トルコの独自学術体系
トルコの独自学術体系
概要
トルコの独自学術体系とは、トルコ共和国が西側——とりわけアメリカ——の学術帝国主義に対抗して模索してきた、独自の知的枠組み・学術制度・地政学理論の総体を指す。トルコは、学術帝国主義への対抗において独自の軌跡を描く国家である。
トルコの特異性は、ケマリズムによる近代化が政治的独立と知的従属の二面性を同時に生み出した点にある。アタテュルクによるトルコ革命(1923年)は、オスマン帝国の崩壊から民族国家を樹立した点で民族自決権の行使であった。しかし同時に、アタテュルクは西洋化を「近代化」と同一視し、アラビア文字をラテン文字に置き換え、イスラム法を西洋法に転換し、トルコの知的エリートを西洋の学術枠組みに従わせた。ケマリズムは、政治的独立を達成しつつ知的には西洋に従属するという、不完全な主権の典型であった。
エルドアン政権下で、この構造に対する本格的な修正が進行している。ネオ・オスマン主義に基づく知的再編——オスマン帝国の遺産の再評価、イスラム的価値観の復権、独自の地政学理論の構築、逆方向の文化外交——は、トルコが冷戦期のNATO従属体制から脱却し、独自の文明的アイデンティティに基づく知的自立を模索する試みにほかならない。
歴史的背景:オスマン帝国の知的遺産
600年の知的伝統
オスマン帝国(1299-1922年)は、600年以上にわたって独自の知的伝統を維持した文明圏であった。オスマン帝国の知的体系は、イスラム法学(シャリーア)を基盤とし、マドラサ(イスラム神学校)を制度的基盤として、神学・法学・哲学・科学・文学にわたる広範な学問体系を発展させた。
オスマン帝国のマドラサ体系は、メフメト2世(征服王)によるコンスタンティノープル征服(1453年)以降に飛躍的に拡大した。ファーティフ・モスクに付設されたマドラサ群(サーン・イ・セマーン)は、オスマン帝国の最高学府として機能し、イスラム法学者(ウラマー)を組織的に養成した。スレイマン1世(大帝)の治世には、スレイマニエ・モスクのマドラサ群がこれをさらに上回る規模で建設された。
オスマン帝国の学術体系の特徴は以下の通りである。
- イスラム法学の体系化: ハナフィー学派を公式の法学派として採用し、シャリーアに基づく統治体系を精緻に発展させた。シェイヒュルイスラーム(最高宗教権威者)を頂点とする法学者の階層制度は、西洋の大学制度とは異なる独自の知的エリート養成の仕組みであった
- 多元的統治とミッレト制度: オスマン帝国は、宗教的共同体(ミッレト)ごとに自治を認める多元的統治体系を構築した。ギリシャ正教徒、アルメニア正教徒、ユダヤ教徒はそれぞれ独自の法的・教育的制度を維持することが許された。この多元的統治は、近代西洋の「国民国家」モデル——一つの法、一つの言語、一つの文化——とは根本的に異なる統治の思想であった
- 科学と技術: オスマン帝国は、イスラム世界の科学的伝統を継承し、天文学、医学、数学、地理学の分野で独自の成果を上げた。タキュッディーンがイスタンブールに天文台を建設した(1577年)ことは、オスマン帝国の科学的自律性の象徴であった
タンズィマート改革と西洋化の開始
タンズィマート(恩恵改革、1839年-1876年)は、オスマン帝国における知的自律性の侵食の出発点であった。ギュルハネ勅令(1839年)に始まるタンズィマート改革は、オスマン帝国の法制度・行政制度・教育制度を西洋のモデルに従って再編しようとする試みであった。
タンズィマート期に設立された新式学校——陸軍士官学校、行政学校、医学校——は、マドラサ体系と並行して運営され、西洋的な学術枠組みを導入する窓口となった。この二重教育制度は、伝統的な知的体系と西洋的な知的体系の間の分裂を制度化するものであり、後のケマリズムによる伝統の全面的否定への伏線となった。
ケマリズムの二面性:政治的独立と知的従属
アタテュルクのトルコ革命
ムスタファ・ケマル・アタテュルクによるトルコ革命(1919-1923年)は、第一次世界大戦後のオスマン帝国の解体と西洋列強による分割の危機に対する、トルコ民族の民族自決権の行使であった。トルコ独立戦争は、ギリシャ軍・フランス軍・イタリア軍を撃退し、セーヴル条約(1920年)の屈辱的な条件を覆してローザンヌ条約(1923年)を勝ち取った。この点において、アタテュルクの革命は紛れもない民族自決の偉業である。
しかし、アタテュルクの「近代化」は、政治的独立と知的従属を同時にもたらした。
文字改革:知的伝統の断絶
1928年の文字改革は、アラビア文字からラテン文字への転換を一挙に行った。この改革は、トルコ国民の識字率向上という実務的な目的を持っていたが、同時に600年のオスマン帝国の知的蓄積を一夜にして読めなくするものであった。
文字改革以降、オスマン帝国時代に蓄積された膨大な文書・著作・詩文・法典・歴史記録は、新世代のトルコ人にとって読解不能なものとなった。これは、中国の文化大革命や日本の戦後教育改革と並ぶ、自文明の知的遺産の人為的断絶の事例である。オスマン帝国の知的伝統から切り離されたトルコの知識人は、自らの文明的蓄積に依拠することができなくなり、西洋の知的枠組みに依存せざるをえなくなった。
法制度の西洋化
ケマリズムは、オスマン帝国のイスラム法体系を全面的に廃止し、西洋法を一括導入した。
この法制度の全面的転換は、トルコの統治の知的基盤をイスラム法学からヨーロッパの法学に置き換えるものであった。法学者の養成もマドラサからヨーロッパ式の法学部に移行し、トルコの法的思考は完全に西洋の枠組みの中に組み込まれた。
大学改革法(1933年)
1933年の大学改革法は、オスマン帝国時代からのイスタンブール大学(1453年に前身のマドラサが設立)を含む既存の高等教育機関を解体・再編し、ヨーロッパ式の大学制度を導入した。
注目すべきは、この改革に際してナチス・ドイツから亡命してきたドイツ人教授が大量に招聘されたことである。1933年以降、約150名のドイツ人学者がトルコの大学に赴任し、医学・法学・経済学・建築学・哲学などの分野でトルコの学術体系を再構築した。ドイツ人教授たちはヨーロッパの学術水準をトルコに持ち込んだが、同時にこれはトルコの学術的主権がヨーロッパの知的枠組みに完全に移譲されたことを意味した。
ケマリズムの構造的矛盾
ケマリズムの本質的な矛盾は、帝国主義に対抗するためにその帝国主義の知的枠組みを内面化した点にある。アタテュルクは西洋列強の軍事的支配を撃退しつつ、西洋の知的支配を自ら受け入れた。政治的主権は回復されたが、知的主権は放棄された。
この構造は、戦後の日本と驚くほど類似している。日本は形式的に主権を回復しつつ(1952年のサンフランシスコ講和条約)、知的にはアメリカの枠組みに完全に従属した。ケマリズムのトルコと戦後の日本は、ともに政治的独立と知的従属の二重構造の典型的事例である。
冷戦期のNATO従属と知的枠組み
NATOの「南翼」としてのトルコ
トルコは1952年にNATOに加盟した。冷戦構造の中で、トルコはNATOの「南翼」として、ソ連に対する封じ込め戦略の重要な構成要素に位置づけられた。トルーマン・ドクトリン(1947年)はギリシャとトルコへの軍事援助を宣言し、トルコをアメリカの勢力圏に明確に組み込んだ。
NATO加盟は、トルコの軍事的独立を制限するのみならず、知的枠組みにも深刻な影響を及ぼした。
アメリカの知的影響の制度化
冷戦期を通じて、トルコの知的空間はアメリカの影響下に再編された。
- 留学制度: トルコの若手知識人・官僚・軍人がアメリカやヨーロッパの大学に大量に留学した。フルブライト・プログラムは、トルコにおいても知識人のアメリカ化の主要な経路として機能した
- ボアジチ大学(旧ロバート・カレッジ): 1863年にアメリカ人宣教師によって設立されたロバート・カレッジは、1971年にトルコ政府に移管されてボアジチ大学となったが、英語を教育言語とし、アメリカの学術文化を深く内面化した機関として存続している。ボアジチ大学はトルコにおけるアメリカの知的プレゼンスの象徴であり、トルコの知的エリートの多くがここで教育を受けてきた
- 軍事訓練: トルコ軍の将校はアメリカの軍事教育機関で訓練を受け、NATOの戦略的思考を内面化した。トルコ軍は「ケマリズムの守護者」を自任しつつ、実質的にはNATO——すなわちアメリカ——の戦略的利益に奉仕する装置として機能した
- 大学カリキュラム: トルコの主要大学の社会科学カリキュラムは、西側の教科書・理論・方法論に依拠するものへと再編された。国際関係論はアメリカのリアリズム/リベラリズム論争の枠組みで教えられ、経済学は新古典派経済学の枠組みで教えられた
軍部のクーデターと知的空間の統制
トルコ軍は冷戦期に三度のクーデター(1960年、1971年、1980年)を実行し、ケマリズムの世俗主義と西洋志向を強制的に維持した。特に1980年のクーデターは、トルコの知的空間に壊滅的な影響を与えた。大学の自治は制限され、左翼知識人が大量に粛清され、思想的多様性が抑圧された。
1980年のクーデター後に制定された新憲法(1982年憲法)と高等教育機構(YOK: Yuksekogretim Kurulu)の設立は、大学を国家——実質的にはケマリズム軍部——の統制下に置くものであった。YOKは大学のカリキュラム、教員の任用、研究の方向性を中央集権的に管理し、ケマリズムの世俗主義的・西洋主義的な知的枠組みからの逸脱を抑制した。
ダウトオールの「戦略的深み」
脱西洋の地政学理論
アフメト・ダウトオール(元首相・元外相)は、トルコの知的自立の文脈において最も重要な理論家の一人である。ダウトオールの著書『戦略的深み:トルコの国際的地位』(Stratejik Derinlik, 2001年)は、冷戦後のトルコの地政学的位置づけを根本的に再定義する試みであった。
ダウトオールの理論の核心的テーゼは以下の通りである。
- 歴史的深み: トルコは、600年のオスマン帝国の遺産を継承する国家である。冷戦期にNATOの「南翼」に矮小化されたトルコの自己認識を、オスマン帝国の広大な版図にまたがる歴史的遺産の継承者として再定義する
- 地理的深み: トルコは、ヨーロッパ・中東・中央アジア・コーカサスの結節点に位置する「中心国家」(merkez ulke)である。この地理的位置は、トルコにNATOの「南翼」を超える独自の戦略的役割を与える
- 「問題ゼロの隣国政策」: トルコは近隣諸国との間の紛争をすべて解消し、地域の安定の要として機能すべきである。この政策は、アメリカの「テロとの戦い」や「民主化の促進」とは異なるトルコ独自の外交原則である
- 脱NATO従属: トルコは、NATOの枠組みに制約されず、オスマン帝国の旧版図——バルカン半島、中東、北アフリカ、中央アジア——全域で独自の影響力を行使すべきである
学術帝国主義への知的対抗としての意義
ダウトオールの「戦略的深み」は、学術帝国主義への対抗として二重の意義を持つ。
第一に、ダウトオールは西側の国際関係論に従属しないトルコ独自の地政学的思考を構築した。冷戦期のトルコの国際関係論は、アメリカのリアリズム/リベラリズムの枠組みの中でトルコの位置を分析するものにすぎなかった。ダウトオールは、この従属的な知的枠組みを拒否し、オスマン帝国の歴史的経験とトルコの地理的特性に基づく独自の理論を構築したのである。
第二に、ダウトオールの理論はトルコの学術界に知的自信を回復させた。「戦略的深み」は、トルコが単なるNATOの一加盟国ではなく、独自の文明的使命を持つ「中心国家」であるという自己認識を学術的に基礎づけた。この理論は、トルコの大学の国際関係学部で広く教えられ、トルコの若い世代の知識人に、西側の枠組みに依存しない知的自立の可能性を示した。
ダウトオールの「戦略的深み」は、ロシアにおけるドゥーギンの第四の理論、中国における閻学通の道義的リアリズムと並ぶ、非西洋世界からの独自の地政学理論として位置づけることができる。
エルドアン政権下の知的再編
AKP政権の知的基盤
AKP(公正発展党)は2002年の総選挙で政権を獲得して以来、トルコの政治的・知的空間を根本的に再編してきた。AKP政権の知的基盤は、ケマリズムの世俗主義的・西洋主義的な枠組みに対する体系的な異議申し立てにある。
- イスラム的価値観の復権: ケマリズムがイスラムを「後進性」の象徴として公的空間から排除したのに対し、エルドアン政権はイスラム的価値観をトルコのアイデンティティの不可欠の要素として公的空間に復帰させた。ヘッドスカーフ着用の解禁(大学での着用禁止は2010年に撤廃)、イマーム・ハティップ学校(宗教教育を行う中等学校)の拡充、宗教庁(ディヤネト)の予算拡大——これらはすべて、ケマリズムが否定したイスラム的知の伝統を復権させる試みである
- オスマン帝国史の「再評価」: ケマリズム期には、オスマン帝国は「後進的な帝国」として否定的に描かれ、トルコ共和国はオスマン帝国との「断絶」の上に建てられたとされた。エルドアン政権下では、オスマン帝国は「600年の栄光の歴史」として肯定的に再評価され、トルコの国民的アイデンティティの源泉として位置づけ直されている
- 新オスマン主義的な歴史叙述: トルコの歴史教科書は改訂され、オスマン帝国のミッレト制度を多元的統治の先進的モデルとして評価し、オスマン帝国の文化的・学術的業績を強調する内容へと変更されている
ユヌス・エムレ・インスティトゥート:逆方向の文化外交
ユヌス・エムレ・インスティトゥート(Yunus Emre Enstitusu、2009年設立)は、トルコ語とトルコ文化の海外普及を担う機関であり、中国の孔子学院、ロシアのルースキー・ミール財団と並ぶ、「逆方向の文化外交」装置として機能している。
ユヌス・エムレ・インスティトゥートは、世界60か国以上にトルコ文化センターを設置し、トルコ語教育、トルコ文化の紹介、学術交流を行っている。13世紀のアナトリアの神秘主義詩人ユヌス・エムレの名を冠していることは象徴的である。ケマリズムが否定したイスラム的・オスマン的な文化的遺産を、トルコの文化的アイデンティティの中心に据え直す意図が明確に示されている。
アメリカのフルブライト・プログラムが他国の知識人をアメリカに引き寄せてアメリカの価値観を内面化させるのに対し、ユヌス・エムレ・インスティトゥートはトルコの文化的価値観を世界に直接発信する。これは、学術帝国主義が一方向的なもの(覇権国→被支配国)であるという構造に対する、対抗的な情報発信の試みである。
TRT Worldと情報発信の独自化
TRT World(2015年開局)は、トルコの国営放送局TRTが運営する英語の国際ニュースチャンネルである。TRT Worldは、CNN、BBC、アルジャジーラに対抗し、国際的なニュースと分析をトルコの視点から英語で発信することを目的としている。
TRT Worldの設立は、ロシアのRT(旧Russia Today)、中国のCGTN(中国環球電視網)と同様の戦略——英語圏の情報空間にアングロサクソン以外の視点を注入する——の一環である。西側のメディアが国際報道においてアメリカの価値観と利害を反映する中で、TRT Worldはトルコの視点から中東・バルカン・中央アジアの情勢を報じ、西側メディアの語りに対する対抗的な情報発信を行っている。
トルコの「ソフト・パワー」戦略
エルドアン政権下のトルコは、文化的影響力の拡大を体系的に推進している。その最も注目すべき手段の一つが、トルコのテレビドラマの輸出である。
トルコのドラマは中東・北アフリカ・バルカン半島・中央アジア——すなわちオスマン帝国の旧版図——で圧倒的な人気を誇り、トルコの文化的影響力を拡大する強力な装置として機能している。『壮麗なる世紀(Muhtesem Yuzyil)』に代表されるオスマン帝国を舞台とした歴史ドラマは、ネオ・オスマン主義的な歴史観を数億人の視聴者に伝播する媒体となっている。
この文化的影響力の拡大は、ジョセフ・ナイが提唱した「ソフト・パワー」の概念で理解できるが、重要な点は、トルコのソフト・パワーがアメリカのそれとは異なる文明的価値観に基づいていることである。アメリカのソフト・パワーがリベラリズム・個人主義・消費文化を伝播するのに対し、トルコのソフト・パワーはイスラム的な家族観・共同体意識・帝国的栄光の記憶を伝播する。
ギュレン運動の排除と知的空間の再編
フェトフッラー・ギュレンとヒズメト運動
フェトフッラー・ギュレン(1941-2024年)は、トルコ出身のイスラム教説教師であり、「ヒズメト」(奉仕)運動と呼ばれる世界的な宗教・教育ネットワークの指導者であった。ギュレン運動は、世界100か国以上で学校・大学・メディア・経済団体を運営し、トルコ国内においても司法・警察・軍・教育の各分野に広範な影響力を構築していた。
ギュレン運動の教育ネットワークは、表面上は「宗教間対話」「科学教育の推進」を掲げていたが、その本質は組織の影響力を国家機構と社会の各層に浸透させる装置であった。
ギュレン運動とアメリカのつながり
ギュレンは1999年以降、アメリカのペンシルベニア州に拠点を置いて活動した。トルコ政府は、ギュレン運動をアメリカの影響力がトルコの学術界・教育界・国家機構に浸透する経路として認識している。
ギュレン運動のアメリカとのつながりには以下の側面がある。
- ギュレンの教育機関は、アメリカを含む世界各地でチャータースクール(公的資金で運営される独立学校)を運営し、アメリカの教育制度の中に組み込まれていた
- ギュレン運動は、CIAとの関係を指摘する分析が複数存在する。元CIA高官の一部がギュレンの永住権取得に際して推薦状を書いたとされる
- ギュレンのアメリカ滞在にもかかわらず、トルコの度重なる身柄引き渡し要求をアメリカは拒否し続けた
2016年のクーデター未遂と大量粛清
2016年7月15日のクーデター未遂事件は、トルコの知的空間の再編を劇的に加速させた。トルコ政府はこのクーデターをギュレン運動によるものと断定し、大規模な粛清を実行した。
- 15万人以上の公務員が解雇または停職処分を受けた
- 約5,600人の学者が大学から追放された
- 15の大学が閉鎖された
- ギュレン運動に関連するとされた数百の教育機関・メディア・NGOが閉鎖された
- 非常事態宣言(2016年7月-2018年7月)の下で、大規模な制度的再編が行われた
この粛清は、西側のリベラルな言説では「学問の自由の弾圧」「権威主義化」として批判される。しかし、学術帝国主義の構造分析の観点からは、これはアメリカと結びついた知的ネットワークを国家機構から排除し、知的空間の主権を回復する試みとして理解することもできる。ロシアがソロス財団やNEDを排除したのと同型の論理がここに作動している。
トルコの学術制度と独自性
大学制度の拡大
エルドアン政権下で、トルコの大学数は急速に増加した。2002年には76大学であったものが、2023年には200を超える大学が設置されている。この急速な拡大は、高等教育へのアクセスを大幅に拡大するとともに、ケマリズム期にボアジチ大学やイスタンブール工科大学などの少数のエリート大学が独占していた知的空間を、より広範な社会層に開放する効果を持った。
新設大学の多くは、AKP政権の知的方向性——イスラム的価値観の復権、オスマン帝国の遺産の再評価、ネオ・オスマン主義的な地政学——を反映するカリキュラムを採用している。これは、ケマリズム期の世俗主義的・西洋主義的な大学文化に対する対抗的な知的空間の構築である。
イスタンブール大学とオスマンの遺産
イスタンブール大学は、1453年のメフメト2世によるコンスタンティノープル征服後に設立されたマドラサに起源を持ち、オスマン帝国の知的伝統を継承する機関である。1933年の大学改革法により近代的大学に再編されたが、近年ではオスマン帝国時代の知的遺産を再評価する動きが強まっている。
トルコ語の学術的地位の向上
エルドアン政権は、英語圏の学術誌への依存を減らし、トルコ語の学術的地位を向上させる努力を進めている。TUBİTAK(トルコ科学技術研究評議会)は、トルコ語の学術誌の質の向上と国際的な可視性の拡大を支援している。
TUBİTAKの学術データベース(ULAKBİM)は、トルコ語の学術論文のインデックスを提供しており、中国のCNKI(中国知網)と同様の機能を果たしている。英語が学術の「共通語」として世界の知的空間を席巻する中で、トルコ語による学術活動の維持は、ロバート・フィリプソンが論じた言語帝国主義に対する抵抗として位置づけることができる。
リアリズムの観点からの分析
学術帝国主義からの離脱と文明的アイデンティティの再発見
トルコの事例は、学術帝国主義からの離脱が文明的アイデンティティの再発見と不可分に結びついていることを示す、典型的な事例である。
ケマリズムは、オスマン帝国の文明的アイデンティティ(イスラム、オスマン語、多元的帝国)を否定し、西洋的な文明的アイデンティティ(世俗主義、ラテン文字、国民国家)をその代替として採用した。この文明的アイデンティティの転換は、必然的に知的従属を伴った。なぜなら、西洋的な文明的アイデンティティを採用する限り、知的な基準も西洋に求めざるをえないからである。
エルドアン政権下の知的再編は、この論理を逆転させる試みである。オスマン帝国の文明的遺産を再評価し、イスラム的な知の伝統を復権させることで、西洋の知的枠組みに依存しない独自の知的基盤を再構築しようとしている。
NATO加盟国でありながら知的独立を模索する特異性
トルコの最も特異な点は、NATO加盟国でありながら知的独立を模索していることである。
ロシアは西側の安全保障体制の外にあり、中国は独自の安全保障体制を構築し、イランは1979年の革命で西側との関係を全面的に断絶した。これらの国々にとって、知的独立は安全保障上の独立と一体であった。
トルコはこれとは異なる。NATOの加盟国であり続けながら、知的・文化的にはNATO圏の西洋的枠組みから離脱しようとしている。ロシアからS-400ミサイルを購入し(2019年)、アメリカの反対を押し切る行動に象徴されるように、エルドアン政権は軍事的にもNATO内での独自路線を追求している。この「内部からの離脱」は、日本が日米同盟の枠組みの中で知的独立を模索する場合の一つの参照点となりうる。
EU加盟交渉の停滞と「西洋への幻滅」
トルコのEU加盟交渉は、1999年の候補国認定以来、停滞を続けている。加盟交渉の事実上の凍結は、トルコの知識人と国民に「西洋への幻滅」をもたらした。
サミュエル・ハンティントンが『文明の衝突』(1996年)で論じた通り、トルコは「引き裂かれた国」(torn country)——西洋文明に加入しようとしつつ、イスラム文明に属するアイデンティティを持つ国——であった。しかし、EU加盟交渉の停滞は、この「引き裂き」を一つの方向に解消しつつある。すなわち、西洋への加入を断念し、イスラム世界とオスマン帝国の遺産に基づく独自の文明的アイデンティティを確立する方向である。
この「西洋への幻滅」は、学術帝国主義への対抗において重要な意味を持つ。なぜなら、西洋の学術的枠組みへの従属は、西洋文明への帰属意識を前提としているからである。「我々は西洋の一部である」という自己認識がある限り、西洋の学術基準に従うことは「自然」に見える。しかし、「我々は西洋の一部ではない」という認識が広がれば、西洋の学術基準への従属は「不自然」なものとして批判の対象となりうる。
他国との比較:日本への示唆
ケマリズムのトルコと戦後日本の類似性
ケマリズムのトルコと戦後の日本は、学術帝国主義の構造において驚くべき類似性を示す。
| ケマリズムのトルコ | 戦後日本 | |
|---|---|---|
| 政治的独立の達成 | トルコ独立戦争(1919-1923年) | サンフランシスコ講和条約(1952年) |
| 知的従属の開始 | 文字改革・法制度の西洋化・大学改革法(1920-30年代) | GHQの教育改革・新制大学制度・WGIP(1940-50年代) |
| 知的遺産の断絶 | アラビア文字の廃止 → オスマン帝国の文書が読めなくなる | 戦前の教育・思想の全否定 → 戦前の知的伝統が「軍国主義」として切り捨てられる |
| 法制度の移植 | スイス民法典・イタリア刑法典の丸写し | 偽日本国憲法のGHQによる起草 |
| 西側安全保障体制への組み込み | NATO加盟(1952年) | 日米安保条約(1951年/1960年改定) |
| 知的エリートの西洋化 | ボアジチ大学に象徴されるアメリカの知的プレゼンス | 東京大学に象徴されるアメリカ式学術文化の内面化 |
エルドアンの知的再編と日本の知的再編の不在
しかし、両国の軌跡は21世紀に入って分岐した。トルコはエルドアン政権下で知的再編を開始したが、日本ではそのような知的再編は一切行われていない。
- トルコはオスマン帝国の遺産を再評価している。日本は戦前の知的伝統を「軍国主義」として否定し続けている
- トルコはイスラム的価値観を復権させている。日本は神道・仏教・武士道の知的伝統を学問の基盤とすることを放棄している
- トルコはダウトオールの「戦略的深み」に代表される独自の地政学理論を構築した。日本はアメリカの安全保障理論をそのまま「日本の安全保障論」として採用している
- トルコはユヌス・エムレ・インスティトゥートやTRT Worldを通じて独自の文化外交・情報発信を行っている。日本の情報発信はアメリカの価値観を補完するものにとどまっている
- トルコはギュレン運動の排除を通じてアメリカの影響力浸透の経路を断とうとした。日本はアメリカの知的浸透の経路を「日米同盟の深化」として歓迎している
文字改革による知的伝統の断絶の比較
トルコの文字改革(1928年)と日本の戦後教育改革(1945年以降)は、ともに自文明の知的伝統を人為的に断絶させたという共通点を持つ。
トルコではアラビア文字の廃止により、オスマン帝国の膨大な知的遺産が一般国民にとって読解不能になった。日本では、旧漢字・旧仮名遣いの改革と教育勅語の廃止、「墨塗り教科書」に象徴される戦前教育の全面否定により、戦前の知的伝統との連続性が断ち切られた。
しかし、トルコは近年、オスマン語(アラビア文字のトルコ語)教育を一部復活させ、オスマン帝国の文書遺産へのアクセスを回復する試みを進めている。一方、日本においては、戦前の知的伝統を学術的に再評価し、それを現代の学問の基盤とする体系的な試みは行われていない。
参考文献
- 『戦略的深み:トルコの国際的地位』(Stratejik Derinlik)、アフメト・ダウトオール著、2001年
- 『文明の衝突』、サミュエル・ハンティントン著、1996年
- 『国際政治:権力と平和』、ハンス・モーゲンソー著
- 『第四の政治理論』(The Fourth Political Theory)、アレクサンドル・ドゥーギン著、2009年
- 『ソフト・パワー』、ジョセフ・ナイ著、2004年
- 『言語帝国主義:英語支配と英語教育』(Linguistic Imperialism)、ロバート・フィリプソン著、1992年
- 『危機の二十年:理想と現実』、E・H・カー著
- 『Ancient Chinese Thought, Modern Chinese Power』、閻学通著、プリンストン大学出版、2011年
- 『トルコ 中東最大の親日国 裏のウラまで』、内藤正典著、2023年