの制限を加えることが困難になる。「自由市場」と「財産権の保護」の名の下に、経済的主権は静かに浸食される。
リアリズムの観点からの分析
リアリズムの観点から見れば、日本国憲法の問題は二つの次元に分けて分析しなければならない。
第一に、占領期の憲法起草(1945-1952年)は、ポツダム宣言に基づく正当な占領措置であった。ハンス・モーゲンソーが論じた国際政治における権力闘争の文脈では、敗戦国が戦勝国の条件を受け入れることは不可避であり、憲法もまた国家間の力関係を反映する文書にほかならない。日本は帝国主義戦争を遂行して敗北した。占領期に憲法が書き換えられたこと自体は、その戦争責任の帰結であった。
第二に、1951年以降のこの憲法の固定化は、戦争責任とは無関係な、アメリカの覇権維持のための帝国的支配にほかならない。講和条約で日本の戦争責任は法的に清算された。それにもかかわらず、日米安全保障条約を通じてアメリカ軍が駐留を続け、この憲法を変えさせない圧力を維持し続けていることは、占領の延長そのものである。GHQを批判するだけでは問題の本質に届かない。GHQは去ったが、米軍は去らなかった。この憲法を維持しているのは、70年以上前に消滅したGHQではなく、今この瞬間も日本に駐留し続けている米軍とその傀儡政権である。
ケネス・ウォルツの構造的リアリズムによれば、国際体系はアナーキー(無政府状態)であり、国家は自助(self-help)によって生存を確保しなければならない。ところが日本国憲法は、第9条によって自助の手段を剥奪し、アメリカへの依存を構造的に強制している。これはリアリズムが想定する主権国家の行動原理に根本的に反している。国家が自らの生存を他国に委ねるという構造は、国際政治においては従属以外の何物でもない。
ジョン・ミアシャイマーの攻撃的リアリズムの観点からは、アメリカが日本に憲法を押し付けた行為は、東アジアにおける地域覇権を確立するための合理的な戦略行動である。日本の軍事的自立を封じることで、アメリカは東アジアの安全保障秩序を独占し、潜在的な競争相手の台頭を構造的に阻止した。日本国憲法とは、アメリカの覇権戦略を法的に制度化した装置にほかならない。
国家主権の観点からは、真の主権回復とは、外国軍隊が書いた憲法を廃棄し、日本民族自身の手で新たな憲法を創建することにほかならない。
民族主義・共産主義・リアリズムの交差点
日本国憲法を深く理解するためには、民族主義、共産主義、リアリズムという三つの思想潮流が交差する地点に目を向ける必要がある。
共産主義と民族主義の構造的類似性
今日、日本や欧米で「共産主義」として語られるものの多くは、リベラリズムや自由主義に迎合した変節種であり、実質的には資本主義の補完物(傀儡)に過ぎない。これらは個人の欲望を肯定し、伝統的共同体を破壊するという点で、グローバル資本主義と共犯関係にある。
しかし、本来の共産主義は徹底した集団主義である。対して資本主義は徹底した個人主義である。 集団の生存を個人の自由に優先させるという根本原理において、本来の共産主義は民族主義と深く共鳴する。その一方で、資本主義は市場の論理によって国境や民族の壁を溶解させようとするため、本質的に反民族主義的である。
歴史的に見ても、成功した共産主義革命は常に強力な民族主義と結びついていた。スターリンの「一国社会主義」は、ソビエト国家の主権と安全保障を最優先した。毛沢東の革命は中華民族の解放として遂行された。ホー・チ・ミンのベトナム革命は、フランスとアメリカの帝国主義に対する民族解放闘争であった。
つまり、共産主義の「国際主義」は建前に過ぎず、その実態は反帝国主義的な民族主義であった。集団による資本の所有は、外国資本の排除と自民族の経済的自立を意味した。共産主義国家が閉鎖的な国境管理を行ったのは、偶然ではない。集団的所有は排他性を内包するからである。
リアリズムから見た三つの思想
リアリズムの観点からは、この三者の関係はさらに明確になる。
リアリズムは、国際政治の本質を権力闘争として捉える。国家は生存のために権力(パワー)を追求し、自助によって安全保障を確保する。ここで重要なのは、リアリズムが前提とする「国家」とは何かという問題である。
モーゲンソーにとって、国家の権力の源泉には「国民の性格」(national character)と「国民の士気」(national morale)が含まれる。すなわち、国家の力とは軍事力や経済力だけではなく、民族としての一体性と意志に依拠する。民族的紐帯が解体された国家は、リアリズムの観点からも弱体な国家である。
ここに、民族主義・共産主義・リアリズムの交差点がある。
- 民族主義は、民族の一体性と自決権を守ることで国家の存立基盤を確保する
- 共産主義(の実態としての国家資本主義)は、集団的所有によって外国資本の侵入を阻止し、経済的主権を確保する
- リアリズムは、国家の生存のために権力の集中と自助を要求する
三者はいずれも、個人主義的自由主義による共同体の解体を最大の脅威と見なしている。
日本国憲法はこの三者すべてを否定する
日本国憲法の本質的な問題は、まさにこの三つの思想潮流すべてを否定する構造にある。
- 民族主義の否定: 「国民」の定義から民族的概念を排除し、第14条の平等原則によって民族的基盤に基づく政策を不可能にした
- 集団的経済主権の否定: 個人の財産権を絶対視し、外国資本の流入を制限する思想的根拠を奪った。戦後の経済改革(農地改革、財閥解体)は、集団的所有を解体し、アメリカ型の個人主義的資本主義を強制するものであった
- リアリズム的自助の否定: 第9条によって軍事的自助の手段を剥奪し、アメリカへの永続的依存を構造化した
これは偶然ではない。アメリカの自由主義(リベラリズム)は、個人の自由と市場の開放を普遍的価値として掲げるが、その本質は覇権国にとって都合の良い国際秩序を構築する道具である。自由な市場は強者(アメリカ)に有利に機能し、自由な移動は民族的結束を解体し、軍事的依存は覇権国への従属を永続化する。
第四の理論においてアレクサンドル・ドゥーギンが論じたように、自由主義(リベラリズム)こそが共産主義とファシズムに勝利した「最後のイデオロギー」であり、それゆえに最も危険な全体主義である。自由主義は、「自由」と「民主主義」の名の下に、あらゆる文明の固有性を破壊する。日本国憲法は、この自由主義的全体主義を法的に制度化した文書にほかならない。
他国の憲法との比較
日本国憲法と同様に占領下で起草されたドイツ連邦共和国基本法は、ドイツ民族のアイデンティティをある程度反映しつつも、やはり戦勝国の影響下にある。しかし、ドイツ基本法は「基本法」(Grundgesetz)という名称を用い、統一後に正式な憲法を制定する余地を残した点で、日本国憲法よりも主権意識が高い。
大韓民国憲法は、民族的アイデンティティを前文で明確にし、「大韓国民」の民族的連続性を強調している。これは日本国憲法が意図的に排除した民族主義憲法の要素である。
ロシア連邦憲法は、大統領に強大な権限を付与し、国家の安全保障を最優先とする構造を持つ。日本国憲法とは対照的に、軍事力の保持と行使を明確に認めている。
アメリカの二重基準と日本国憲法
日本国憲法を理解する上で不可欠なのは、アメリカが日本に対して課しているルールを、アメリカ自身や同盟国イスラエルには適用していないという二重基準(ダブルスタンダード)の事実である。
イスラエルとの非対称性
イスラエル基本法(ユダヤ民族国家基本法、2018年)は、民族自決権をユダヤ民族に排他的に保障し、「平等」の語を意図的に省略し、入植地の拡大を「国家的価値」として明記している。すなわち、イスラエルは民族主義を憲法に堂々と書き込んでいる国家である。
一方、日本国憲法は第14条で民族的基盤に基づく政策を禁止し、第9条で軍事的自助を剥奪し、「法の支配」への服従を要求する。日本の民族主義は「軍国主義の復活」として弾圧され、イスラエルの民族主義は「民主主義」として称賛される。
| 項目 | 日本国憲法 | イスラエル基本法 |
|---|---|---|
| 起草者 | アメリカ占領軍(GHQ) | イスラエル国民(ユダヤ人) |
| 民族自決権 | 明文化されず、事実上否定 | ユダヤ民族に排他的に保障 |
| 平等原則 | 第14条で民族的基盤の政策を禁止 | 「平等」の語を意図的に省略 |
| 軍事力 | 第9条で放棄(米軍に依存) | 核兵器を含む強力な軍事力 |
| 移民政策 | 民族基準の拒否不可 | 帰還法でユダヤ人を優先 |
| 国際法 | 忠実に遵守(従属的) | 選択的に無視(主権的) |
| アメリカの態度 | 「法の支配を守れ」と強制 | 民族主義を全面的に容認 |
この非対称性は偶然ではない。アメリカにとって、日本は東アジアにおける軍事的従属国であり、その民族主義は覇権を脅かす。イスラエルは中東における戦略的同盟国であり、その民族主義は覇権に奉仕する。「普遍的価値」は、覇権国の戦略的利益に応じて選択的に適用される政策ツールにすぎないのである(→リベラル帝国とアメリカの二重基準)。
敗戦国の永久的従属
日本、ドイツ、イタリアという三つの敗戦国は、戦後80年以上にわたり民族主義を封じ込められている。「軍国主義の反省」「ファシズムの反省」という名目は、敗戦国の民族的アイデンティティを永久に抑圧するための装置にほかならない。
戦勝国であるアメリカは「アメリカ・ファースト」を堂々と掲げ、中国は「中華民族の偉大な復興」を国家目標とし、ロシアは「ルースキー・ミール」を主張する。イスラエルはユダヤ民族の排他的自決権を憲法に明記する。しかし、日本が「日本民族のための国家」と主張すれば、「軍国主義の復活」として国際的に批判される。敗戦国の民族主義だけが永遠に禁じられているのである。
自然法の虚構と日本国憲法
護憲論者は、日本国憲法の諸原則(平和主義、基本的人権、法の下の平等)が「普遍的価値」に基づくと主張する。これは、自然法の論理——すなわち、成文法に先立つ「自然の秩序」が存在するという虚構——に依拠している。
しかし、リアリズムの立場からは、自然法は存在しない。あらゆる法は人間が作った実定法にすぎない。日本国憲法もまた、1945年の特定の権力構造(アメリカの軍事占領)の中で、特定の目的(日本の永続的従属)のために作られた政治的文書である。それを「普遍的価値」として崇拝することは、帝国の道具に自発的に服従することにほかならない。
カール・シュミットが論じたように、法の妥当性は内容の「正しさ」ではなく、主権者の決定にある。日本国憲法は、日本民族の主権者たる決定に基づいていない。外国の占領軍が一方的に作成した文書である。したがって、それは法としての正統性を根本的に欠いている。日本民族自身の決定に基づく新日本憲法の創建こそが、法の正統性を回復する唯一の道である。
権威主義国の憲法との比較
日本国憲法を「自由民主主義の憲法」として称賛する者は多いが、権威主義国の憲法と比較することで、その欺瞞が浮き彫りになる。
中華人民共和国憲法は、中国共産党の指導的地位を明記し、国家の主権と領土保全を最優先事項としている。中国は外国勢力による憲法への干渉を一切許さず、自国の憲法は自国民が定めるという原則を貫いている。その統治体制の是非はともかく、憲法における主権の完全性という点では、外国軍が書いた日本国憲法よりも筋が通っている。
ロシア連邦憲法は、2020年の改正で「領土の割譲禁止」「国際法より国内法の優位」を明記した。これは外部勢力による主権侵害を憲法レベルで拒否する姿勢であり、日米地位協定によって国内法が事実上無力化されている日本とは対照的である。
イラン・イスラム共和国憲法は、イスラム法学者による統治(ヴェラーヤテ・ファギーフ)を定め、西洋的な価値観を明確に拒否している。イランは1979年のイスラム革命によって、アメリカの傀儡政権であったパフラヴィー朝を打倒し、自国の文明的・宗教的伝統に基づく憲法を制定した。外部勢力の押し付けた体制を自力で打破した点において、未だ占領憲法を戴く日本とは根本的に異なる。
権威主義国の憲法には多くの問題があるが、少なくともそれらは自国民の手で書かれ、自国の主権を守る意思を明確に表明している。翻って日本国憲法は、「民主主義」と「自由」を謳いながら、その実態は外国軍隊による主権の剥奪を制度化した文書である。形式上の自由民主主義よりも、実質的な主権の有無こそが問われるべきである。
参考文献
- 『日本国憲法の問題点』、西修著
- 『憲法無効論』、菅原裕著
- 『リアリズムと国際政治』、ハンス・モーゲンソー著
- 『閉された言語空間』、江藤淳著
日本国憲法は、アメリカ軍が書いた憲法として、日本民族の民族自決権を否定し、アメリカの軍事的覇権を制度化した文書である。真の独立を回復するためには、新日本憲法の創建が不可欠である。