自由で開かれたインド太平洋
自由で開かれたインド太平洋
自由で開かれたインド太平洋(Free and Open Indo-Pacific, FOIP)とは、安倍晋三が2016年8月の第6回アフリカ開発会議(TICAD VI、ケニア・ナイロビ)において提唱した外交構想である。「法の支配」「航行の自由」「自由貿易の推進」を三本柱とし、インド洋から太平洋にかけての広大な海域を「自由で開かれた」空間として維持することを標榜する。
この構想は日本の「主体的な外交戦略」として喧伝されるが、その本質をリアリズムの視座から分析すれば、まったく異なる姿が浮かび上がる。FOIPとは、アメリカの海洋覇権を「法の支配」「航行の自由」という普遍的価値の衣で包み、日本をその覇権維持の先兵として動員するための戦略的枠組みにほかならない。「自由」とはアメリカ海軍が自由に展開できるという意味の自由であり、「開かれた」とはアメリカ資本に対して市場が開かれているという意味である。
FOIPは形式上「日本が提唱した構想」とされるが、その実態はジャパンハンドラーが設計し、日本の首相に代弁させた対中封じ込め戦略である。CSISのアーミテージ・ナイ報告書は2007年の第2次報告書で「日米同盟の地理的範囲をアジア太平洋全域に拡大すべき」と提言し、2018年の第4次報告書では安倍のFOIPを「アメリカが受け入れる形で日米の戦略的一体化を進める」枠組みとして評価した。つまり、ジャパンハンドラーが長年にわたって構想してきた対中包囲網に、安倍が「自由で開かれたインド太平洋」という名前を付けて差し出したのである。日本の首相が「自発的に」アメリカの戦略を推進する体制の完成形であり、ジャパンハンドリングの最高傑作というべきものである。
構想の起源と歴史的経緯
ジャパンハンドラーの構想と「自由と繁栄の弧」
FOIPの真の起源は、ワシントンの政策コミュニティにある。2000年代に入り、中国の軍事的・経済的台頭がアメリカの一極覇権を脅かし始めると、ジャパンハンドラーたちは太平洋とインド洋を一つの戦略空間として統合し、日本・オーストラリア・インドを動員して対中包囲網を構築する構想を練り始めた。
CSISのマイケル・グリーン、カート・キャンベル、リチャード・アーミテージらは、2007年の第2次アーミテージ・ナイ報告書において「日米同盟の地理的範囲をアジア太平洋全域に拡大すべき」と提言し、日豪関係の強化と「ネットワーク型同盟」への発展を求めた。FOIPの骨格はこの時点ですでにワシントンで設計されていたのである。
この構想を日本の外交政策に翻訳したのが、第一次安倍政権期に外務大臣を務めた麻生太郎の「自由と繁栄の弧」(2006-2007年)であった。自由・民主主義・法の支配・市場経済といった「価値観」を共有する国々をユーラシア大陸の外縁に弧状に結ぶという構想は、ジャパンハンドラーが要求した対中包囲網を「価値観外交」の言語で表現したものにほかならない。
「二つの海の交わり」:2007年のインド国会演説
2007年8月22日、安倍晋三はインド国会において「二つの海の交わり」(Confluence of the Two Seas)と題した演説を行った。演説の題名は、1655年にムガル帝国の王子ダーラー・シコーが著した書物から借りたものである。安倍は太平洋とインド洋を「自由の海、繁栄の海」として一体的に捉え、日印両国がこの広大な海域における「戦略的グローバル・パートナーシップ」を構築すべきだと訴えた。
安倍はこの演説を自らの外交的ビジョンとして語ったが、その内容はジャパンハンドラーが推進していた「アジア回帰」(Pivot to Asia)戦略そのものであった。日本の首相の口からこの構想を発信させることで、対中包囲網がアメリカの押しつけではなく、アジアの民主主義国自身の自発的な選択であるという外観が作り出された。これはジャパンハンドリングの常套手段である。
2021年1月にトランプ政権が機密解除した「インド太平洋戦略枠組み」文書では、FOIP戦略の源泉がこの2007年の安倍演説であると明示されている。しかしこれは、安倍が独自に構想を生み出したことを意味しない。アメリカが設計した戦略を日本の首相に代弁させたことを、アメリカ自身が事後的に記録したにすぎない。
セキュリティダイヤモンド構想(2012年)
2012年12月27日、第二次安倍政権の発足翌日、安倍は国際NPO団体Project Syndicateのウェブサイト上に「Asia's Democratic Security Diamond」と題する英語論文を個人名で発表した。この論文で安倍は、日本・オーストラリア・インド・アメリカ(ハワイ)の四カ国を菱形に結ぶことで、インド洋と太平洋における貿易ルートと法の支配を守る「セキュリティダイヤモンド」を形成する戦略を提示した。
注目すべきは、この論文が英語で、海外メディアに向けて発表されたという事実である。日本国民に向けてではなく、ワシントンの政策コミュニティに向けた「売り込み」であった。安倍がジャパンハンドラーに対して、「日本はアメリカの対中封じ込め戦略を自発的に推進する用意がある」と表明した文書である。安倍はこの論文で南シナ海が「北京湖」(Lake Beijing)になりつつあると警告したが、これはワシントンの鷹派の言語そのものであった。
第一次Quad構想と中国の反発
2007年、安倍政権は日本・アメリカ・オーストラリア・インドの四カ国による戦略対話の枠組み、いわゆる「Quad」(Quadrilateral Security Dialogue)を発足させた。同年5月にはマニラでQuad初の高官協議が行われ、四カ国の海軍による「マラバール」合同海軍演習も実施された。
しかし、中国はこの動きに激しく反発した。中国政府は四カ国それぞれに外交的圧力をかけ、特にオーストラリアのケビン・ラッド新政権(2007年12月就任)はQuadからの離脱を決定した。インドも中国との関係悪化を懸念して距離を置き、第一次Quadは事実上消滅した。
この経緯が示すのは、FOIPの前身が最初から対中封じ込めの軍事的枠組みとして認識されていたということである。「法の支配」「航行の自由」という建前とは裏腹に、その実態は中国を標的とした安全保障協力であり、だからこそ中国が強く反発し、関係国も参加を躊躇したのである。
TICAD VIでの正式提唱(2016年)
2016年8月27日、第二次安倍政権の安倍は、ケニア・ナイロビで開催されたTICAD VI(第6回アフリカ開発会議)の基調演説において、「自由で開かれたインド太平洋戦略」(Free and Open Indo-Pacific Strategy)を正式に提唱した。安倍は、太平洋からインド洋、さらにアフリカ大陸に至る広大な地域を一つの戦略空間として位置づけ、「法の支配に基づく自由で開かれた海洋秩序」の維持を訴えた。
注目すべきは、この演説がアフリカの地で行われたという点である。これは単なる偶然ではない。中国の一帯一路構想(Belt and Road Initiative)がアフリカにおいて急速に影響力を拡大していたことへの対抗措置であった。FOIPは最初から、中国の地政学的台頭に対するカウンター戦略として設計されていたのである。
「戦略」から「構想」への名称変更
当初、日本政府はFOIPを「自由で開かれたインド太平洋戦略」(Strategy)と呼んでいた。しかし、2018年頃からASEAN諸国を中心に「戦略」という名称への懸念が示された。ASEAN諸国は米中対立の間に挟まれることを望まず、「戦略」という軍事的な響きを持つ名称に警戒感を示したのである。
日本政府はこれを受けて、名称を「自由で開かれたインド太平洋構想」(Vision)に変更した。しかし、名前を変えたところで中身が変わるわけではない。対中封じ込めの軍事的性格は「構想」になっても何ら変わっていない。名称変更は、ASEAN諸国の警戒を和らげるための化粧直しにすぎなかった。
構想の三本柱とその欺瞞
FOIPは以下の三つの柱から構成されるとされる。しかし、それぞれの柱を批判的に検討すれば、「普遍的価値」の名のもとにアメリカの覇権的利益が追求されている構造が浮かび上がる。
第一の柱:「法の支配」と「航行の自由」
FOIPの第一の柱は、「法の支配に基づく国際秩序」の維持と「航行の自由」の確保である。具体的には、南シナ海における中国の人工島建設と領有権主張に対抗し、国連海洋法条約(UNCLOS)に基づく海洋秩序を守るべきだと主張する。
しかし、ここには決定的な矛盾がある。アメリカ自身が国連海洋法条約を批准していない。FOIPが依拠する「法の支配」の根幹をなす条約を、その最大の推進者であるアメリカが受け入れていないのである。アメリカは自国の軍事的行動の自由を制約しうるあらゆる国際法的枠組みを拒否しつつ、他国に対しては「法の支配」を守れと要求する。これは法の支配がアメリカによる遠隔支配の道具であることの典型的な証左である。
アメリカ海軍が南シナ海で実施している「航行の自由作戦」(Freedom of Navigation Operations, FONOPs)も同様の欺瞞を含んでいる。アメリカはこの作戦を「国際法に基づく航行の自由の維持」として正当化するが、その実態は、中国の領有権主張を軍事的に否定するための示威行動である。航行の自由は、アメリカ海軍が世界中の海域を自由に航行し、軍事力を投射するための原則であり、それ自体がアメリカの海洋覇権の法的基盤にほかならない。
アルフレッド・マハンが『海上権力史論』で論じた通り、制海権を掌握する国家が国際秩序を支配する。「航行の自由」とは、マハン的な意味での制海権のリベラルな言い換えである。
第二の柱:経済的繁栄
FOIPの第二の柱は、「質の高いインフラ」投資と「連結性」の向上による経済的繁栄の追求である。日本はアジア開発銀行(ADB)やJICAを通じたインフラ投資を推進し、中国の一帯一路に対抗する「質の高いインフラ」を売りにしている。
しかし、この「経済的繁栄」の本質は、アメリカ主導の経済秩序にインド太平洋地域を組み込むことである。「質の高いインフラ」とは、透明性、環境基準、債務の持続可能性といった「ルール」に基づくインフラを意味するが、これらの「ルール」はアメリカと先進国が設定したものである。中国の一帯一路がこの「ルール」に従わないことを批判することで、中国を国際経済秩序から排除し、アメリカ主導の経済秩序を維持する。
帝国主義の本質が「市場化されていないものの市場化」にあることは、帝国主義の記事で詳述した通りである。FOIPの経済的側面もまた、インド太平洋地域の経済をアメリカ主導の資本主義的市場に組み込むための枠組みにほかならない。「質の高いインフラ」の名のもとに、途上国の公共インフラが民営化され、外国資本のアクセスに「開かれる」。これは新自由主義的帝国主義の現代的形態である。
第三の柱:平和と安定
FOIPの第三の柱は、「平和と安定の確保」である。具体的には、海上法執行能力の構築支援、人道支援・災害救援、不拡散などを含む。日本は東南アジア諸国に対して巡視船の供与や海上保安能力の構築支援を行っている。
この「平和と安定」の支援は、表面上は善意の国際協力に見える。しかしその実態は、アメリカの戦略的利益に合致する安全保障ネットワークの構築である。日本がフィリピンやベトナムに巡視船を供与するのは、これらの国々の海上法執行能力を高めることで、南シナ海における中国の活動を牽制するためである。「能力構築支援」とは、対中封じ込めの最前線にある国々を軍事的に強化するための援助にほかならない。
日米豪印戦略対話(Quad)
Quadの復活と制度化
2017年11月、ドナルド・トランプ政権下のアメリカ、安倍政権の日本、マルコム・ターンブル政権のオーストラリア、ナレンドラ・モディ政権のインドの四カ国は、ASEAN関連首脳会議の機会を利用して「Quad」を復活させた。2007年に中国の圧力で一度は消滅した枠組みが、10年を経て蘇ったのである。
Quadの復活は、中国の軍事的・経済的台頭が2007年とは比較にならないほど進んだことへの対応であった。南シナ海における人工島の軍事拠点化、一帯一路構想によるインフラ投資の拡大、AIIB(アジアインフラ投資銀行)の設立など、中国はアメリカ主導の国際秩序に対する本格的な挑戦を開始していた。
2021年3月、バイデン政権下で初のQuad首脳会談がオンラインで開催され、同年9月にはワシントンD.C.で対面での首脳会談が実現した。Quadは高官協議から首脳レベルの定期会合へと格上げされ、ワクチン供給、気候変動、重要技術、サイバーセキュリティ、宇宙など、安全保障を超えた幅広い分野での協力が合意された。
Quadの本質:「アジア版NATO」への布石
Quad四カ国の政府は、Quadが「特定の国を標的にしたものではない」と繰り返し強調する。しかし、この主張を真に受ける者はいない。Quadが中国を標的とした安全保障枠組みであることは、その構成国の地理的配置からも、議論の内容からも、軍事演習の実態からも明白である。
四カ国海軍による「マラバール」合同海軍演習は、2020年からオーストラリアが正式参加し、四カ国すべてが参加する形で毎年実施されている。空母打撃群を含む大規模な海上演習は、「人道支援」や「災害救援」の名目では説明がつかない。これは明確に中国海軍を念頭に置いた軍事演習である。
Quadは現時点ではNATOのような軍事同盟条約を持たない。しかし、首脳レベルの定期会合、共同軍事演習、情報共有の枠組みが着実に構築されつつあり、事実上の「アジア版NATO」への布石が着々と打たれている。AUKUS(米英豪安全保障協力)の創設(2021年9月)は、この動きをさらに加速させた。
日本にとってQuadへの参加は、日米安全保障条約に基づく二国間同盟をインド太平洋全域に拡大する動きにほかならない。ジャパンハンドラーがアーミテージ・ナイ報告書で繰り返し要求してきた「日米同盟の地理的範囲の拡大」が、Quadを通じて実現されつつある。
アメリカのインド太平洋戦略との融合
太平洋軍からインド太平洋軍への改名
2018年5月30日、アメリカ軍は「太平洋軍」(United States Pacific Command, PACOM)を「インド太平洋軍」(United States Indo-Pacific Command, INDOPACOM)に改名した。この改名は単なる名称変更ではない。アメリカの軍事戦略が太平洋からインド洋に至る広大な地域を一つの戦略空間として統合的に管理する方向に転換したことを象徴する出来事であった。
この改名は、安倍が提唱したFOIPの概念枠組みをアメリカ軍が公式に採用したことを意味する。しかし実態はその逆である。アメリカは2000年代初頭から太平洋とインド洋を統合した戦略空間として構想しており、安倍のFOIPはそのアメリカの戦略的ニーズに日本が「名前」を与えたにすぎない。
INDOPACOMの管轄範囲は、アメリカ西海岸からインド洋西端、北極圏から南極に至る広大な地域をカバーし、世界人口の半分以上を含む。この範囲こそが、FOIPが実際に覆う「戦略空間」の実態を示している。それは「自由で開かれた海洋」の維持ではなく、地球上の最も人口が密集し、経済的に重要な地域全体に対するアメリカの軍事的支配の維持にほかならない。
トランプ政権のインド太平洋戦略
2017年12月、トランプ政権は「国家安全保障戦略」(NSS)においてインド太平洋を「最優先の戦域」と位置づけた。翌2018年にはジェームズ・マティス国防長官が「国家防衛戦略」(NDS)を発表し、「大国間競争」(Great Power Competition)を安全保障上の最大の課題として明記した。ここでいう「大国間競争」とは、事実上、中国との覇権争いを意味する。
トランプ政権は「自由で開かれたインド太平洋」の名称を公式に採用し、2019年6月には国防総省が「インド太平洋戦略報告書」(Indo-Pacific Strategy Report)を公表した。この報告書は、中国を「修正主義勢力」(revisionist power)と呼び、中国の軍事的台頭がアメリカの「ルールに基づく国際秩序」を脅かしていると断じた。
注目すべきは、トランプ政権がFOIPを推進する一方で、TPPからの離脱を決定したことである。アメリカは「経済的繁栄」を掲げながら、自由貿易の枠組みからは離脱した。これはFOIPの「経済的繁栄」の柱が本質的にはアメリカの経済的利益の追求であり、それが損なわれる場合にはアメリカ自身がルールを無視することを如実に示している。
バイデン政権のインド太平洋戦略
2022年2月、バイデン政権は「インド太平洋戦略」を公表した。この文書は、インド太平洋を「21世紀の地政学の中心」と位置づけ、以下の五つの目標を掲げた。
- 自由で開かれたインド太平洋の推進
- 地域の内外における連携の構築
- インド太平洋における繁栄の推進
- インド太平洋の安全保障の強化
- 地域の越境的脅威への対処
バイデン政権のインド太平洋戦略は、トランプ政権の対中強硬路線を基本的に継承しつつ、同盟国・パートナー国との連携をより重視する点に特徴がある。Quadの首脳レベルへの格上げ、AUKUSの創設、日米韓三カ国協力の強化など、多国間の枠組みを通じた対中包囲網の構築が進められた。
第二次トランプ政権の動揺
2025年に発足した第二次トランプ政権は、FOIPの枠組みに不確実性をもたらしている。トランプは「アメリカ第一主義」を掲げ、同盟国に対して防衛費の大幅増額を要求するとともに、関税攻撃を同盟国にも容赦なく適用している。日本に対しても、自動車関税の引き上げや農産物市場の開放要求が強化されている。
この動きは、FOIPの根本的な矛盾を露呈させている。FOIPは「共通の価値観を持つ国々の連帯」を標榜するが、アメリカ自身が同盟国を経済的搾取の対象として扱う以上、「共通の価値観」は空虚な修辞にすぎない。FOIPの本質が対中封じ込めのための軍事的枠組みであり、「共通の価値観」がその化粧に過ぎなかったことが、トランプ政権によって図らずも暴露されている。
軍事的実態
米軍の再編と日本の役割拡大
FOIPの推進と並行して、在日米軍の再編と日本の軍事的役割の拡大が急速に進められている。
2015年の「日米防衛協力のための指針」(新ガイドライン)は、日米の軍事協力の地理的範囲を「日本周辺」から「グローバル」に拡大した。これにより、日本の自衛隊は事実上、アメリカのインド太平洋戦略の一部として機能する体制が構築された。
2022年12月、岸田文雄政権は「国家安全保障戦略」「国家防衛戦略」「防衛力整備計画」の安保三文書を閣議決定し、防衛費のGDP2%への引き上げ、敵基地攻撃能力(反撃能力)の保有、トマホーク巡航ミサイルの購入を決定した。これらはすべて、アーミテージ・ナイ報告書が長年にわたって要求してきた内容そのものである。
2024年7月には、在日米軍の指揮統制機能を強化する「在日米軍の統合軍司令部への格上げ」が日米両政府間で合意された。これは、在日アメリカ軍がインド太平洋戦略の実行部隊としての機能を強化することを意味する。
日本の軍事的従属の深化
FOIPを通じた日本の軍事的役割拡大は、日本の自主防衛への道ではない。むしろ、アメリカの軍事戦略への日本の組み込みの深化である。
防衛費の増額は、その大部分がアメリカ製兵器の購入に充てられる。トマホーク巡航ミサイル、F-35ステルス戦闘機、イージス・システム搭載艦。日本の防衛費の増額は、アメリカの軍需産業に利益をもたらし、日本の兵器体系をアメリカに依存させる構造を強化する。自国で兵器を開発・製造する能力を失えば、日本はアメリカから兵器の供給を断たれるだけで軍事的に機能不全に陥る。これは従属であって防衛ではない。
ケネス・ウォルツが『国際政治の理論』で指摘した通り、同盟関係における弱小パートナーは、大国の戦略に引きずり込まれるリスクを常に負う(「巻き込まれの恐怖」)。FOIPを通じて日本がアメリカの対中封じ込め戦略に深く組み込まれることは、日本が望まない米中対立に「巻き込まれる」危険性を飛躍的に高めている。
ASEAN諸国の反応と「踏み絵」の構造
ASEANの戦略的中立と苦悩
ASEAN(東南アジア諸国連合)諸国は、FOIPに対して複雑な態度を取っている。ASEAN諸国にとって、中国は最大の貿易相手国であると同時に、南シナ海における領有権紛争の当事者でもある。
2019年6月、ASEANは独自の「インド太平洋に関するASEANアウトルック」(AOIP: ASEAN Outlook on the Indo-Pacific)を採択した。AOIPは、ASEAN中心性(centrality)の維持、包摂性(inclusiveness)、対話と協力を原則として掲げ、特定の国を排除しない枠組みを志向している。これはFOIPの排他的な対中封じ込めの性格に対するASEANの明確な「否」であった。
しかし、日米はASEANの懸念を事実上無視し、AOIPとFOIPの「相互補完性」を強調することで、ASEANをFOIPの枠組みに引き込もうとしている。日本政府はFOIPとAOIPが「本質的に共通する」と主張するが、FOIPが中国を排除する性格を持つ以上、中国を含む包摂的な枠組みを志向するAOIPとは根本的に異なる。
フィリピンとベトナム:米中対立の最前線
ASEAN諸国の中でも、フィリピンとベトナムは南シナ海の領有権紛争において中国と直接対峙しており、FOIPの枠組みに最も積極的に関与している。
フィリピンはマルコス・ジュニア政権(2022年就任)のもとで対米関係を急速に強化し、2023年にはアメリカ軍の使用可能な基地を4カ所追加する「強化防衛協力協定」(EDCA)の拡大に合意した。これは、フィリピンからの米軍撤退の記事で論じた1991年の米軍基地撤退を事実上覆す動きである。フィリピンは、南シナ海の紛争を理由に、再びアメリカ軍の前方展開拠点として利用されようとしている。
しかし、フィリピンの歴史が示す通り、アメリカ軍の駐留が被駐留国の主権を侵害する構造は変わらない。フィリピンは南シナ海の「自由と開放」のために、自国の主権をアメリカに差し出しているのである。
「踏み絵」としてのFOIP
FOIPは、インド太平洋地域の国々に対する一種の「踏み絵」として機能している。FOIPに参加するか否かは、事実上、米中対立においてどちらの側に立つかの表明を意味する。
中小国にとって、これは極めて不利な構造である。FOIPに参加すれば中国との経済関係が損なわれるリスクを負い、参加しなければアメリカからの安全保障上の支援が得られないリスクを負う。いずれにしても、中小国の民族自決権と国家主権が大国の戦略に従属させられることに変わりはない。
FOIPが「自由で開かれた」秩序を標榜しながら、実際には各国にアメリカかの側につくことを強要する構造は、FOIPの「自由」がアメリカの覇権を前提とした「自由」であることを如実に示している。
リアリズムの観点からの分析
モーゲンソーの権力政治論から見たFOIP
ハンス・モーゲンソーは『国際政治―権力と平和』において、国際政治の本質は権力闘争であり、国家はイデオロギーや道義を掲げながらも、その背後では常に権力の極大化を追求すると論じた。FOIPはこの命題の典型的な例証である。
「法の支配」「航行の自由」「民主主義」「人権」。FOIPが掲げるこれらの「価値」は、モーゲンソーの言葉を借りれば「政策のイデオロギー的正当化」にほかならない。アメリカはインド太平洋における覇権的地位を維持するという権力政治的目的を追求しているが、それを「普遍的価値」の言語で包むことで、自国の権力追求を道義的に正当化している。
モーゲンソーが警告した通り、国家がイデオロギーを外交政策の基盤とするとき、外交は柔軟性を失い、妥協が不可能になる。FOIPの推進は、米中関係を「価値観の対立」として枠づけることで、協調と妥協の余地を狭め、対立を構造化する危険を孕んでいる。
ウォルツの構造的リアリズムから見たFOIP
ケネス・ウォルツの構造的リアリズムの観点からは、FOIPはアメリカの一極体制を維持するためのバランシング戦略として理解される。中国の台頭により国際システムの権力構造が一極から多極に移行しつつある中で、アメリカは同盟国を結集して中国の台頭を封じ込め、一極体制を延命させようとしている。
しかし、ウォルツの理論が教えるのは、一極体制は本質的に不安定であり、やがて多極体制に回帰するということである。覇権国がいかに同盟を組織し、制度を構築しようとも、権力の分散という構造的な力に逆らい続けることはできない。FOIPは、衰退する覇権国の「制度化された抵抗」であり、長期的には国際システムの構造的変動によって意味を失う運命にある。
日本にとってより深刻な問題は、ウォルツが指摘した同盟の「巻き込まれ」のリスクである。日本がFOIPを通じてアメリカの対中封じ込め戦略に深く組み込まれることは、アメリカの覇権維持のための戦争に日本が「巻き込まれる」危険を意味する。とりわけ台湾有事は、日本が直接の利害を持たないにもかかわらず、FOIPとQuadの枠組みを通じて軍事的関与を求められる可能性が極めて高い。
ミアシャイマーの攻撃的リアリズムから見たFOIP
ジョン・ミアシャイマーは『大国政治の悲劇』において、大国は安全保障を最大化するために地域覇権を追求すると論じた。そしてアメリカは、自国が西半球における地域覇権を確立した上で、他の地域における潜在的覇権国の台頭を阻止する戦略を採ると分析した。
FOIPは、まさにミアシャイマーが論じた「オフショア・バランシング」(offshore balancing)の変形として理解できる。アメリカは自ら前面に立つのではなく、日本・オーストラリア・インドといった地域の大国を動員して中国の台頭を封じ込める。ミアシャイマー自身は、日本がアメリカの戦略に過度に組み込まれることに懐疑的であり、日本は自前の核抑止力を含む自主防衛能力を構築すべきだと示唆している。
ミアシャイマーの分析が示唆するのは、FOIPを通じた対中封じ込めがアメリカの覇権維持戦略であることは明白であり、日本はそのための「使い走り」として利用されているということである。日本が真に安全保障を追求するのであれば、アメリカの戦略に従うのではなく、独自の軍事力と外交的自立を追求しなければならない。
日本の国益とFOIPの乖離
FOIPは日本の「主体的な外交戦略」として喧伝されるが、日本の国益とFOIPの目的は根本的に乖離している。
第一に、FOIPは日本の対米自立を妨げる。FOIPの枠組みに深く組み込まれることで、日本はアメリカの軍事戦略から離脱することがますます困難になる。防衛費の増額はアメリカ製兵器の購入に充てられ、軍事技術のアメリカへの依存は深まる一方である。FOIPは日本の自主防衛への道を閉ざし、対米従属を固定化する装置として機能している。
第二に、FOIPは日本を米中対立の最前線に押し出す。台湾有事が発生した場合、FOIPの枠組みを通じて日本は自動的にアメリカ側の戦争当事国となる。しかし、台湾海峡の紛争はアメリカの覇権維持のための戦いであって、日本民族の生存のための戦いではない。日本がアメリカの代理として中国と戦争するリスクを負う理由はない。
第三に、FOIPは東アジアの安定を損なう。FOIPの推進は中国との対立を構造化し、東アジアにおける軍拡競争を加速させている。日本の安全保障にとって最も重要なのは、東アジアの安定と平和である。対中封じ込めのために東アジアの緊張を高めることは、日本の国益に反する。
国際政治―権力と平和の記事で論じた通り、日本の国益は「自由で開かれたインド太平洋」ではなく、日本民族の生存と自律である。この国益を権力の観点から追求する外交政策を構築しなければならない。FOIPに依存する限り、日本の外交はワシントンの戦略的計算に従属し続ける。
参考文献
- ハンス・モーゲンソー『国際政治: 権力と平和』(Politics Among Nations)
- ケネス・ウォルツ『国際政治の理論』(Theory of International Politics, 1979年)
- ジョン・ミアシャイマー『大国政治の悲劇』(The Tragedy of Great Power Politics, 2001年)
- アルフレッド・マハン『海上権力史論』(The Influence of Sea Power upon History, 1890年)
- 安倍晋三「二つの海の交わり」インド国会演説(2007年8月22日)
- 外務省「自由で開かれたインド太平洋」
- CSIS「The U.S.-Japan Alliance: More Important Than Ever」(第4次アーミテージ・ナイ報告書、2018年)
- 米国防総省「Indo-Pacific Strategy Report」(2019年6月)
- ホワイトハウス「Indo-Pacific Strategy of the United States」(2022年2月)